小室直樹氏が『日本資本主義崩壊の論理』(光文社カッパ・ビジネス)で展開している考察は、論理という観点から見てたいへん面白いものである。それは、理論展開の面からは形式論理的な、前提から結論を導くロジックが読み取れ、その出発点になる発想という点には、矛盾した対立する面が考察されているという弁証法的な面が見られるからだ。
主題としては、日本資本主義の「崩壊」を語っているのであるから、日本資本主義の欠点を分析しているのであるが、単に欠点を指摘しているだけではないように見える。日本資本主義の欠点は、さまざまな問題を出現させたことによって、欠点があることは誰の目にも明らかになった。特に小室氏が指摘するような、先進資本主義国ではあり得ないような、資本主義の根幹を否定するような事件も数多く現れている。「金融犯罪スキャンダル」「インサイダー取引」「株式の損失補填」などを小室氏は指摘している。 しかし、これらの欠点があるにもかかわらず日本資本主義は、戦後高い成長率で発展しつづけた。これは、形式論理的に考えれば、「欠点があるにもかかわらずに発展した」という逆説で語られるだろう。欠点があれば発展しないというのが論理的には結論されるだろう。それなのに、なぜ発展したかという問いは、極めて形式論理的だ。 だが、これを「欠点があるからこそ発展した」と順接で考えると、これは論理に反する矛盾を主張していることになる。つまり、これは弁証法的な、矛盾の存在を肯定し、その矛盾に注目するという発想で考えていることになる。小室氏の主張には、このような弁証法的な観点が含まれているように僕は感じる。 日本資本主義が持っているある属性を、一度それを欠点として認めたならば、どこまでもその欠点の面を捨てずに考察することが形式論理的な展開になる。形式論理では一度下した判断は変えてはならない。それを欠点だと判断したなら、あくまでも欠点として扱わなければならない。 しかし、その欠点を、視点を変えて見てみると逆に長所として判断できるような視点が見つかる。形式論理的に理論を展開しているときに、途中で今まで欠点として扱っていたものを長所に変えるのは理論が崩壊してしまう。だから、途中でそれを変えてはならない。理論展開の際には、あくまでも最初に立てた前提(欠点の判断)は守りつづけなければならない。 しかし、今までとは違う理論を展開しようとするなら、前提そのものを変えて、まったく違う展開を形式論理的に行うのは、形式論理としては間違っていない。前提そのものを変えるのに弁証法的発想を利用するのは、有効に働く場合がある。そのほうが現実理解としては整合的になる場合に、それは有効性を発揮するといっていいだろう。 この場合、同じ属性の現れ(目に見える・観察できる範囲では同じように見える)が、一方では欠点と判断され、一方では長所と判断されるのは、視点を変えたためである。つまり、視点という要素を含めた関数として考えれば、現象は同じでも、判断というアウトプットが変わったといえる。すべてが同じなのに、正反対の結論が導かれているわけではない。 だから、このような弁証法性を、形式論理的な意味での矛盾と同じものだと解釈すると視点の違いというインプットの違いを見落としてしまう。弁証法的矛盾は、形式論理的にはまったく矛盾ではないのだ。ある現象が、同じ現象であるにもかかわらず、同時に欠点でもあり長所でもあるということは、時間的な「同時」ではないのだ。 時間的な意味で言えば、ある現象を観察して、それを欠点だと判断しているときは、それが長所だという判断は少しも生まれていないといえる。対立した判断は、時間的に「同時」には生まれていないのだ。視点を変えるという、時間的なずれを持って考察したとき、外見が同じように見えるものが、意味が違っていたという意味での「同時」に二つの性質をもつという判断が生まれる。 弁証法的な意味での「対立物を背負う」という言い方は、形式論理が矛盾を排除する「矛盾律」と相容れない判断ではないのだ。弁証法の矛盾は、形式論理の「矛盾律」を否定しない。それは、視点を変えて両立する二つの判断を、形式論理の矛盾律に従うような正当な判断として整合性を取るように考えられている。 日本資本主義の欠点を考察しているとき、その同じ視点で見ているものを「同時に」長所として判断することはない。長所として判断するときは、同じ視点ではなく、視点を変えてそれを観察することで判断を正反対のものに変えるのだ。板倉さんの格言にあったように、「ビリっケツ」も向きを変えるという、視点の変化によって「一番」になるのであって、視点を変えなければいつまでも「ビリっケツ」であることは変わらない。 日本資本主義の欠点の最大のものはその非合理性にあると僕は感じるし、小室氏の指摘もそのようなものだと受け取っている。この非合理性は、パブリックな存在よりも、私的な共同体の利益のほうが優先されるという「共同体主義」として現れると小室氏は指摘している。これは、日本の軍隊もそうであったように、おそらく日本社会が持っている原理のようなものだろうということも語られていた。 今は談合というものが非難される時代になっているが、これなどは、同じ業界の私的利益を守るために、パブリックな税金財源の正常な使い方を侵害することになる。私益が公益に優先することになるのだが、これは、資本主義の発展を阻害するものになりかねない。資本主義のもとであればこそ繁栄する企業が、資本主義が駄目になっても、自分のところの利益が守られればいいという、プラットホームを無視した行動をすれば、これは非合理的だといわれても仕方がないだろう。 先進資本主義国家が公益を優先するような仕組みを持っているのは、何もそれらの国々が日本よりも道徳的に高い精神を持っているからではない。