萱野稔人さんに寄れば国家とは「暴力に関わる運動」だと概念規定される。国家というのは、何か暴力が関わるような現象があったとき、すなわち国家ではないいずれかの主体が暴力行使をしたときに、その主体を取り締まり処罰する権能を持つ。暴力行為に反応して、それに何らかの対処をするという意味で、国家は「暴力に関わる運動」なのである。
国家は、どこかで暴力行為が行われたときに、その暴力行為と関係なくそれを見過ごしているわけにはいかない。それを許容するにしても、許容することに理由をつけて、自らの権限の中で許容することを示さなければならない。国家は、国家以外のものが自由に暴力を行使することを許さない。国家のみが、暴力を行使することを正当化(=合法化)する権利を持っている。 国家は、国家以外の暴力を許さずそれを取り締まるのだが、その際に使われるのは、取り締まりの対象になる主体よりも強大な暴力だ。暴力を暴力で取り締まるのだが、これは、当然のことながら、取り締まる対象よりも絶対的に強くなければ取り締まることが出来ない。国家は、少なくともその領域内では絶対的に強大な暴力を保持するものとして現象する。 このような考察は、現実の「国家」と呼ばれる対象を観察して得られている部分もあるが、観察のみから得られる「事実」として語られているものではない。「国家」と呼ばれる存在が、警察あるいは軍隊という暴力装置を常にもっているからといって、その現実から国家の暴力保持の必然性やその絶対的強さを引き出すことは出来ない。現実の国家の暴力装置が、その社会における最強の暴力装置であったとしても、だから、国家の暴力装置は絶対的に強くなければならないという論理的な帰結は出来ない。現実の観察から得られるのは、あくまでも、今はそうなっているという事実を語ることが出来るだけだ。 萱野さんが語る国家の暴力装置の絶対的強さは、国家というものを概念規定したときに、そういうものでなければ国家という対象そのものが、その概念に従って存在するといえなくなるからこそ、論理的な帰結として国家の暴力装置は最強でなければならないというものが出てくるのである。現実の観察から得られる判断ではない。むしろ、現実の国家の暴力装置が、その社会の中で絶対的な強さを持つことが出来なければ、萱野さんの概念規定から言って、そのような国家はもはや国家としての存続が出来なくなり、国家が消えてしまう。つまり、新たな権力者が、新たな国家を打ち立てるということになっていく。暴力による革命の歴史というのは、このような概念規定によって必然性を理解することが出来るだろう。フランスでもロシアでも、皇帝の軍隊は、その社会での最強の軍隊でなくなったので、皇帝の国家は存続する基盤を失ったのである。 国家が「暴力に関わる運動である」という概念規定は、現実の観察の事実として得られたものではなく、抽象の過程を経て得られた概念規定である。これが、どのような過程を経て抽象されたものであるかを理解することが、最近の一連のエントリーの目的だ。この抽象の過程からは、国家にとって暴力装置(すなわち警察と軍隊)が必要不可欠のものであるという判断も出てくる。これなしに国家は概念規定できない。警察と軍隊のない社会を夢見るのは、国家が消滅する社会を夢見ることと同じだ。 僕は、今まで警察と軍隊は、国民を守るというよりも、支配層の権力者に奉仕するためのものでむしろ国民を弾圧するものとして捉えていた。これは、おそらく左翼的な思想がかなり身に染み付いていることからくる感覚ではないかと思う。警察と軍隊に対してそのような先入観を持っているので、それを信頼するよりは監視することの重要性を感じたりする。 しかし、警察と軍隊がもしそのような存在であるなら、日本社会はいまだに近代化されていない、暴力装置が国家の元に統合されていない、権力者という個人がそれをコントロールするという封建社会並の遅れた社会ということになってしまうような気がする。警察と軍隊は確かに諸刃の剣であって、それは不正な暴力を取り締まるには絶対的な強さを持たなければならないが、権力者によって不正な使われ方をすれば、国民を弾圧するものになってしまう。