日曜日に、宗教的なパンフレットを持って訪問してきた人がいた。キリスト教の勧誘のための訪問だったのだが、僕は無神論者であることを理由に断った。そのとき、改めて自分の無神論というのはどういうものだったかというのに気づいた。僕の無神論は、神を必要としていないという状態から生まれたものであり、科学的認識のためには、始めに神がありきという信仰からスタートすることができないということから来ている。
三浦つとむさんは、徹底した唯物論者であり、自らが無神論者であることを公言していた。僕も、三浦さんが語る意味での唯物論者でありたかったと思っていたので、自分も無神論者だろうと漠然とは思っていたのだが、若いころは教会に通って、キリスト教の洗礼を受けようという寸前のところまでいったことがあった。信仰の中で生きることの心地よさに浸っていたいと思うときがあった。 僕は若いころにキリスト教に関心を持って聖書もよく読んでいた。きっかけは「ブラザーサン、シスタームーン」という映画を見たことで、ここに描かれていた聖フランチェスコの姿に感動し、その生き方に魅了されたからだった。すべてを捨て、自分の信じるものに従って純粋に生きることに、若かった僕は最高の幸福感を見たものだった。 そのような幸福の基礎にあるのはキリスト教の信仰だと思い、自分にもそのような強い信仰がもてるものか、キリスト教にどれだけの信頼を置けるものかという関心で聖書を読み始めた。しかし、今では、信仰というのは論理や理性で持てるものではないというのを痛感している。信仰というのは、まずは信じるという前提があって、それがない限り持ちつづけることができないものだというのを感じる。すべてを理性的認識の対象にしてしまうと、この前提となるべき出発点に立つことが出来なくなる。その意味では、そのような人間は、無神論者にならざるを得ないというのを今では感じている。 三浦さんは、科学者が科学者として振舞っている限りでは無神論者として存在していると指摘していた。科学というのは、理論的には因果関係を論理によってたどっていくという思考活動をしている。何らかの前提が立てられたとき、その前提から導かれる結論は、必ず論理を通って帰結されなければならない。啓示のように、無前提に結論が天下ってはいけない。 この前提にはさまざまなものが存在する。それは、どんな科学を考えるかで違ってくる。自然科学であれば、自然の現象から得られる事実を前提に持ってくる。社会科学であれば、社会的現象を事実として設定してそれを前提にする。これは、事実として目に見えるものを設定するのだが、科学の前提として立てるときはそこに抽象化という過程が入ってくる。無限の多様性を持った事実をそのまま前提に立てることはない。 どんな事実を前提に持っていくかで、個別科学としての特殊性が出てくる。これを、その特殊性を捨象してしまえば、理論を進める道具としての論理が前面に出てくる。論理にとっては、事実性は捨象されているので、論理そのものは科学にはならない。また、論理の中で、対象を数・図形・関数などというものに絞れば、それは数学という、論理の一分野ではあるが論理そのものではない分野が生じてくる。数学は事実性を捨象しているので個別科学ではない。しかし、論理ほどの高い抽象をしていないので、ちょうどその中間にあるものと考えたほうがいいだろう。 科学は、その出発点を現実から見つけてくるが、現実の事実そのものを出発点にするのではないので、科学が主張する前提はご都合主義的に抽象と捨象がされる。その抽象と捨象には絶対的な根拠はない。根拠を探すとすれば、そのような前提を立てたほうが論理の展開に有利だと言えたりすることだろう。数学的な公理は、それまでに知られている数学の定理をすべて導くのに、最も少ない前提だと考えられるものが求められる。科学の前提となる事実も、基本的にはそのような発想で求められるものだろう。 数学の公理は事実性を持たないので、その選び方にはかなりの恣意性が許される。理論の総体が同じものであれば、どのような公理を選ぼうと自由だ。事実性に縛られる科学においては、問題とされる現実認識が正しく行われて、そこで考察されている問題が解決できると思われる理論の構築のための前提が選ばれる。そこで捨てられた前提は、後に問題が表面化してくれば、科学はその時点で修正されざるをえなくなるだろう。 マルクス主義も対象をごく狭い範囲に限っておけば、その現実に対しては科学性を持っていたといえるのではないかと思う。プロレタリアートとブルジョアジーという二つの対立した階級を設定して、他の要素を捨象できるような現実があった時代には、かなりの部分で正しいことがいえたに違いない。しかし、資本主義の発達は、そこで捨象された要素が、社会理解のために重要な影響をもたらすように、現実が変化してきたのではないだろうか。この現実の変化によってマルクス主義は、科学としての修正をされなければならなかったのに、一切の修正を許されなかった。少しでも修正をしようとすれば、それは権力の側から「修正主義」として弾圧された。 これはもはや科学ではなく宗教になったと言っていいだろう。科学は、因果関係的な論理のつながりを考察するので、因果関係の出発点になることの事実性については、絶対的にこれを出発点にするというものはない。それが、その時点でもっとも妥当な出発点だという判断から選ばれているに過ぎないので、将来科学がもっと進めば、出発点は修正されうる可能性を持っている。 自然科学の場合は、これがかなり強固な出発点として存在しているので、確立してしまえばほとんど変わらないように見えるが、これもニュートン力学から相対性理論へと進歩・発展してきたことで前提に修正が施されてきたのではないかと思う。前提が変わらない、あるいは恣意的に選べるというのは、事実性を離れてしまった数学以上のレベルの抽象的な対象に関していえることだろう。 現実の対象を科学的に考察しようとする限りでは、そこに信仰を打ち立てることは出来なくなる。絶対的な前提を置くことが出来ないので、常に前提を疑い、前提が否定される可能性を担保した思考にならざるを得ない。