そうでなければ、資本主義そのものが衰退するという合理的判断から、公益を私益に優先させるというものが出てくるわけだ。だが、この種の合理性を持たない日本では、たとえ日本資本主義が衰退しても、今の会社の繁栄を守ろうとする方に人々の関心が集中する。 昔から、兵法においては、「敵を知り、己を知る」ということが重要なことだと言われている。つまり、戦闘における全体性を把握して、もっとも効果的な攻撃に力を集中して、敵に最大のダメージを与える戦法が優れたものとされている。この戦法を取るには、全体を把握している最高指揮官に優れた判断力を持った人間を配置する必要がある。硫黄島での戦いでは、栗林中将という最適の人物が指揮官になったので、戦果としては最高のものが得られたのだろうと思う。 ところが、旧日本軍では、セクト主義が横行し、海軍や陸軍は、自らの情報を決して他には伝えなかったという。つまり全体を把握して作戦を立てる人間がいなかったらしい。しかも、指揮官となる人間は、年功序列が徹底していて、ひどいときは士官学校の入学試験の成績でその地位が決められている場合もあったという。小室氏によれば、山本五十六という人は歴史上では有名だが、戦争の指揮官としてはまったく無能だったという評価をしていた。 合理主義があれば、指導者には優れた人物が登用されるのが当然だろうと思う。しかし、日本では、指導者は飾りになっているだけで、実際にものを考えているのはその側近だということが多い。指導者に指導性がなく、判断能力もなければ、組織的な行動は間違った方向へ行く恐れがある。実際に権力を持っている側近が正しい判断を行うとしても、指導者が恣意的に判断を押し付けようとする弊害は消えない。非合理的な側面は、論理的には欠点として作用する可能性を持っているだろう。 この非合理性という欠点から出発する論理は、さまざまの間違いや失敗を帰結するという展開ができるだろう。普通に考えれば長所などはどこにも見つからない。だが、あるときにこれが長所に転化する場合がある。しかも、日本の歴史にはそのようなことが数多くあったのではないかと感じる。 非合理的な判断であっても、多くの人がそれが正しいように感じていたりして、いわゆる「空気」が醸成して、人々のやる気が形成されると、何か知らないが一生懸命取り組んでしまうということが起こってくる。高度経済成長の時代の「モーレツ・サラリーマン」と呼ばれた人々は、単に生真面目だったから猛烈に働いたという解釈では整合的に理解しにくい。 超過勤務でサービス残業はあたりまえという状態で、人の3倍働いて2倍の給料をもらうという状態で日本経済の発展があったのではないだろうか。2倍の給料をもらう満足感で、3倍働かされているという非合理性からの不満が抑えられていたように感じる。日本人がもっと合理的判断をするような社会を作っていれば、高度経済成長時のような働き方は出来なかったのではないかと思われる。 当時の日本人にとっては、何かのために働いているという合目的性はあまりなかったのではないだろうか。むしろ、働くこと自体が生きがいになっているという、非合理的な気分のほうが優勢だったのではないかと感じる。定年になって、本当に自分のやりたいことが出来る時間ができたという喜びを持つ「モーレツ・サラリーマン」は誰もいなかった。生きがいであった職場を去った悲しみのほうが大きかったに違いない。 このような日本社会の非合理性は、製造業における資本主義の発展においては、見事に先進資本主義諸国を追い抜いたのではないかと思う。何を作るかということがはっきりしていた製造業においては、時間をかけて働きさえすれば、合理的に自分の私的な時間を作って働こうとしている先進資本主義国家の市民よりも、より多くの製品を作ることが出来、結果的にコストを下げて、製造の競争に勝つことが出来る。 とにかく長時間働けという気分を作るには、むしろ合理的精神は邪魔になるに違いない。その意味では、高度経済成長という時期は、日本資本主義の欠点が、逆に長所として競争に打ち勝つというものに転化した、日本資本主義の発展にはラッキーだったのかもしれない。 日本資本主義の高度経済成長という視点から言えば、日本社会の非合理性は長所だっただろう。同時に欠点でもあったという面は見せなかったに違いない。その欠点が表面化してきたのは、非合理性のままにとどまれなくなった社会の状況が育ったからではないかと思う。 日本資本主義の欠点が長所として働いていた時代には、その時代が終わらなければ、欠点としての面を見て反省することが難しかったのではないかと思う。長所は同時に欠点でもあるという弁証法性は、言葉の上では理解しやすいが、本当に視点を変えて受け取るには、実感として欠点だという感覚が必要だろうと思う。それが自明の前提として人々の気分を支配しているとき(日本では「空気」という言葉で語られる)、その前提に疑問を提出するのは難しいことだろう。 その前提を変えなければ、そこから形式論理で導かれる結論を否定することは出来ない。前提を認めている限りでは、それから論理的に導かれる事柄は否定できないのだ。もし、結論がどうしても受け入れがたいものを持っているのであれば、他の帰結を論理的に探すよりも、その前提を弁証法的に捉えて、対立した前提を設定するという発想で結論を捨てるという考察が有効なのではないかと思う。形式論理と弁証法というのは、そのように使うことがもっとも有効な利用になるのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2007-06-09 14:05
| 論理
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