近代社会であるならば、このような、権力者に恣意的に使われてしまうような使われ方をしないように、国民がコントロールするという意識が必要ではないかと思う。近代社会に生きる人間は、警察と軍隊を毛嫌いするのではなく、それを国家にとって必要な装置として有効に機能するように、そのメカニズムをこそ理解する必要があるのではないかと思う。 警察や軍隊を毛嫌いするメンタリティというのは、敗戦によって戦争前をすべて否定的に扱ってきた戦後社会の問題があるように感じる。小室直樹氏によれば、敗戦前までの日本では、明治維新初期はもちろんのこと、むしろ軍人は尊敬される存在として人々に見られていたそうだ。そして、実際にも軍人の中には立派な人物が多かったらしい。しかし、敗戦によって、日本軍がやったことはすべて悪いということにしなければならなくなって、軍隊はその存在そのものが悪だというようなメンタリティを日本人に植え付けた。 確かに軍隊は悪の面を見せることがある。暴力というものの負の側面は消し去ることが出来ない。しかし、その暴力によってしか不正な暴力を取り締まれないとしたら、不正な暴力から逃れるという国民にとっての利益が、暴力を毛嫌いすることから忘れ去られてしまうということが起こってくるだろう。明治維新後の日本は富国強兵政策によって、国家の領土と国民を守るだけの強い軍隊を持つことが出来た。それを持たなかったアジアの他の国はほとんどすべて植民地化されたが日本だけは植民地になることを免れた。暴力のプラス面がここには現れているのだが、今はそれは評価されていない。かつては、それが評価されて軍人に尊敬が集まったが、今では旧日本軍の軍人は体験を語ることさえはばかるようになっているのではないだろうか。 日本の軍隊が強さを誇っていただけに、その活動が行き過ぎて侵略にまで行き着いてしまったことは反省しなければならないだろうが、それは軍隊という暴力装置のコントロールに失敗したことに原因があるので、軍隊そのものが悪の存在であって、存在を否定しなければならない対象だと考えると、理論展開としては間違えるのではないかと思う。問題はコントロールであって、存在をなくせばそれで解決するのではないのではないか。軍隊の存在そのものを否定するのは、負の側面だけを見ているという偏った見方で抽象しているのではないだろうか。正しい抽象(本質を捉えているといえばいいだろうか)の過程で国家を見れば、そこには暴力装置が必要不可欠のものとして見えてくるのではないだろうか。 国家にとって暴力装置が必要不可欠なものだというのは、社会にとって暴力がなくなるものではないという思考からも導き出される。暴力のまったくない社会というのはユートピアではあるだろうが、現実にはそれは存在しない。これは事実として存在しないという意味と、社会という、人間と人間が関係している場では、他者への働きかけが意識するとしないとに関わらず暴力の契機を生むということから、暴力の消滅がありえないということを帰結するのではないかと思う。社会を構成しなければ暴力のない世界が実現するかもしれないが、社会がある限り暴力の種はなくならないのではないだろうか。 そうすると、マル激で萱野さんが語っていた表現だが、「コントロールされた暴力と、コントロールされない暴力ではどちらがましか」ということになる。コントロールされた暴力とは国家による暴力で、コントロールの源泉は法律ということになる。法に従うということで国家の暴力はコントロールされる。国家以外のものが使う暴力は、もし国家がなかったら、その主体が恣意的に振るうようになるだろう。コントロールはできなくなる。ケヴィン・コスナー主演の映画「ポストマン」で描かれていた近未来の社会は、そのような恣意的な暴力が支配する社会だった。 この映画では、アメリカ大統領の存在が人々の希望として描かれていた。つまり、国家が不正な暴力を取り締まるということが人々の希望として描かれていたと考えることが出来るだろう。国家の暴力装置であれば、それは恣意的に振るわれるのではなく、法律というコントロールのもとに、正当性を獲得しながら行使されるということが期待できるのではないかと思う。 