以前どこかで、資本主義は永遠の発展を運命付けられているというようなことを聞いた記憶がある。語っていたのは宮台真司氏だっただろうか、小室直樹氏だっただろうか。現在の日本は低成長時代になっているが、資本主義というのは、安定成長という現象はありえないというような話だったと思う。すべての人が豊かになって、その豊かさが維持できるということはなく、豊かであってこれ以上もう物はいらないという状態でも、なお大量生産・大量消費によって資本主義は発展させなければ、安定そのものも失われていくというような論理展開だったように思う。
資本主義は、大量生産によってそのコストを下げて、物を安くすることで大量に消費することを可能にし、大量消費によって儲けを大きくすることで発展してきた。豊かさを実現するということでは、社会主義は資本主義にはまったくかなわなかった。社会主義は、計画経済によって必要量を生産しようとしたのだが、社会にとっては必要量というのは予測することが難しいもので、しかも、需要はある種の刺激によって高めることが出来る。 資本主義は、需要を高める手法によって大量消費の方向を打ち出し、それによって儲かる部分にさらに投資をして、コストを下げることを可能にし、さらに儲けることが出来るようになる。しかし、この循環は永遠に回ることは考えられない。大量に生産されたものが市場に行き渡る状態がやがてはくるからだ。 物が市場に行き渡れば、大量生産されたものが売れなくなり、当然のことながら大量消費によって儲けていた部分がなくなる。そうなれば、低いコストで生産していた状況が変化し、大量生産が出来なくなる。そうなると、その企業は市場から淘汰されていくようになる。 このような状況を回避するには、新たな市場を獲得するか、新たな需要を開発して別の商品を大量生産・大量消費できるようにしていかなければならない。いずれにしても、もう十分豊かになったのだから、生産を制限して豊かさを維持する方向に社会の動きを変えようと思っても、資本主義の元ではそれは出来ない相談になるような気がする。豊かさを維持しようと思っても、大量消費が出来なければ資本主義は尻すぼみになり、その豊かさもなくなっていくのではないかと思われる。 資本主義という体制を維持しようとすれば、大量生産・大量消費というものを避けることが出来ない。つまり発展することを運命付けられているというのはそういうことだ。そうであるなら、資本主義を続ける、つまり資本主義がもたらしてくれる豊かさをいつまでも享受したいと考えるなら、環境破壊も止むを得ないという受け取り方も必要になってくる。豊かさと環境破壊とどちらを選択するかという問題の立て方をするしかなく、豊かでもありたいし、環境も守りたいというのは、論理的には両立しない空疎な願いになってしまうのではないかと思われる。 環境を守れという運動は、どこかで資本主義的な発展を拒否するという姿勢を見せなければ、非現実的な空論を唱えるだけのものになるのではないだろうか。九州で生活していた作家の故松下竜一さんは、火力発電所の建設に反対する運動を続けていたが、松下さんは、たとえ電気のない生活になったとしても、火力発電所によって環境が破壊されることには反対だというような主張をしていた。 松下さんは、電気を大量に消費するような贅沢な生活とは無縁な人で、電気の消費が減ったとしても、豊かさが失われたというような不満を感じるような状況にはなかった。しかし、多くの人は、すでに電気の大量消費による恩恵を受けており、その豊かさを捨ててでも環境を守るという意識は薄かったのではないかと思われる。松下さんの崇高な考えと努力にもかかわらず、その運動は大衆的な広がりを持たなかった。資本主義社会の下での環境問題の取り組みの難しさというものを感じる。 資本主義にとって環境破壊の問題は不可避なもので、これが将来的にどれほど深刻になるかが正確に予測できなければ、今その豊かさの恩恵を受けている人々が、自発的に資本主義の恩恵を手放すということは難しいだろう。共産党の内部から、共産党を解体するゴルバチョフのような人物を生み出すことの難しさと同じものを、大衆運動の中で作り出さなければならないという難しさを感じる。優れた人間がそろっていると思われる共産党幹部でさえもゴルバチョフは一人しか生まれなかった。それを大衆的にたくさん生み出すことが可能かどうか。 この種の難しさと同じものを、萱野稔人さんを招いて議論していた今週のマル激の放送で宮台氏が語っていた。萱野さんの「<政治>の思考」というコラムの中の「第11回 戦後体制からの脱却にひそむジレンマ」にも書かれていたのだが、資本主義の発展にとっては戦争が不可避のものかという話題があった。 