無料で視聴できる第326回のマル激トークオンデマンドは、小林よしのり氏と萱野稔人氏を迎えてナショナリズムの問題を中心に議論をしていた。愛国心を教育基本法の中に盛り込み、愛国を叫んでいる安倍政権の中心にいるエリートたちがいかに愛国心に欠ける行為をしているかを皮肉をこめて批判しているところも面白いのだが、途中に挿入された、宮台真司氏の左翼批判が印象に残った。
宮台氏は、一つのエピソードを語りながらそれを左翼批判に結び付けている。それは、他の乗客がいるにもかかわらず、電車内で繰り返し強姦をしていた男がいたという事件に絡めたものだった。この男は、外見をやくざ風に装って、その行為を阻止しようとすれば自分が暴力的に襲われるように見えたらしい。だから、繰り返し同じようなことをしていたにもかかわらず、なかなかその行為を止めることが出来なかったようだ。 この男が犯罪行為を繰り返していたということは、その犯罪にかかわった人間は延べ人数にしたらかなり多いだろうと宮台氏は語っていた。発覚しなかった行為に関しては、そのときに関わった人間がみな見て見ぬ振りをしていたことになる。その男に直接対抗することは難しかっただろう。しかし、警察に通報するということくらいは出来たのではないかと思う。それすらなかったというのは、その無責任に対していくら非難されても仕方がないだろう。 宮台氏は、この無責任な乗客が左翼の姿に重なるという言い方で左翼批判を語っていた。これはちょっと説明を要するのではないかと思う。見て見ぬ振りをして、警察に通報するという出来ることさえやらずに、自分とのかかわりを拒否するという無責任さが、なぜ左翼も同じだという判断になるのか。 左翼の言説の中には国家批判というものがある。これは、国家に批判されるべき点があるということでは、そのこと自体は問題はない。しかし、国家の批判が、素朴に国家の否定につながり、国家に守られているという点を考慮の外に置きながら批判をするということであるなら、それは自分を棚上げにしているということで、見て見ぬ振りに通じるという解釈が出来る。 国家の弾圧というのは、個人が激情に駆られて行う犯罪とは違う。確信犯的に、国家秩序を維持するために法を越えて行われる面がある。それは、形式論理的に考えれば、脱法行為であることは確かなはずなのに、それをしているのが国家であるということで、違法行為として取り締まることが出来ない。個人が違法行為を行えば、それを国家が取り締まるが、国家自体が違法行為をした場合は、それを取り締まる機関はどこにもない。 このような国家の違法行為に対しては、宮台真司氏は、社会の秩序の維持という面から整合的な理解を図ろうとする。社会の秩序というものが、法に従っていればいつも実現するというものであれば、脱法行為に正当性はない。しかし、法は犯罪が起こった後にしか取り締まることが出来ない。それを予防する意図で取締りを行おうとすれば、それが間違った判断の下で行われれば国家の弾圧になる。 秩序の維持に対して、予防的に動こうとすれば、その際に法を逸脱する可能性がある。この逸脱の可能性を、国家にまったく認めなければ、予防的な行為は出来なくなり、場合によっては社会の秩序は破壊される。このとき、国家の意思としては、社会の秩序を守るためには法を逸脱することもいとわないと考えるのかどうか。真のエリートであれば、そのように考えて行動すべきだというのが宮台氏の考え方だった。 そのような法の逸脱行為に対して、もちろん判断を間違えることはありうる。その時は、判断の間違いに対して世間の非難を浴びて血祭りになることも覚悟するのが真のエリートだという。宮台氏は、国家は社会の秩序維持のための必要な装置であり、国家の脱法行為も秩序維持のための整合的な行為であると考える。法を逸脱したという面だけを捉えて、これを非難することはできないという。そのときの条件によっては、逸脱することのほうこそが正しいという弁証法的な面をもっている。 国家が批判されるとしたら、その判断の間違いこそが批判されるべきで、逸脱行為そのものは必要なものなのだ。ある意味では「しょうがない」という判断になる。そうしなければ、社会の秩序が破壊されようというときに、国家はまったく無力になってしまう。 この国家批判において、左翼の批判は、判断の間違いを指摘するものではなく、逸脱行為そのものに反対し国家を否定するものになっていたというのが宮台氏の左翼批判ではないかと思う。国家は、あえて逸脱行為をしなければ社会の秩序を維持できないときもある。だから逸脱によって社会秩序が維持されているのなら、逸脱そのものに対しては、国家の中で安全に生活している自分自身も恩恵を受けているのだから無関係ではない。それを、自分はそのような逸脱とは無関係であるかのように、無垢で純粋な正義としての立場から批判するのは、汚い部分とは関わりたくないという見て見ぬ振りと同じではないかという主張ではないか。 国家の逸脱行為に対しては、その判断を間違えて弾圧になっていればそれに反対するのは正当なことだ。しかし同時に、正しい判断の下に法を逸脱して、予防的に社会秩序の転覆を図るような犯罪を防ぐことは、国家に守られている人間としては国家を評価する必要がある。警察や軍隊は、民衆の弾圧の道具に使われる可能性もあるが、それを正しく監視することにより、民衆を守る機能を発揮させることも出来る。 警察や軍隊が、一部の支配者のために存在していた近代以前なら、民衆はそれに反対して戦う立場だけを考えればよかったと思う。しかし、近代以後の国民国家においては、警察や軍隊が民衆を守るために存在するという可能性を持つようになった。