原爆投下に関して、それが「しょうがない」ものであるのかどうか、避けようのない決定だったかということの是非を考えてみたいと思う。もしこれが肯定的に判断できるものであれば、久間氏の判断は、客観的考察の結果としては正当だといえる。しかし、肯定的に判断できない時は、「しょうがない」という認識そのものは否定され批判されなければならないということになる。
これが、考えるまでもなく決まっていると素朴に考える人は、形式論理的に考察することをあきらめたほうがいい。その人は、物事を宗教的に信念(信仰)で判断する人ではないかと僕は思う。物事は、考える前にその判断が決まっていると考えなければ、「考えるまでもなく決まっている」という思考は出来ない。僕は、どんなに自明だと思えることでも、それを疑い、形式論理的な正当性を見出した後にその正しさを信じるという姿勢を持ちつづけたい。 原爆投下が「しょうがない」かどうかを考える前に、もう少し判断しやすい問題で、「しょうがない」という判断の構造を考えてみたいと思う。それは、明治維新後の富国強兵政策についてだ。僕は、富国強兵政策というのは、明治の日本にとって、他に取る道のなかった「しょうがない」道だったと思う。それが結果的に軍国主義につながるように見えたり、後の侵略戦争をもたらしたように見えても、なお富国強兵政策は「しょうがなかった」と思う。 「しょうがない」を直接証明するには、そのときに存在していると思われる選択肢を有限個設定し、富国強兵以外の選択肢を残らず否定していくことによって、最後に一つ残ったものが不可避であるということで主張できる。これは形式論理的にいえば排中律の成立を主張することになる。 これは有限の選択肢を設定できるときには有効で便利なやり方だ。しかし、選択肢を限定できないような時は、なかなか使いにくい。そのようなときのために背理法という証明法が使われる。これは矛盾律を利用した証明になる。 それが不可避であるということをまず否定すると、それは避けられるということになり、その選択肢を選ばないということになる。その選択肢を選ばなかった状況で、現実は論理的にどのような必然性を持った方向へ行くかというのを考える。この論理展開で、結果的にどう考えてもまずい状況が生まれるなら、それは形式論理的には矛盾が導かれたと考えることが出来る。だから、その選択肢は避けることが出来なかった。不可避なのだと形式論理的に結論されることになる。 明治期の富国強兵政策について、他のあらゆる選択肢を網羅するというのは、専門家でもない僕には難しい。だから、考えやすい方向として、富国強兵政策を取らなかった場合の日本がどうなるかというのを、論理的に展開するというシミュレーションをしてみたい。 明治期というのは、植民地主義の時代であり、欧米の帝国主義国家にとって植民地政策をすることは何らためらうものではなかった。そこには道徳的な価値判断も入り込むことはなく、強大な軍事力さえあれば、どこでも植民地にすることが出来た。実際にアジア諸国のほとんどは日本をのぞいて植民地になっていた。日本よりも強大な国家であると思われていた中国でさえも植民地化されていた。 日本は、富国強兵政策の前には鎖国によって独立を保っていた。鎖国は、日本自身を飛躍的に豊かにすることはなかったが、平和と安全を外国に脅かされることはなかった。この選択肢をずっと続けていられれば富国強兵政策はいらなかっただろうと思われる。しかし、黒船の来航によってこの選択肢は選べなくなった。 日本以外のアジアの国は、近代的な軍事力を持つことに失敗したため、外国の侵略を追い払うことが出来なかった。明治維新期に諸外国の事情を知っていた視野の広い人々は、このことをよく自覚し、日本が日本として残るためには、軍事力を近代化することが緊急の課題だということに気づいた。それが富国強兵政策につながったのだと思う。また、軍隊を近代化するというのは、軍隊だけの問題ではなく、その軍隊を支える国民も急いで近代化しなければ成功しない。それが明治維新期の日本を指導する人たちの考えたことではなかったかと思う。 富国強兵政策を取らなかったと仮定すると、日本は強大な近代的軍事力を持つことに失敗し、その結果として植民地化されるという論理展開が出来る。この結果がまずい(矛盾である)と判断すれば、それを避けるために富国強兵政策を選択するという判断が出てくる。富国強兵政策は「しょうがない」ものだったのだと僕には見える。 それをしなければ、絶対的にまずい状況が起こるという判断からは、それをせざるを得ないという不可避の判断が生まれる。それが「しょうがない」の正体だ。これは、判断として間違えるということも起こるだろうが、自分の意志決定の際には、この判断が生まれることが事実の方向性を決める。富国強兵政策を取らなければ日本が植民地化されるという判断が、それをとらなければならない・取らざるを得ないという「しょうがない」の判断につながり、現実に指導者はその方向を選択する。 果たして原爆投下には、このような状況があったのだろうか。久間氏の発言によれば、原爆投下がなされなかったらソ連の参戦によって日本が分割占領されるというまずい状況が生まれるという予測があったらしい。しかし、この予測だけでは原爆投下が不可避だという判断をしたという切迫感があるとも感じない。日本が分割占領されたとしても、それで直接アメリカに不利益が来るのではなく、いくらでも対処のしようがあったようにも感じる。 もっと切迫した問題としては、日本軍が予想以上に強かったことにアメリカが慌てたという小室直樹氏の指摘のほうが、切迫感としては想像しやすい。硫黄島の決戦での日本軍の戦い方に、常識はずれの恐怖を感じたというのはアメリカにあったのではないかと思う。絶対に勝てない状況の軍隊であれば、降伏して戦闘を止めるというのが西欧の常識だったと小室氏は書いていた。