これは、信仰の基礎に絶対的な真理の前提を置くという宗教とは相容れない。科学者が科学的に思考する限りでは無神論者であり、信仰を持てないのはそのせいだろうと思う。 だが、科学者の中にも信仰のあつい人が存在する。これは、今までの考察と矛盾しているようにも見えるが、それは、すべてを科学の対象として見ることが出来ないからだと僕は思っている。科学者が、科学を考えている限りでは信仰は持てないが、科学の対象でないものを考えているときは、そこに信仰が存在することもあるのではないかと思う。 好きか嫌いかという感情は科学の対象にならない。それは論理化できないのだ。ある対象を好きになるというのが、論理的必然性を持つということはない。個人の感情は恣意性がある。個人を超えた、集団の統計的特性として、どんなものが人気があるかという確率的な事象として抽象すれば、これは科学の対象になる。しかし、科学者個人の好みというのは、科学の対象として抽象することは出来ない。 このように科学の対象にならないものを考察するとき、それは偶然の産物に過ぎないという受け取り方が出来ればそれほど不安は生じない。好きになっちゃったものは仕方ないね、というような気分でいれば、それが宗教的な信仰と結びつくことはないだろう。無神論者であることを保つことが出来る。しかし、これがある種の不安に結びつくと、その不安を解消するために、好き嫌いというような感情に合理的な理由をつけたくなる。 しかし、好き嫌いというような感情は科学の対象にならないので、原理的に合理的な理由を見つけることが出来ない。結論としては、それは好きでも嫌いでもどっちでもいいのであって、好きになったのはほんの偶然に過ぎないという結果しか得られない。これが、気持ち的に受け入れられないということが起こると、「運命」だと思いたくなるかもしれない。そうすると、ここから宗教的な信仰の道に入るのはもうあと一歩だ。 どんなに頭のいい科学者であっても恋愛に失敗したりする。それは当たり前のことであって、恋愛のような科学の対象にならないものは、思考力よりも経験がものをいうからだ。恋愛によって大きな痛手を受けたりすると、科学者が宗教的な信仰の道に入る可能性は大きくなるのではないかと思う。 科学の対象にならないものは他に、起源を問うような問題がある。そもそも人間は何のために生まれてきたのかというような問題だ。三浦さんは、このような問題は、問題の立て方が間違っているという指摘をしているが、解答のない問題として受け止めなければならないだろう。このような問題には、科学のようにすっきりとした真理を解答として求めてもそれは得られないのだ。 しかし、この種の問題の解答が得られないと不安が生じるというメンタリティが人間にはある。そのために生まれたのが哲学だと言ってもいいかもしれない。しかし、哲学にすっきりした解答を求めようとすればそれは裏切られるだろう。哲学は、この種の問題にすっきりした解答を与えることがその仕事ではなく、どのようなアプローチで考えることができるかということを示すものなのだ。それは方法論あるいは発想法として捉えることが正しい受け止め方だ。哲学が与える解答を、すっきりした真理だと受け止めてしまえば、それは哲学ではなく宗教的な信仰にならざるを得ないだろう。 僕の無神論をよく考えてみると、現実に科学では思考の対象にならないものに対して、その不安が大きくなりすぎないような免疫性を持っていることが大きいのではないかと感じる。もし不安が大きくなりすぎたら、合理的思考をしたい、僕のようなタイプは信仰にその道を見出そうとするのではないかと思う。信仰の出発点である神の存在は誰も証明できないが、誰も完全に否定できるものでもない。信じる人間には神は存在するし、信じない人間には存在しないとも言えるだろう。だから、信じるということを出発点にすれば、あとはそこから合理的に現実の解釈が引き出せる。これは、気分的には不安の解消になり安定した精神的状態を作り出す。 不安を感じるようであれば宗教は役に立つ。しかし、不安を感じないような免疫性を持っていれば信仰は必要なくなる。現実に科学では捉えきれない対象は、それが存在するのは偶然性に支配されているのだということを気分的にも理解できれば、ある種の信仰を出発点にして気持ちを静めることが必要でなくなる。すべてが偶然性に支配されていると考えるのは、確固とした基礎がなくて自分の存在が揺らいでいるようにも見える。だから、不安を感じずに免疫性を持つことは難しいだろう。だが、科学的認識においては確固たる確信をもつことが出来れば、科学で捉えられないものが少々浮ついていてもそれほど気にはならない。ほとんどの対象は科学で解明できるのであって、ごくわずかのものだけがその対象から外れるのだと思えるからだ。 宗教によって気分を安定させること自体は悪いことではないと思う。それが大きな害をもたらさなければむしろいいことのほうが多いだろう。規律正しい生活と、公共的なマインドを持つことに役立つなら、宗教の最もよい影響を見ることが出来るだろう。僕が「ブラザーサン、シスタームーン」で見た聖フランチェスコの生涯はそういうものだった。 しかし宗教が権力をもち、狂信というものを生んだりすれば、この弊害は計り知れないものになる。端的な現われがオウム真理教が起こした一連の事件だろう。このような宗教は克服されなければならないだろうが、不安に対する免疫性をつけるという難しい問題がある。宗教が権力をもつことなく、個人の不安の解消に役立つ、個人的なものになるような時代はくるだろうか。無神論者にとっての宗教はそのような形になるのではないかと感じている。科学では選ぶことが出来ない、自分の生き方の指針を確定するということの中に宗教が見つけられるのではないかと思う。 宮台真司氏は自らをリベラリストだと呼ぶ。それは理論的に到達した結論ではなく、そう選択して生きることを決意したというような感じがする。それは抽象的な意味で信仰のような感じがする。
by ksyuumei
| 2007-06-05 10:34
| 雑文
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