量子力学について、『量子力学の基本原理』の中では、著者のデヴィッド・Z・アルバート氏は「アルゴリズム」であると書いている。「アルゴリズム」とは、形式論理に従った、ある計算法のことを指す。この「アルゴリズム」を使えば、量子現象が今どのような状態にあるかを初期情報を与えることで未来が計算できるというものになる。未知なる未来が100%正しく予測できるということから、これは科学としての真理性があると解釈されるわけだ。
しかし、この「アルゴリズム」が、現実世界を本当に正しく記述したものかどうかという哲学的問題を考えると、それは単なる機能(関数)を記述したものであって、本質ではないという解釈も出来る。機能を本質と考えるのは、機能主義と呼ばれる間違いではないかという疑問も涌いてくる。現実に対する考察であるなら、表面に現れる機能ではなく、裏に隠されている何かを本質と考えなければならないのではないかということだ。 僕も若いころは、このように機能主義は間違いではないかという思いを抱いていた。例えば、心理学を知ったころは、心という直接調べることの出来ないものから、行動という表面に現れたものを対象にして心理学を築くべきだという、行動主義というものがあるのを知ったが、これは基本的な姿勢としては分かるものの、それを「心理学」つまり心の学問と呼ぶのはためらわれるのを感じた。 心理学と名付けるのなら、行動という表面的なものの機能を考察するのではなく、心という内面を考察の対象にするのが本質的なのではないかという感じがして、機能主義は間違っているのではないかという思いにつながったようだ。しかし、今ならこのような思いは、心理学という学問の名前をつけること自体に問題があるのではないかと思うようになった。 学問と科学を区別して捉えると、心理学というのは、科学としては成立し得ないものだと今では考えている。科学というのは、板倉さん的な意味で、仮説実験の論理を経て抽象化された真理の体系として現実に適用されるものと僕は考えている。それは真理であるからには形式論理に従って理論展開がされなければならず、現実に仮説実験を繰り返すことができるという意味では客観性を持たなければならない。つまり、誰が観察・測定しても同じ判断が出来るという客観性の前提が必要になる。 心理学というのは、心という対象がそのような客観性・形式論理性を持たないために、科学としては成立しないと僕は考えている。対象を抽象化して弁証法的な矛盾を背負った判断ができないようにすることが出来ない。ある心理現象を見たときに、誰が判断しても同じ判断になるというものに抽象することが出来ない。それは、さまざまの現実的条件を考慮して、いつでも複数の解釈が出来るものとして現前する。 弁証法性を捨象できない対象は、形式論理の対象にすることが出来ず、理論展開というものが出来ない。理論展開ができないものは、必然性を語ることが出来ず、未来に対して100%確実な予測というものが出来なくなる。しかし、科学というのは、未来に対する確実な予測によってその真理性を獲得するというのが「仮説実験の論理」だったので、この前提が成り立たなければ、それは科学としての資格を得ることはなくなるのだ。 心理学は科学としては成立しないが、学問としては成立するように僕は思う。僕がここで言っている学問の意味は、科学としての真理性を語るものではないが、今まで蓄積してきた知識を集大成して分類し・妥当な解釈を提出するものとして考えている。心の現象は、これまでもたくさん観察されてきただろう。その観察されたものをまとめて、この場合にはこういうことがあったということを知識としてためていくことは出来る。また複数の解釈があったとしても、その解釈のいくつかを知っていることは現実の問題を解決するのに役立つことがある。 試行錯誤によって問題の解決を図るというのはよくあることだ。その試行錯誤の方向をいくつか発想するには、今までの経験を参考にすると便利だ。今までの経験をまとめたものは知識として役に立つ。科学ではない学問は、そのように役立つ知識として人間に価値あるものとして評価されるだろう。心理学というのは、そのような科学ではない学問として見るべきではないかと感じている。 このように考えると、量子力学というものが、「アルゴリズム」であるという言い方はとても象徴的なものではないかと思う。それは本質的には機能(関数)を語るものであり、その機能が現実を100%正しく予測するものになっているところに科学としての真理性を見るということになる。そこには、そもそも量子という対象がどんなものであるかという存在論に関するものは、科学としては関心の外にあるのだと考えられる。 科学というのは機能を求めるところにその本質があると考えられる。機能主義こそが科学の真髄といってもいいだろうか。それでは現実との結びつきがまったくない、空想的な形式論理の展開でも科学と呼んでもいいのだろうか。これは、科学と呼ぶのではなく、形式論理はやはり形式論理と呼んだほうがいいだろう。科学というのは、現実との接点があるからこそ科学なのであって、現実との接点が何もなくなってしまえば、それは形式論理と呼んだほうがいいだろう。 このような意味では、数学は科学ではなく形式論理の一部だ。それは、形式論理一般のように、合理的思考の枠組みという最高度の抽象には達していない。数や関数、さらに一般的には集合の要素などという数学的対象の間に成り立つ形式論理的法則を求めるものであって、対象が数学としての特殊性をもっている。だから、形式論理の一部ではあって、その対象の特殊性ゆえに数学という一分野を形成すると考えられるだろう。 科学と呼ばれるものも、形式論理によって理論が構築される。この点では数学とそう事情は変わらない。だから、科学が展開する理論が、一応現実とは無関係に展開される時は、それはその時点では科学ではなく、形式論理であり、数学が利用されるという意味では数学の一分野であると解釈できる。現実と関係ない力学の展開は、微分積分学という数学の一分野になる。