萱野さんは国家の定義の考察をウェーバーの次の言葉を取り掛かりにして始めている。
「国家とは、ある一定の領域の内部で--この「領域」という点が特徴なのだが--正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」 ウェーバーは「正当な物理的暴力行使の独占」という言葉に強調の傍点をつけているようだ。この定義は、萱野さんの「運動である」という定義とは微妙な違いを感じはするものの、暴力に関わる運動に関係しているという点でつながるものは感じる。これを取り掛かりにして、萱野さんが目的とする理論展開によりふさわしい定義を求めると「運動」というものに行き着くのかもしれない。そういう意味では、萱野さんが理論展開で目指しているものが何かを求めることが、萱野さんの国家定義の抽象の過程を理解するのに役立つかもしれない。 ウェーバーの定義に先立って、萱野さんは、国家の定義(すなわち概念)にはならないものとしてその目的を挙げている。国家が何らかの目的をもっているとき、その目的の特性によって国家を限定することができないということを語っている。つまり、目的の内容によって国家を抽象することが出来ないということを語っている。すべての国家に共通の目的というものが見つからないし、国家だけが持つ特有の目的というものも見つからないという指摘だ。 これは、言い換えると、あらゆる目的が条件次第で国家が追求するものになりうるということかもしれない。人間社会の集団的単位は、家族という小集団を考えることも出来、それを含む集団をだんだんと大きくしていくことで、親族・職業集団・学校・地域社会・より広い地域としての都道府県などというものが考えられる。そして、それぞれで抱える問題がある。このとき、家族だけで解決できない問題が生じたとき、それを地域社会で問題にして解決するということがあるかもしれない。この場合は、問題解決という目的が、家族のものであり同時に地域社会のものであるということになる。 同じように、小さな集団で抱えきれなくなった問題が、より大きな集団で解決が図られる。そのもっとも大きな単位として国家というものを考えると、小さな集団に通じる問題であっても、条件次第で国家の問題になりうるということになってくるだろう。老人の介護の問題は、かつては家族の問題であったり地域社会の問題であったりしたのだろうが、今では国家が解決すべき問題になっている。目的というものには、現実の条件から規定される弁証法性がある。同じものが、ある時は国家の目的になり、ある時は国家の目的にならない。このようなものは、定義としての概念規定にはふさわしくないということになるのだろう。客観的な判断が難しいからだ。形式論理的な扱いが出来なくなる。 ウェーバーは、「何によって国家を定義すべきか。目的ではなく手段によってである」という言葉を語っている。これは、目的ではないからそれでは手段だ、というような二者択一的な考えで理解すると間違えるだろう。定義する方向は、目的か手段かという二者択一的な選択肢ではなく、機能で定義してもいいし、ある種の能力で定義する方向もあるだろう。何故に手段を元に定義が考えられているかの理由を見出さなければならない。 これは、「あらゆる国家に見出される暴力行為という手段によって国家を定義すべきである」という言葉から想像できる。暴力行為という手段を持たない国家は見つからない。現実的な国家は暴力行為という手段を持つという点で抽象される。すべての国家がこの特徴を持つ。そして、これが抽象されることによって、その他の付随する特徴は、誤差として捨象される。たまたま具体的な国家のどれかが持っていたとしても、それは偶然そのようになっていると解釈され、国家の必然性とは結び付けられなくなる。 暴力行為という手段の存在、すなわち暴力行使をするということで国家が抽象されるので、それを概念構築に利用し定義を定めることになる。これ以外に国家を抽象するものが見つからなければ、これが唯一国家の定義としてふさわしいものになるだろう。他に抽象できるものがあるかどうかは、今のところは分からないが、とりあえず暴力行使というものが見つかったので、これを取っ掛かりにして国家の概念を作ってみようという感じだろうか。 さて、暴力行使をしない国家は今まで存在しなかった。おそらくこれからも存在しないだろう。国家が存在する限り暴力と縁を切ることは出来ない。だから、絶対的平和主義者は、国家の解体をしない限り自らの思想に忠実であることが出来ない。しかし、国家の解体は、暴力を使って実現する以外にないので、絶対的平和主義は、ここで超えることの出来ない矛盾を抱えることになる。 絶対的平和主義は、現実性を持たないので、現実的であろうとする人間は、国家の暴力をどう都合よく利用するかを考えなければならないだろう。暴力行使の手段を持つということを国家の概念の一つにすれば、それをいかにコントロールするかという方向で理論展開をするしかなくなる。暴力装置という手段をなくしてしまえると考えるのは、数学的に不可能だと証明された問題の解答を見つけようとするようなもので、角の三等分をコンパスと直線定規だけでやろうとするようなことになるだろう。無駄な努力をせずにすむという点で、この国家概念は、人間の実践の有効な方向を指し示すという点で価値あるものではないかと思う。 国家が暴力という手段を持つということで抽象されることは分かったが、それだけでは概念としてまだ足りない部分がある。これは、国家の含まれる外堀の境界を確定するのだが、そこにはまだ国家でないものも多数含まれている。