萱野さんが語る国家概念を基礎にすると、死刑制度についても新たな視点での解釈が出来る。死刑というのは、残酷な犯罪をした犯罪者に正義の処罰をするためにある制度ではないのだ。国家にとっては、殺人という最高の暴力を行使することの正当性を見せるために、死刑という制度が有効に働くということが、死刑制度の存続のための理由になるということが、萱野さんの国家概念から導かれる。萱野さんは次のように書いている 「死刑における殺人が合法なのは、殺人を行う主体と、合法/違法を判断する主体とが同一であるからである。殺人を合法なものと違法なものとに分ける権限をもつもののみが、合法的な殺人を行うことが出来るのだ。 死刑にとって本質的なのは、したがって、「法を決定する権力が、殺人を行う権限を保持している」という事態に他ならない。合法なものと違法なものを決定しながら殺人を行う権利、これが死刑の基盤となっているのである。決定と執行の一致といってもいいだろう。」 死刑の廃止という問題も、国家の暴力装置のコントロールという点で考えることが出来るのではないだろうか。死刑という制度は、国家の暴力装置としての機能をよく実現するための制度だ。国家を動かそうとする人間にとっては、このように有効な機能を手放すことはしにくいのではないかと思う。この機能は、あまりにも有効性が高いので、その使い方を失敗すれば、国民に大きな害を与えるものとして襲い掛かる。このバランス感覚において、国民のどれだけの人間が、死刑廃止のほうが国民にとっては利益だと考えられるかどうかに、死刑廃止が出来るかどうかのカギがかかっているように思う。死刑制度を持たなくとも、国家の暴力装置が有効に働くという社会であれば、死刑が廃止されても国家の暴力装置は揺るがないものになるのではないかと思う。 光市の母子殺人事件では、被告の元少年に死刑判決が出されるかどうかが注目されている。これも、この元少年に死刑判決を出すことによって、国家がその暴力装置としての有効性をアピールすることになるようであれば、死刑判決が出される可能性がある。しかし、国民が、そのようなことをせずとも警察という暴力装置が有効に働いているという感覚を持っていれば、死刑判決で暴力装置の強大さを見せつけるよりも、元少年に対する教育機能のほうを重視するのではないかと思われる。 元少年の行為が死刑に値するかどうかという道義的な面での判断は客観的には出来ない。立場によって異なる判断が出てくるだろう。法律に照らして死刑判決が妥当かどうかは、殺意という意志の問題や計画性などの面が考慮されて判断されるだろう。だから、その意味で殺意の問題や計画性について弁護側が主張するのは当然のことだ。それに対して、ワイドショーのある司会者が、「白を黒と言いくるめるような」という表現を使っていたが、殺人が行われたという事実をひっくり返すようなことを主張していたのではないから、これは事実誤認の感情的な言葉ではないかと感じた。 この問題は、当事者が感情的になるのは仕方がないといえるが、国民の一人としては、国家が死刑という姿勢を見せて、自らの暴力行使の方向性を打ち出すかどうかに注目しなければならないと思っている。強さをことさら強調したいように見えるなら、実際の国家の暴力に強さが欠けているのではないかと思えるからだ。本当には強くない、正当性を守ることも疑わしいから、見かけだけでも強く見せるために死刑判決を出す可能性というのを感じる。犯罪に対して断固として対処するのだという姿勢を強調しようとするのではないかと感じる。断固として対処するという姿勢は、見せ掛けだけでも今の安倍政権の姿勢と通じるところがあるのを感じるからだ。だが、強く見えるだけというのは、国家としては本当の強さを持っていないからだというのが、萱野さんの国家概念を通じて出てくるものではないかと僕は感じる。
by ksyuumei
| 2007-07-28 14:15
| 論理
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