ニュートンが、力学の完成とともに微分積分学も完成させたのは、そのような論理構造があったからだろう。 現代経済学は数学の一分野であるとも考えられている。それは、現実の経済現象は、余りにも複雑なのでそのままでは数学を適用することが出来なくなる。数学を適用するためには、かなりの部分の捨象が必要になり、現実現象からかなりの部分を捨象して抽象した対象は、もはや現実を反映したものに思えなくなるだろう。これは、現実を無視した数学の一分野として見えても仕方がない。 現実を完全に無視して、抽象した世界だけに通用する法則を求めればそれは数学になる。それが、数学を利用しつつも数学にとどまらないのは、現実との接点を「仮説実験」に求めるからで、「仮説実験」こそが科学を現実への適用においても真理性を保つものとして規定する。科学と数学の違いは、この一点のみに存在するというのが僕が到達した考えだ。 科学も数学も、その基本にあるのは形式論理であり、形式論理に従うということが大原則としてある。これは、合理的な思考によって必然性を語ることが出来るのは形式論理だけだからである。形式論理のみが絶対的な真理を語ることが出来る。これには反対したい人もいるかもしれないが、合理性というのは、形式論理に従うということと同じなのである。むしろ、形式論理に従うということで合理性を判断しなければ、合理性ということの意味が人間にはわからなくなるといってもいいだろう。形式論理に従うということは、合理性の定義なのである。 形式論理に従わない主張は合理性を持たない。だから、それは理論展開としては意味がない。真理性の主張は出来ないのだ。形式論理に従わないものは、信念の主張は出来るかもしれないが、自らの意思表明以上のことは出来ない。弁証法性をもつと解釈される主張は、形式論理に従うことが出来ないので、それは科学にはならない。科学にはならないということは、誰もが認める客観的な真理にはならないということだ。誰もが認めるというのは、認めたくないという形式論理に反する感情がたとえ生まれても、現実は必ずそのようになるという100%の確実な未来予想が成立することで科学の真理性が現れるということだ。 ここでカール・ポパーの「反証可能性」という概念と、上の考察との関連を考えてみたい。反証可能性というのは、科学の主張の反対を言うことの可能性を考えるものだ。これは、肯定と否定を考えることになるので、あわてて考えると形式論理に反するようにも見える。だが、これが「可能性」と語られて、両立すると言われていないことに注意しなければならない。 あることの肯定と否定が同時に成立すると言ったら、これは形式論理に反する。しかし、両立しないのであれば形式論理の整合性は保たれる。可能性というのは、形式論理の出発点として、どちらを選択することも出来るということに過ぎない。もし、この選択の可能性がなくなってしまったらどうなるだろうか。それは、現実とは無関係な、形式論理的な絶対的真理を出発点とするものになる。形式論理そのものになってしまい、対象の具体性がそこにあれば、それは形式論理の一部になるということを意味する。 つまり、反証可能性のない主張は、形式論理になってしまうので、それは現実との結びつきを失い科学でなくなってしまうというのがポパーの主張ではないかと僕は解釈する。もし、反証可能性が、可能性ではなく現実にも両立してしまえば、それは形式論理的解釈が出来ないので、合理的思考の産物ではないということでやはり科学ではないということになる。また、反証可能性が、肯定と否定のどちらも決定できないというようなものであれば、それも形式論理的考察の対象ではなく、合理的思考の出来ない対象として、感想を述べるとか心情を述べるとかいう文学的な考察の対象になり、やはり科学にはならないと考えたほうがいいだろう。弁証法性を捨てられない対象は、科学の対象ではないのである。 科学ではないものは、形式論理そのものになってしまうという場合と、形式論理に従う形にすることは出来ず(すなわち対象の弁証法性を捨象することが出来ない、現実から引き離した抽象的対象を作りえない)、文学的表現をするしかない場合との二つに分かれるだろう。科学であるかどうかに道徳的価値があるわけではないから、これは対象をどのように認識するかという問題になる。科学的対象とそうでない対象を区別するのは、真理の判断において大切になるだろう。科学的対象でないものについては、科学のように限定された意味での絶対的真理という判断はできないのである。 科学は形式論理に従わなければいけないという意味で、本質的に機能主義でなければならない。しかし、その機能主義は、機能主義にとどまって仮説実験の論理がなければ、現実との結びつきを失い、科学ではなく数学あるいは形式論理の範囲にとどまる。現実との接点のない機能主義を科学と呼べば、その機能主義は間違いだといわれることになるだろう。機能主義の間違いはここにあるのだと思う。 文学的対象は科学で取り扱おうとすれば間違える。文学は文学として味わえばいいのであって、そこにどのような不合理・理不尽があろうとも、文学としては間違っているなどとはいえない。どのような理不尽であろうとも、それを味わうことで、鑑賞する人間の心に大きな影響を与えるなら、それは文学としては優れているのであると僕は思う。何も理不尽がない、すべてがすっきりと理解できる合理的な対象は、実は文学としてはつまらないものになるかもしれない。だが、それをいったん科学の対象として設定しようとすれば、形式論理のめがねが必要になるように感じる。マルクス主義の間違いも、文学と科学の観点の違いというものから考えると面白いかもしれない。文学的考察を、科学的真理のように扱うとどのような間違いになるかという教訓として読めるのではないかと思う。考えてみたいことだ。
by ksyuumei
| 2007-06-30 11:17
| 論理
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