国家の概念としては、国家だけが持つ特性というものも見つけ出して、それによって国家とそうでないものとの境界をより明確にしなければならない。さらに捨象されるものを見出さなければならない。 それは萱野氏の指摘によれば、「正当な物理的暴力行使の独占」というもので、これを実効的に要求するのは国家のみであるというのだ。暴力行使をする人間共同体は他にもたくさんある。しかし、国家以外のそれら共同体の暴力行使は、すべて正当性を欠く。暴力行使の正当性を主張できるのは国家だけで、それを「実効的に要求する」というのが国家の特徴として挙げられる。これこそが、国家と他の存在を区別する本質に他ならない。 確かに現象を観察してみれば、国家以外の暴力行使は、国家によって取り締まりの対象になり、ある時は犯罪として国家によって処罰の対象にもなる。これは現実の抽象としては、現実をよく反映しているように見える。現実に有効性を持っている抽象であり概念であるように見える。しかしどこかに落とし穴があるようにも感じる。それは、この抽象から、「国家の暴力行使は正当性を持っている」という帰結を導きたくなると、そこに違和感が出てくるからだ。 社会的な存在は、人間の意志の自由が関わってくるので、それを抽象するときも人間の意志が関わって、そう思いたいものを抽象するということが起こる。これが自然科学的なもので、人間の意志と独立に存在している対象なら、そう思いたいものを抽象するのではなく、客観的な存在として注目している部分を引き出すための抽象になる。 質点というのは、質量が集まっている点で重心などと重なる。これは、現実にはそのような点はないのだが、力の釣り合いを考えると、そのような点を想定して抽象したほうが力学は捉えやすくなる。これは、人間がそう思いたいからそう抽象したのではなく、自然に存在する対象の観察から得られる抽象になっている。これに対し、国家を暴力装置として抽象するのは、それが暴力装置として機能している現実に生きている我々には、それ以外に考えようがないので抽象されているともいえる。 可能性としては、暴力が正当でない場合もいくらでも考えられるのに、現実の国家の存在が、不正な暴力を取り締まるのが国家の暴力であると考えられているため、抽象がその範囲を越えることが出来ない。つまり、この帰結は、始めから想定されているものであって、現実にそうなっているのは偶然の産物なのだが、それがあたかも必然であるかのように感じられるのが社会の中の存在であり、その抽象であるということになるだろうか。宮台氏的な表現を使えば、社会の中でシステムとして機能しているものは、確率的にはあり得ない状態を、システムの機能として実現しているので、そのシステムを抽象すれば当然のことながら、そのあり得ない状態こそが特徴として観察される。 このシステムは、それが生まれて機能するようになれば、他の可能性を排除してしまうので、システムの実現以外を許さない。だが、システムがまだなかった時は、果たしてそのシステムが実現している状況はどうなっていたのだろうか。国家がまだなかったときに、国家が成立する過程では、国家はいかにして暴力行使の正当性を獲得していったのだろうか。国家はまだ概念として生まれていないのであるから、人々は、その暴力行使に正当性を感じるというシステムから生まれる感覚を持っていないだろう。 すでに機能している国家の中で生きている我々は、目の前に存在している国家の現状からある種の抽象をして、その暴力装置こそが本質的なものであることを見るかもしれない。しかし、国家概念の抽象は、それだけでは足りないのではないだろうか。まだ国家が生まれなかった時間から、国家が誕生する過程を論理的に把握して、そこにこそ国家概念の形成が現れていることを見なければ、概念の抽象としては完結しないのではないだろうか。 この国家の成立過程で見られる暴力装置は、それが正当であることはまだ証明されていない。むしろ他を圧倒する絶対的な強さを見せることで独占を進めることが、国家としての正当性を獲得していくことにつながるというのが萱野さんが語っていることのように見える。つまり、最初は単に他よりも圧倒的に強いというだけの暴力が、やがてはそれのみが暴力の行使を制度的に正当化していくようになると見ているのではないだろうか。 国家の成立過程ではその暴力装置の正当性はまだ人々に承認されていないのではないだろうか。というよりも、正当性が認められたときに国家が誕生するといってもいいのではないだろう。そして、正当性が確立した後は、その正当性は正統性というものに変化すると萱野さんは指摘しているのだと僕は感じる。正統性とは、それが正しいがゆえに信頼されるのではなく、それが国家が行うものであるという国家そのものに対する信頼性から逆に正しさが導かれるというようなものだ。 国家の暴力装置は、正当性が認められ、正統だと感じられたとき、その支配力がより強固になり安定したものになる。このメカニズムが、正当性と正統性をより高めることになり、システムとして安定したものになっていくのではないだろうか。そうすることによって、国家の支配も強固で安定したものになる。国家の概念の考察は、この側面で支配という権力の考察に入ることになる。萱野さんは、暴力と権力との関係の考察に進んでいる。これはどの点が似通っていて、どの点が違っているのか。その考察が、国家概念の抽象の過程にまた一つの深い理解を与えるのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2007-07-24 23:30
| 論理
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