それに対し、日本軍は、文字どうり死ぬまで戦い抜くという玉砕を本当に実行した。 死ぬまで戦いつづける軍隊を相手にすれば、アメリカ軍に甚大な被害が生まれるのはまさに「しょうがない」ことになる。硫黄島でもそうだったし、沖縄戦でもそうだったのではないかと思う。日本軍は簡単に降伏しない軍隊だった。戦争に勝つことはアメリカにとっては自明のことだったが、勝つための被害が甚大なものになるとしたら、それを少しでも少なくするために原爆を使いたくなるという可能性は「しょうがない」という判断としてありうるだろう。小室氏はそのような指摘をしていた。 アメリカの青年の犠牲を出さないようにして戦争を終結させたいという思いが原爆投下を決断させたということは論理の流れとしてはありうる。もし、原爆投下なしに戦争が長引けば、被害はもっと大きいものになる。それをしなければもっとまずい状況が生まれるという判断がここにある。 これは、アメリカの青年のことだけを考えているエゴのように見えるかもしれないが、結果的には日本人の被害も減らすことになる。アメリカの青年の被害を大きくするような戦闘が起これば、圧倒的な戦力に向かっていく日本の側はもっと大きな被害が出るのは確実だ。それは、軍隊に被害が出るだけではなく、戦場になっている日本の地に住んでいる民間人にも大きな被害が出る。 このような時、民間人の被害に対しては、負けると分かっているのに抵抗を続ける軍隊に責任が帰すると小室氏は語っていた。そこで戦闘になれば大きな被害が出るのは分かりきっている。しかも結果的に負けることが明らかであれば、被害が出る前に降伏し捕虜になるのが軍人としての義務であり責任ある態度であるというのだ。 日本の軍隊は、負けると分かっていても玉砕する軍隊だから、そのまま戦争を続けていれば、アメリカの青年の犠牲も大きかっただろうが、それ以上に日本人の被害は甚大なものになっただろう。降伏が遅ければ遅いほど、被害は飛躍的に大きくなる。少しでも早く戦争を終結させることを考えなければならない。 結局、「しょうがない」という判断の正当性を左右するのは、原爆なしにそのまま戦闘を続けていれば、日本の降伏がさらに遅れて被害が甚大になっていたかどうかということの判断によるのではないだろうか。これは、難しい判断だと思う。これがそうなると判断すれば、原爆投下は止むを得ない・「しょうがない」という判断になってしまうのだろう。 久間氏が「しょうがない」と語った判断そのものは、それが自明に間違っていると即断できるほど簡単なものではないと思う。感情を刺激したことは確かだろうが、その判断は、成り立ちうる可能性が考えられる。つまり、久間氏がそのように判断していたとしても、その判断を完全に否定することは出来ない。ある立場・ある視点・そのときに持っていた情報から戦略を決断するなら、原爆投下を決定しうる人間たちが、これ以外に選択肢がないという判断をする可能性もありうる。そういう意味での「しょうがない」という判断は成り立つと思うのだ。 この「しょうがない」を批判するには、アメリカに対しては、原爆投下の選択が止むを得ないものではなく、むしろ積極的に戦後の外交政策に利用するために投下したのだという点を指摘して批判することだろう。「しょうがなく」落としたのではなく、確信犯的に落としたのであれば、「しょうがない」を否定することが出来る。 これはその視点を持つことは可能だろう。原爆という最高の武器を持った軍事大国として、それが外交的に有利に働くという計算は十分成り立つ。アメリカは、原爆を落とさざるを得なかったのではなく、むしろ積極的に落として、力を有効に活用しようとしたのだ、と言えるなら意図的な犯罪行為として非難することが出来るだろう。意図的に、民間人を虐殺する戦術を選択したのだと批判できる。 日本の戦争指導者に対しても、原爆投下の責任を問うことが出来るのではないかと思う。原爆投下の前に、負けると分かっていた戦争に終止符を打てなかったことの責任を問えるのではないだろうか。負けると分かっているのに玉砕する道しか取れなかったというのは、それが日本的な社会の特質だと言い訳されても、指導者であるなら、そのような特質を越える責任を持たなければならないのではないだろうか。 日本の戦争指導者には主体的な判断というものがなかったそうだ。みんながそう思っていたから自分も反対できなかったというようなことが言われたらしい。みんなが玉砕することを当然と思っていたから、玉砕する前に負けると分かっている戦闘に終止符を打てなかったということだ。この責任を、戦争指導者たちに問うことが出来れば、「しょうがない」は批判できる。それは、他に選択肢がなかったのではなく、知的怠慢からそれを選ぶことをしなかったのだという批判が出来る。他の選択肢があるにもかかわらず、それを選ばなかったのだ。「しょうがなくはなかった」のだという批判が出来るはずだ。 「しょうがない」を批判することは、日本的な主体性のない指導者の批判に通じる。合理的な判断からは間違っているとしか思えないことに反対できない指導者をそのままのさばらせておく人間には「しょうがない」を批判する資格はない。久間発言を批判するマスコミは、果たしてその指導者の主体性の欠如を批判できるだろうか。記者クラブという利権に乗っているマスコミは、それを「しょうがない」と認識していたりしないだろうか。久間発言の「しょうがない」を批判するということは、本質的には、日本的な主体性のなさを批判することでなければならないのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2007-07-06 00:09
| 論理
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