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必然と偶然の弁証法性

必然性の判断、つまり必ず起こるであろうことを予測する時は、何らかの形式論理の展開による結論が提出されている。形式論理の展開による結論がなければ必然性の判断は下せない。ある物事が必然性の判断が下せないということは、形式論理的な決定が出来ないということを意味する。

この世に必然的なものはない、すべては偶然的だという現実解釈もあるが、これは事実によって否定される。もしすべてが偶然的であれば、必然性の判断を下すことが現実には出来ないことになるが、「科学」と呼ばれる真理を形式論理として展開すれば、未来に対する正しい予測が得られる。ここには必然性というものが存在する。すべてが偶然的なものではなく、あるものは必然性をもっている。

必然性というものを深く理解するためには、形式論理の基本原理を知ることが必要ではないかと思われる。そして、必然性を認識した対象に対しては、その結論からは逃れようがないのであるから、それがどんなに感情的に気に入らないものであっても受容するだけの気持ちを持たなければならない。必然性に反抗しても結果を変えることは出来ない。必然性を受け入れる感情を持ち、それが起こることを目にしても感情が揺さぶられることのない精神的な免疫性をつけることが重要だと感じる。




形式論理の基本原理というのは、ある命題の肯定と否定とが同時に成り立つことはないという「矛盾律」と、ある命題の肯定と否定とはどちらかが必ず成り立つのであって、どちらも成立しないということはないという「排中律」にあるというのが僕の考えだ。この二つの原理が必然性の判断をもたらす。

ナンバープレイスというパズルにおいては、一つの枠に入る数字は1から9までのどれかの数字であることが決まっている。これは可能性としては9個のものがあることになるが、どれか一つの数、例えば1について注目して考えれば、ある枠に1が「入るか」「入らないか」という肯定と否定の命題に関しては、これが形式論理として展開できることから、どちらであるかという必然性が導かれる。

ナンバープレイスは、難しいパズルになれば、この形式論理的必然性の判断が難しくなる。直接1が「入る」という判断はほとんどできない。これは間接的に迂回された判断として、1が「入らない」としてみると矛盾が生じるということから、「矛盾律」によって1が「入る」という肯定判断がされることが多い。複雑な形式論理の展開においては、否定の状態を検討して、それが一つ一つ起こりえないことが確認された後、矛盾が生じないことを理由に間接的に肯定されるという「背理法」が使われることが多い。その枠に1が入るということが直接にはいえないが、「2が入らない、3が入らない、4が入らない、5が入らない、6が入らない、7が入らない、8が入らない、9が入らない」ということを確認することが出来れば、その枠が1であることが確認できる。

これは、1が入ることを直接いうよりも形式論理の展開としては易しくなることがある。縦・横の列や、3×3の正方形の枠の中に、他の数字がすでに入っている時は、そこにはその数字が入らないことがいえるからだ。これも形式論理的必然性の判断だ。ナンバープレイスにおいては、縦・横の列や、3×3の正方形の枠の中には同じ数字が入ってはいけないという前提が立てられているからだ。

ナンバープレイスにおける必然性の判断を考えると、「矛盾律」や「排中律」というものが見つかる。ある枠には1という数字が「入る」か「入らない」かどちらかであって、両方とも可能性があるということはない。これは、ナンバープレイスというパズルは、そのように作られているという前提から、必然性を展開できるのであって、適当に作ったナンバープレイスもどきのパズルにはこのような必然性はない。自然にランダムに存在するナンバープレイスのようなものには必然性はないのだ。

もし必然性を持たないナンバープレイスがあったとしたら、我々パズルファンは、そのようなナンバープレイスはナンバープレイスではないと判断するだろう。せいぜいが、それは作り方を間違えた欠陥パズルだという評価をするだろう。ナンバープレイスにおいては、必然性が存在することが前提されている。これは形式論理の展開の対象になるような存在なのだ。

このことから、必然性の判断には、「矛盾律」と「排中律」に加えて、理論展開の出発点となる前提が必要になるということが分かる。無前提にあらゆる可能性をもっている対象を扱えば、その可能性のすべてを考察することが出来なくなり(それが無限にあるものであれば、原理的に無限を考察することが出来なくなる)、形式論理的に必然性を結論することが出来なくなる。無前提に物事を考えれば、そこには必然性の判断ができなくなり、必然ではないという偶然性の判断しかできなくなる。

必然性の判断には、出発点となる前提が必要で、ニュートン力学などでは初期条件と呼ばれる。ニュートン力学では、初期条件さえ与えられれば、その後の物質の運動は方程式によって必然的に決まってしまう。だが、初期条件というものに恣意性があり偶然的なものが含まれるので、現実の運動は必然的に決定されるものではなくなる。

この初期条件の不明瞭さというのが、我々の能力が足りないために引き起こされたものなら、本当は必然性があるのだが、それを捉え切れないだけだということが出来る。ナンバープレイスの難問において、それを考察するだけの能力がないために正解が得られないという状態と同じものになる。実は正解があるのだが、それが見つからないだけだということになる。

