萱野稔人さんをゲストに招いたマル激で、萱野さんの文章の書き方が非常にジャーナリスティックなものであることが話題になった。まずは事実の指摘があり、そこから判断されることも、誰もがそう認めざるを得ない事柄だけにとどめておき、主観的な意見というものをすべて排除しているという指摘だった。「~<政治>の思考~」というコラムの「第10回 「流動化する労働力」と「新利権の構図」」の中でも、
「たとえば、郵政民営化によって郵政公社は日本郵政株式会社となるが、それにともなって奥谷禮子氏が社長をしている人材派遣会社が職員の研修や派遣業務を受託することになった。奥谷禮子氏といえば、すこし前に「過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います」と発言したことで話題になった人だ。彼女は日本郵政株式会社の社外取締役であり、また厚生労働大臣の諮問機関である労働政策審議会の分科会(労働条件分科会)でも委員をしている。かつては、内閣府に設置されていた総合規制改革会議の委員もしていた。この会議は、小泉首相のもとで公的業務の民間開放をすすめてきた規制改革・民間開放推進会議の前身にあたる。 奥谷禮子氏は人材派遣会社の社長であり、労働力が流動化され、公的業務が派遣労働に取って代わられることで利益をうる人間だ。そうした人間が、政府の労働政策の決定プロセスに直接関与する。労働をめぐるルールの変更にかかわる人間が、その変更によってますますビジネスチャンスを獲得するという利権の構図がここにはある。」 という記述がある。これに対して神保哲生氏は、奥谷禮子氏がこれだけひどいことをしているのに、それをひどいとは一言も書いていないと指摘していた。つまり、主観的な意味での判断を一言も書いていないということだ。直接的な批判を一言も書いていない。判断力のある人が読めば、それがひどいことだというのは事実から読み取れる。しかし、書き手の主観は一言も書かないという文章になっている。 これがジャーナリスティックだということは、かつて本多勝一さんも主張していたことだが、次のような理由による。ジャーナリストというのは、自らの主観が文章に顔を出してしまえば、それはプロパガンダになってしまい、他人をあおることには役立つが、そこから真理を読み取るということはかえって弱くなるので、事実の記述をして判断は読者にゆだねるという文章の書き方をする。 萱野さんは学者であるから、ジャーナリストと違って、もう少し自らの判断があってもいいのではないかということが議論になった。それに対して萱野さんは、社会的な問題というものの難しさを語っていた。はっきりと判断が確定することなら、もちろん萱野さんもそのような判断を主張するけれども、社会的な問題というのは、そのようにきっちりと決められない要素をもっている。だから、分からないことは分からないものとして、判断は読者にゆだねるという形になるので、その点が非常にジャーナリスティックになるというのだ。 それに対して、宮台真司氏は、社会的な問題に対しても非常に明確な主張を展開している。萱野さんが、難しい問題の判断を保留したのに比べて、なぜこのように強い主張が出来るのだろうか。萱野さんが、明確に答を確定できない問題に対して判断を保留したというのは、学者としての誠実さだと思う。萱野さんは、肩書きは哲学者であるが、このあたりの姿勢は非常に科学者的なものを感じる。明確に断定できること(科学的真理であること)以外は、確定的な判断をしないということなのだと思う。 それに対して、社会科学者である宮台氏は、難しい社会的な問題に断定的な言い方をしてしまう。これは矛盾ではないのか。宮台氏は、マル激の中でも、自分は矛盾してしまうということを語っていたが、断定できないことに対して断定してしまうことが矛盾を引き起こすという認識だろうと思う。 それでは宮台氏は間違っているということになるのだろうか。宮台氏が語っている「矛盾」が形式論理的なものであれば、それはもちろん間違っている。しかし、ここで宮台氏が語っている「矛盾」が、現実存在が持っている弁証法性が反映した、現実認識における弁証法的な「矛盾」であれば、むしろそれが存在するほうが正しいということになる。そして、この弁証法的「矛盾」は、形式論理的にはまったく「矛盾」ではなく、形式論理の原則に反するものではない。つまり、形式論理として少しも間違っていないのだ。 形式論理における「矛盾」というのは、ある命題の肯定と否定とが同時に成立するということだ。このような「矛盾」は形式論理では排除される。この「矛盾」を形式論理から取り除かないと、形式論理ではあらゆる命題が証明されてしまうということが、その形式から導かれる。つまり「矛盾」が存在する形式論理では、ある命題が真理であるかどうかを考える意味がなくなってしまうのだ。物事を合理的に思考するということが意味をなさなくなる。 どんな命題でも成立するのなら、何をするかは恣意的であり、好き・嫌いで選んでかまわないということになってしまう。だから、形式論理を使って理論展開をするときは、「矛盾」というものは絶対に容認することが出来ない。「矛盾」が発生するということは、その理論展開に不備があるということだ。前提の選び方を間違ったと、前提を否定すれば、これは背理法という証明になる。 形式論理においては「矛盾」は存在しないものであり、「矛盾」が生じた理論展開は無価値になる。しかし、弁証法という思考においては「矛盾」が指摘され、その「矛盾」を深く分析することによって新たな発見をもたらす。これは、形式論理と整合性を取れるものなのだろうか。 僕も弁証法を学び始めたころには、このことの整合性を取ることが出来なくて、弁証法というのは単なる詭弁に過ぎないと感じたものだった。形式論理的な反論が出来ないので、単に屁理屈をこねるためのものなのだろうと感じていた。ギリシア時代にソフィストと呼ばれた人々が、理屈を捻じ曲げて議論に勝つという方法を語ったものではないかと思ったものだ。 