問題は、それはいつでも権力の道具になって民衆を弾圧する可能性もはらんでいることだ。どちらの可能性を実現させるかは、民衆がこれらの暴力装置をコントロールする手段をもっているかどうかにかかっている。 そんなことが民衆に出来るはずがないと考えれば、国家の問題は自分のかかわりのない他人事になってしまう。自分は国家の持つ、このような避けようのない汚れからは離れていられる。脱法行為も止むを得ない・しょうがないという思いからは逃れられる。これは、気分的には楽だろうが、無責任であることは免れなくなる。 見て見ぬ振りをするのではなく、何とか責任ある生き方をしたいと思ったら、いやなものからも目をそらさずに何とかコミットする方法を見出さなければならない。国家にとって暴力は不可避のものだ。萱野さんが指摘するように、国家は合法的に暴力を独占することによって、私的な暴力を取り締まることが出来る。我々は私的な暴力に苦しめられることがなくなる。その代わりに、公的な国家の暴力が、間違って弾圧の方向に行けば、私的な暴力をはるかに越える被害を受ける。 このとき暴力そのものをなくしてしまえと考える単純な思考をすると、私的な暴力の歯止めとしての国家の暴力も失ってしまう。それこそ見て見ぬ振りなどしていられなくなる。常に、誰かの暴力の危害を受けないように、その暴力を跳ね返すだけの力を自分も身につけなければならなくなる。アメリカにおける、銃を所持する権利は、最終的には自分の身は自分で守るという思想からきているのではないかと思う。 暴力そのものを否定する発想は、実際の社会におけるこのジレンマを解消しない。国家の暴力は必要であって・必要でないという弁証法性を帯びている。どのような条件のときに必要になり、どのような条件のときに必要でないかという判断はきわめて難しい。単純に否定していればそれで問題が解決するのではない。 宮台氏の師は、極右の天皇主義者の小室直樹氏であり、宮台氏の表現を借りれば「真正右翼」ということになる。宮台氏も、師に劣らず「真正右翼」なのではないかと感じるようになった。『諸君』・『正論』的な右翼言説による左翼批判にはほとんど共感したことはないが、「真正右翼」による左翼批判は、形式論理的な正当性を感じる。 僕は、どちらかというと若いころの思想形成は、三浦つとむさんのマルクス主義や本多勝一さんのジャーナリズムによって影響されてきた。左翼的な基礎を持っているといっていいだろう。そのために、極右の天皇主義者である小室直樹氏は、そのイメージだけでその文章を読む気にならなかった。宮台氏の師でなければ、その文章を読むことはなかっただろう。 僕は思想的には左翼的な基礎を持っていたが、三浦さんが日本共産党を批判しつづけてきた人でもあったので、既成の左翼に対しては共感するところまでは感じていなかった。組合を陰でコントロールしていた共産党員の教員が、若くして教頭になり校長になっていき、君が代・日の丸にあれだけ反対していた人物が、それを押し付ける側になって有能だという評価をされていることに憤りも感じていた。左翼は節操がないのか、という憤りを感じていた。 またかつて、組合の基本方針で、「体罰の一掃」というスローガンが出されたにもかかわらず、どのようにして体罰をなくしていくかという僕の質問にはまったく答がなかった。方法をもたずに、単にその当時聞こえのいい美しい言葉としての「体罰の一掃」が、きれい事として選ばれただけだったのだ。左翼は、言葉だけきれいに語っていればいいのかという疑問をこのときも感じた。 僕は、そのように言葉だけは語るけれど、その言葉どおりに行動しない左翼に対して、それは「真正左翼」ではないと解釈していた。三浦さんのような真正左翼なら、言うことと行動とが一致するだろうというような尊敬感を三浦さんには感じていた。 しかし、左翼の中では三浦さんのような存在が特殊であり、右翼の中では小室氏のような存在が特殊なのではないかと最近は感じるようになった。これは、右翼とか左翼とかいう問題ではないのだろう。むしろ、本当に合理的思考が出来る人間は、右翼とか左翼とかいう思想を超えて、本当に正しいことを語るのだと今は感じている。小室氏が語ることは、小室氏が極右の天皇主義者であろうと、整合的である限りにおいては正しいことを語っていると思う。正しさの判断は、思想というイデオロギーでするのではなく、形式論理と現実との整合性で判断できるからだ。 宮台氏は、マル激の中で、人間の評価をその言説ではなく行動でせよと主張していた。つまり、言っていることで判断するのではなく、やっていることで判断せよということだ。自分を棚上げして、自分はかかわりのないところにいて正義を語る人間は信用できない・評価できないということだ。正義は語るものではなく、行為で示すものなのだ。正義を語る人間には注意しなければならない。今までの左翼は、正義を語るだけで行動で示さないというのが、宮台氏の批判のポイントなのではないだろうか。 少し注釈を付け加えておくと、正義は語るだけでは駄目だが、真理は語るものだけで判断できる。正義は意志の自由による選択によって、どのような行為を自らが選んだかということが評価のときに重要になる。だが、真理のほうは、意志とは独立に設定できる対象に対して語る命題になるからだ。真理の方は、それを語る人間の行為とは関係がない。ヒトラーでも真理を語ることは出来る。左翼の間違いは、正義を語っているのに、それが真理であると勘違いしたことではないかと思う。
by ksyuumei
| 2007-07-06 10:30
| 左翼の嘘
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