ニュートン力学が成立したころは、そのように、初期条件が確定しないのは我々の能力不足のせいだと思われていたのではないかと思う。本当は決定されているのだが、能力がまだ足りないのでそれが求められないだけだというわけだ。これは、「決定論」という考えを生んだだろうと思う。現実はすべて決定されているのであって、我々は、ただ単にそれが分からないだけだということだ。すべては神のみぞ知るということになり、神の信仰を高めるのには役立つかもしれない。

この決定論的な必然性は、極微の世界を考察する量子力学的な考えが生まれて見直されたのではないかと思う。我々が初期条件を知りえないのは、それこそ原理的・必然的なものであって、この能力不足を補う方法はないのではないかという発想だ。究極的な意味での初期条件は、原理的に知りえないというのが量子力学の結論ではないかと思う。

我々が知りうる初期条件という形式論理の出発点は、誤差として無視できる範囲で打ち立てられるものなのだろうと思う。ニュートン力学は、そのような初期条件のもとでは100%正しい予測を導く、形式論理として真理を帰結するものなのだろうと思う。もし、初期条件が決定できない時は、それが有限の選択肢を持つものであれば、その有限の選択肢をとりあえず出発点として(仮定して)形式論理を展開して得られる結論を求めなければならないだろう。経済学で展開されるモデル理論はそのような方向性を持ったものではないだろうか。

必然性の判断においては、形式論理の展開をしなければならない。形式論理だけの問題としていえば、それは「矛盾律」と「排中律」に反しない展開をしなければならないということであり、形式論理以前の問題としては、論理展開の出発点となる前提として何を置くかという問題がある。もしこのことを自覚せずに、形式論理の展開だけで必然性を語っているとしたら、それは本当の意味での必然性ではなく、前提を広げたもっと広い世界の下では偶然性となってしまう。視点を変えたときに、必然性だと思われたものが、「同時」に偶然性ともなってしまうという弁証法性を発見することが出来る。

必然と偶然の弁証法性を語るとき、くじ引きが当たるという事象を、視点を変えることで見るときに、「当たる」ということに必然性が「ある」という判断と「ない」という判断の両方ができることを弁証法性と見ることがある。

10本あるくじのうち1本が当たりであるとする。それを10人の人が引くとき、個人の観点から見ると、そのくじが自分に「当たる」か「当たらない」かは、肯定と否定の判断であり、これはどちらか一方が成立するという形式論理的考察の対象になる。どちらも成立したり、どちらも成立しないということはない。もしそういうことが起これば、そのくじはくじとして意味がない、いんちきだということになるだろう。

さて、個人にとって「当たる」か「当たらない」かは偶然的である。それは、くじを引く前に、形式論理としてどちらかの結論を言うことが出来ない。もし、形式論理としていえるとすれば、何らかの前提を設定して、その前提の下ではこう結論できるということしか出来ない。

例えば、くじを最後に引く個人が、それまでの9人が外れたことを見ていた時は、自分が当たることの必然性を形式論理で導くことが出来る。くじの可能性は10個あるのだが、9個までが「当たらない」という否定判断をされたとき、最後まで当たらなかったら、1本は当たりくじがあるということと矛盾してしまう。矛盾律から、この条件の場合は、必然的に最後の人が当たることが結論される。

しかし、このような条件つきの展開でなければ形式論理的には必然性を語ることが出来ない。自分が1番最初にくじを引くとすれば、10個ある可能性のどれも否定することが出来ない。形式論理ではどのくじを引くかということが決定できない。「当たる」か「当たらない」かは偶然性に支配される。何回やっても同じ結果になるということはない。

このときどのくじを引くのも同じだけの可能性があると前提すると、確率的な意味での必然性をかたることが出来る。くじが当たる必然性は1/10(10%)の確率で存在するといえる。当たるか当たらないかは、現実にはどちらか一つだけが成立し、それが行われた後では、確率的には1か0(ゼロ)であるかが決定してしまう。しかし、それをする以前では、1/10という、現実にはあり得ない数字で考察されるのが、確率論的な考察という形式論理の限界、あるいは工夫といえるのではないかと思う。

このくじ引きに対して、10本のくじが10人のうちの誰かに当たるという、集合的な視点での判断になると、これは必然的な判断になる。10本のくじを10人で引くとき、そのうちのあたりが1本あれば、誰かに当たるのは必然的になる。個人という視点で見れば偶然であっても、集団という視点で見れば必然になるという弁証法性がここに発見できる。

これは、10本のくじが誰にも当たらない、ということが10本のうちの1本が当たりであるということと矛盾することになるので、形式論理の矛盾律から必然性が導かれる。

ある主張が真理であるかどうか、つまり必然性を持つものであるかどうかは、その結論が形式論理の展開として間違いなく導かれているかどうかと、何が前提に置かれているかが判断において重要になる。前提を語らずに論理展開がされているとき、あるいは暗黙の前提が置かれている時は、それはより広い視点から見れば、偶然性と判断されるものになるだろう。それは個人の意志の表明としては理解できるが、真理の認識としては受け取れない。いわゆる「べき論」はそういうものだろう。「戦争をすべきでない」という主張は、個人の意志の表明としては理解できるが、真理という必然を語ったものではない。多くの「べき論」を形式論理的観点から、その必然性を考えてみようと思う。
by ksyuumei | 2007-06-26 09:45 | 論理


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