これは(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという負の数の掛け算が長いあいだ人々の感覚に反していたと問題とよく似ている。この掛け算からは、(借金)×(借金)が(財産)になってしまうというイメージが浮かんできて、その直感が邪魔をしてこの掛け算の正しさが受け入れられるのに時間がかかったらしい。この掛け算の場合は、(借金)と(借金)は掛け算が出来ないということを知ることで解決するのだが、論理における「矛盾」の場合はもっと抽象的で、解決がなかなか難しかった。 「矛盾」という概念における、形式論理と弁証法の整合性は、その意味が違うのだということで僕は理解した。同じ「矛盾」という言葉を使っていても、それが指し示す対象に違いがあるため、形式論理では絶対に認められないものが、弁証法的思考ではそれが存在することが許容されるのだという理解だ。つまり、形式論理における排除された矛盾は、弁証法においてもやはり排除されるのであり、弁証法が語る「矛盾」は、形式論理では少しも「矛盾」してはいないという理解があって、この両者が整合性を取れるというわけだ。 弁証法における矛盾というのは、現実存在を見る視点を変えることで、対立した判断が生じてしまうことを指している。それは現実存在の二つの側面を語っているので対立が生じてしまうのだ。そして、その対立を一つの対象が背負っているという意味で、「同時」に肯定と否定が存在すると解釈して、それを「矛盾」と呼んでいる。しかし、この「同時性」は、形式論理的な意味で、両方の判断が「同時」に存在するという意味での「同時性」ではない。ひとつの対象が二つの側面から見ることができるという、存在が一つであることの「同時性」なのだ。 形式論理的には、その対立した判断は「同時」には成立していない。それは、前提条件の場合わけという考え方で、「同時」ではなく、別々に存在するものとして形式論理では扱うことが出来る。この「同時」を混同すると、形式論理は崩壊してしまうので、物事を合理的に判断することが出来なくなる。弁証法というのは、視点を変えた結果得られる判断を、そのままの形で比べてしまえば「矛盾」として見えてくるので形式論理に反しているように見えるが、それはそのままの形で比べるのではなく、前提の場合分けの結果としての結論として受け止めなければならない。そうすることによって弁証法的な「矛盾」は形式論理の中で整合的に理解しうるものになる。 宮台氏が矛盾してしまうというのも、フィージビリティ・スタディにおいて、現実を場合分けして、この前提の場合には、この結論というのを形式論理による理論展開で示しているだけなのだ。だが、その結論だけを見比べてしまうと、まったく違うことを語っているように見えるので「矛盾」しているように見えてしまう。しかし、その「矛盾」は、形式論理的にはまったく問題がないのだ。 考察の前提がいくつもあるというのは、現実の持っている弁証法性の現れだ。現実が現実であるのは、実は必然性はなく偶然のものだというのが根本にある。前提の選び方には恣意性という偶然性がある。だから、確定した一つの前提を選ぶことが出来ない。萱野さんが言うように、現実社会の問題は、一つの答としては求められないのだ。だから、答を出そうとすれば宮台氏のように、場合分けをして、このときにはこうだというのを複数提出しなければならない。そして、その結論は結果的に対立し「矛盾」を呈することがあるというわけだ。 具体的な問題で考えると、人間存在というのは弁証法性を持っている現実存在として考えられる。昨日の自分と今日の自分は、同じ名前で呼ばれるという側面を見れば「同一性」を持っている。しかし、身体を構成する細胞は死滅したり誕生したりして、昨日とまったく同じ自分が今日もあるというわけではない。自分の内部の変化は常にある。また、外的な環境の変化もあるだろうから、そのような視点で見れば、昨日の自分と今日の自分は同じではないということも言える。 「同一性」の肯定と否定が「同時」に成り立つと考えれば、これは形式論理的な矛盾になる。この矛盾は形式論理を崩壊させる。つまり合理的な判断ができなくなる。昨日の自分と今日の自分が違うものであれば、すべての犯罪は告発が出来なくなる。昨日の自分は今日の自分ではないのだから、昨日の自分の罪を今日の自分が償うということが、形式論理では正当化できなくなる。 逆に、昨日契約したことは今日はもう守らなくてもよくなる。昨日契約した自分は、今日の自分ではないのだから、契約を守る義務は今日の自分には存在しないというのが形式論理では言えることになる。矛盾を認めるような形式論理は、どんなひどいことでも正当化できるという論理になってしまうのだ。 この矛盾を形式論理から排除するには、それは単に視点を変えたときに正当化されるだけの判断だとすればいい。犯罪の告発や契約のときには、昨日の自分と今日の自分は同一の存在であるという視点で形式論理を展開するだけのことなのだ。このときは、矛盾する視点である同一性の否定は排除される。 一方、教育においては、昨日の自分と今日の自分は、成長した分だけ違っているという視点が必要になってくる。これがいつまでも同一の自分であれば、教育の成果は少しもないという判断になり、教育ということが意味をなさなくなる。教育においては同一性を否定する視点で形式論理を展開することが正しくなる。何が変化しているのか、有効な変化をもたらす方法はどういうものかを考えることが、教育の理論展開において重要だろう。これは形式論理によって行われる。 宮台氏も、萱野さんも、小室直樹氏も、いずれも形式論理的な「矛盾」と弁証法的な「矛盾」を正しく取り扱っているように僕は感じる。そこに、これらの人のすごさと尊敬を感じる理由があるのだと思う。
by ksyuumei
| 2007-06-12 10:51
| 論理
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