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アルゴリズムの心地よさ

ナンバープレイス・イラストロジック・ループコースというパズルに共通するのは形式論理のみを使ってそのパズルの解答を求めるということだ。ナンバープレイスで言えば、ある数字がその枠に「入る」か「入らない」かという排中律と、同時に両方が成立しないという矛盾律を駆使して、その数字を決定する。イラストロジックでは、ある格子のマスを「塗りつぶす」か「塗らない」かということに形式論理を適用する。ループコースでは、正方形の4つの辺のうち、どの辺を実線で引くかという個数が示されている。この場合は、実線に「する」か「しない」かということに形式論理が適用される。

このパズルをやり始めた初心者の時は、どこに数字が入るか、どこが塗りつぶされるかを、一つずつ考えながら形式論理を展開していく。しかし、慣れてくるとそのうちに、このパターンは必ずこうなるはずだという法則のようなものがつかめてくる。一つのアルゴリズムが見えてくるのだ。そうなると、そのアルゴリズムに従う限りでは、そこでは最初にいろいろと試行錯誤をしたときのような思考の展開は無くなり、機械的に解答を書き入れていくようになる。

パズルというのは、マニアにとっては、考える過程が面白さを感じさせてくれるものなのだが、ほとんど考えることなく、機械的に解答を書き入れていくアルゴリズムが思った以上に心地よいことに気が付いた。それは、かなり面倒な作業で、しかも機械的であるから、やっているうちにいやになるのではないかとも思うのだが、そんなことは無く、同じことの繰り返しが非常に心地よい気分を与える。何時間繰り返していても飽きないと感じるくらいだ。



これは、数学屋としての僕の特殊性からくるものなのか、それとも、人間は一般的にアルゴリズムを好むものであるのかどうか、教育的には面白い観点からの考察ではないかと思う。もし一般的にアルゴリズムというものが人間に心地よさを与えるなら、アルゴリズムを教えるということは、教育的に非常に有効な方法だと思えるからだ。アルゴリズムの習得によって、学習は楽しいものになるだろうか。

アルゴリズムに似たものに、反復練習というものがある。これは初歩の段階でどうしても必要なもので、反復練習なしに初心者が初心者の段階を脱して上達することは出来ない。だが、この反復練習は、単調でつまらないものとして、初心者にはあまり歓迎されていない。

スポーツなどは、初心者と経験者の差がかなり出るものだが、初心者は複雑な動きを同時に制御しなければならないような練習をしていたのではなかなか上達しない。一つ一つの動きを単純化して、その動きのみを反復して練習したほうがいい。まずは一つの動きを身体に覚えさせて、その覚えた動きを後で総合して制御できるようにして初めて上達ということが出来る。そのような理屈が了解できると、つまらないと思える反復練習も、それを終えた後の上達している自分の姿を想像することで、つまらなさを乗り越えて面白さを発見することも出来る。だが、それが見えない間は、つまらない反復練習よりも、すぐに試合をするような面白い動きのほうを一般的には人間は好むのではないだろうか。

スポーツの練習で初心者を上達させるには、つまらないと思える反復練習を、面白い動きの中にどのようにして取り入れるかということが重要になるのではないかと思う。アルゴリズムにも同様の面があるように感じる。僕はアルゴリズムに心地よさを感じたが、これをつまらない反復練習のように感じる人もいるかもしれない。それは、どこに違いがあるからなのだろうか。

一つの違いを感じるのは、僕の場合はアルゴリズムを自ら発見していることだ。自らアルゴリズムを発見しているので、それが到達する先を見通すことが出来る。そのアルゴリズムが解答へ至る道でどのように利用されているかが分かりながらアルゴリズムを適用している。そのようなアルゴリズムは、単調な繰り返しにとどまらず、動的な変化を感じさせてくれる。これは、走るというような単調な運動で、ゴールのイメージを持ちながら走ることが出来ると、その単調さを少し解消できるということに通じる感覚ではないかと思う。

このアルゴリズムを、その手順だけを教えられて、反復練習として単調な繰り返しの練習にしてしまうと、そこには楽しさが失われてしまうのではないだろうか。自らアルゴリズムを発見するのではなく、手順を教えられることによって習得するものであっても、その終点が示されている場合は、単調な反復練習という受け止め方でなくなるのではないかとも感じる。

アルゴリズムが楽しいものになるのは、そのアルゴリズムの終点が良く見えているときなのではないだろうか。もしそのような状況でアルゴリズムを展開しているのであれば、アルゴリズムの楽しさは、一般的に誰もが感じるといえるのではないだろうか。これは、実りある努力を体験するということでもあるのかなと感じる。アルゴリズムは、それだけを取り上げれば、面倒な努力を要することでもある。しかし、その努力は到達点が保証されており、努力すれば必ず報われるというものになっている感じがする。人間は、報われる努力は嫌いではないのではないかと思う。それを楽しめるのではないかと感じる。

ジグソーパズルというのは、形式論理のみによって展開できるものではないので、僕はあまり好みではないのだが、それにはまる人の感覚は理解できるような気がする。それは、ゴールのイメージとしての完成された絵があることが大きいのではないかと思う。目指すべき目標がはっきりしていて、面倒な試行錯誤という努力が、報われる瞬間が自分にイメージできるので努力が続けられるのではないだろうか。しかもその努力が面白く感じられるのだと思う。

かつて三浦つとむさんは、「若さがゆえに希望があるか」というような問いかけをしていた。これは、そう言える場合もあるし、そう言えない場合もあるという、当たり前のことではあるが弁証法性を持っているという結論だった。若さに希望があるのは、そこに成長の喜びを感じることが出来る場合であり、成長よりもむしろ苦労が多く、絶望的な未来が待っているだけだと思えば、若さが故の希望はまったく無くなる。

「若いうちの苦労は買ってでもせよ」ということわざがあるが、この場合も、この苦労が実りあるものに結びつくのであれば「買ってでもせよ」と言えるが、実りあるものにまったく結びつかない苦労であれば、それは人間を消耗させるだけであり、人間をつぶす苦労になってしまう。

教育に携わる人間は、努力によって成長する過程というものを具体的に、さまざまな場合について想像できるだけの能力を持たなければならないだろう。そして、どのような努力が実りあるものに結びつき、人間を成長させるのか、どのような種類の努力が、人間を成長させるどころかつぶす方向で働いてしまうのかということをつかまなければならない。根性だけでは人間は成長しないというのを、教育に携わる人間は肝に銘じなければならない。

根性だけでは人間は成長できないが、根性がまったくなしで成長できるかというと、これも難しいものがある。三浦さんの弁証法に学んだと自ら語っていた武術家の南郷継正さんは、しごきの必要性というものを主張していた。しごきというのは、自らの限界を乗り越えて一歩高い段階へ到達するために必要不可欠のものであるという主張だった。

しかし、しごきは一歩間違えば、そこで人間をつぶしてしまう。しごきは、それに耐えられなければ人間をつぶしてしまい、教育効果は失われてしまう。しかし、簡単に耐えられるようなしごきでは、限界を一歩越えるというしごきの効果は薄れてしまう。しごきは、人間をつぶしてはいけないが、つぶすかどうか紙一重のところで課されなければならないという難しさをもっている。

しごきというのは、教育においては非常に高等な技術を要する、ハイレベルなものなのである。勢いだけで簡単に出来るものではない。相手の実力が教師以上に優れていれば、たいていのしごきには耐えてしまうだろうが、それは教育的な意味でのしごきとは呼べない。しごきに近い効果をもつ体罰に関しても同じことが言えるだろう。しごきや体罰は、教育の効果としては捨てがたいものをもっているが、それを正しく行える教育者は少ない。技術を持たない教師が、感覚的にしごきや体罰に走れば、それは大きな弊害を生むだろう。だから、一般的にしごきや体罰を禁止するのは正しいと思う。だが、本当に達人のような教師には、成長の壁を一歩越えさせるという点でしごきと体罰を使わざるを得ないところがあるようにも感じる。

しごきと体罰の有効性から、それを使うことの正当性が安易に導かれてはならないが、弊害が大きいからといってすべての教育からしごきと体罰を捨てるのは、大きな財産を捨てることにもなるのではないかと思う。難しいところだ。どのような条件を満たせば、この危険な教育技術を使ってもいいと言えるかを深く考察しなければならないだろう。南郷さんの言葉に学ぶところが大きいのではないかと思う。

アルゴリズムの教育への応用は、しごきと体罰ほどの深刻な影響を与えないものの、使い方を間違えれば教育効果が薄れるという点では同じ構造をもっているものと思われる。小学校3年生くらいまでの子どもは、算数の計算を好むという。100マス計算と呼ばれる単純な反復練習も喜ぶと言われている。これは、アルゴリズムの有効性をよく生かした教育になっているのだろう。

しかし、高学年になって小数や分数の計算が入ってくると、そのアルゴリズムは意味を理解することが難しくなり、単なる手順の記憶だけで行っていることが多くなる。そうなると、少数や分数の計算は、もはやアルゴリズムを楽しむということが出来なくなり、その面倒くささが苦痛になってくるという、アルゴリズムのもつマイナス面が大きくなる。

仮説実験授業研究会の新居信正氏は、分数の計算のアルゴリズムを発見的に理解することで、そのアルゴリズムの楽しさを見出すことに成功している数少ない教師だ。新居先生の授業は、一般化する可能性を持ってはいるものの、まだ新居先生の職人芸的なところが大きいものになっている。これを、遠山啓先生が作った水道方式のように、教育技術もアルゴリズム化して、誰もが出来るような形にすることは重要だろうと思う。分数計算の面倒さは、それを困難にしているだろうが、何とか発見的にアルゴリズムを習得できないものかと思う。

方程式の解法なども、移項などの技術はアルゴリズムの典型と言えるだろう。僕は、授業では移項のアルゴリズムを、香川県の田中先生が考案・製作した二重天秤を使って教えた。これは、実際の天秤の重りを動かすことと、移項のメカニズムを結びつけてそのアルゴリズムを発見しようとするものだ。移項というものを一度わかってしまった人間にとっては、これは確認することはやさしかったが、移項を知らない人間が発見するという点ではやや難しかったようだ。

ただ、方程式のアルゴリズムは、それを知らなかった人には心地よい作業として受け止められたようだ。始めは見当のつかなかった方程式の解が、アルゴリズムを使うことによって求められるというのは、知的な快感が得られるようだ。量子力学のアルゴリズムも、そのメカニズムを理解できて、発見的に習得できれば、極微の世界という今まではよく分からなかったものが見えてくるという快感を感じることが出来るのではないだろうか。アルゴリズムは、単に機械的な手順として記憶するものではなく、発見的に習得することで世界認識を広げることが出来、そうであればこそ心地よい・楽しいものになるのではないかと思う。
by ksyuumei | 2007-07-11 10:56 | 教育


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