資本主義には不況・失業などという、その発展を阻むような問題が時に生じる。マルクス主義では、これは市場の無秩序から生まれるもので、市場をコントロールするような強大な権力によってこれを避けるという考えから、企業の私有を認めないような共産主義の考え方が出てくる。しかし、自由主義的な考えからは、これは市場の自由を制限するところから生じる問題だという発想をする。市場の自由が本当に実現されていれば、需要と供給のバランスが自動的に調整されて(「神の手」とも言われているようなメカニズム)、この問題が解消されると考える。 自由主義者にとって、市場の自由を阻むのは、不況のときに労働者の賃金を下げたくてもそれを邪魔する労働組合が諸悪の根源のように映ったらしい。不況であれば需要と供給の関係から、労働者の賃金が下がるのは当然のことで、そこで自由競争によって賃金が需要と供給のバランスを保つ水準に落ち着けば、資本主義の問題は解決されると、論理的にはそう考えられる。 しかし、これは物の値段が自動的に調整されて一定の水準に落ち着くということとは、賃金の問題は本質的な違いがあるようにも感じる。物は、競争に負けて売れなくなればそれが捨てられるということで処理される。もったいないとは思っても、それがある種の法則であれば仕方がないとあきらめられる。しかし、人の場合は、競争に敗れたからといって捨てられることが正しいといえるのかどうか。ここには、物の法則のメカニズムと違うものがあるのではないだろうか。 労働者の需要は物の法則とは違うのだから、それを自由競争に任せて敗者を見捨てるのではなく、国家権力を介入させて経済の回転に影響を与えてこの問題を解決させると発想させたのがケインズではないかと思う。ケインズは国家が需要を作り出すことによって経済を刺激して資本主義を発展させるという方向を主張したのではないかと思う。そして、その作り出された需要によって、労働の需要も生まれるので、労働者を見捨てることなく不況や失業の問題を解決できると考えたのではないかと思う。 小室直樹氏によれば、ケインズの考え方は、それまでの資本主義的な自由を制限するようなものだったので最初のころは支持を得られなかったらしい。それによって本当に、現実の問題が解決するかということが信じられなかったようだ。しかし、ケインズの考えが正しいことを証明してくれたのが、ヒトラーとルーズベルトだったと小室氏は指摘する。 ヒトラーはケインズの理論を知らず、経済学についても専門家ではなかったが、天才的な直感によって公共事業という国家による資本の投入がドイツの不況と失業を解決すると発想したようだ。ヒトラーがそのような政策を実現するためには、反対者をすべて黙らせるだけの強権がヒトラーには必要だっただろうと思う。それまでの常識を覆すようなことをしようと思えば、そのときは独裁的に振舞う必要も出てくる。そう考えると、ヒトラーの独裁はその評価が違ってくるかもしれない。 そして、ヒトラーは自分の考えが正しいことを、ドイツの経済の回復と発展で証明して見せた。ドイツ人は、ヒトラーの政策が輝かしい成果を見せることに驚き、その結果を見てヒトラーに全面的な信頼を置くような全権委任というようなこともしてしまったのではないだろうか。 ヒトラーは高速道路の建設などの公共事業でケインズの理論を証明したようだが、その後の公共事業として、さらに戦争というものが大きな影響を与えたというのが、宮台氏が語ったことであり、萱野氏が指摘していたことだ。戦争こそが、資本主義においては最も効率のいい公共事業だというのだ。それは、第二次世界大戦に突入したアメリカがそれによって経済を立て直したことや、朝鮮戦争によって戦後復興を成し遂げた日本が、やはりそのことを証明していると語っていた。 資本主義の発展にとって戦争は不可避のものなのだろうか。戦争という公共事業がなければ、資本主義にとっては不況や失業が訪れるのを避けられないのだろうか。冷戦構造というのは、直接の戦争をしなくてすんだのだが、いつでも戦争に突入する可能性を見せていたという面では、常に戦時体制を組むことが出来る都合のいい状況だったようだ。冷戦構造の時代にこそ資本主義の最も輝かしい発展があったというのも皮肉なものではないだろうか。 その冷戦構造がなくなってから資本主義にかげりが出てきたようにも見える。そう受け止めると、イラク戦争に対する見方もまた変化してくる。アメリカの侵略という不当性の意味に加えて、資本主義の維持・発展という意味での、公共事業としての戦争という意味も考えなければならなくなる。 もし、資本主義にとって戦争が不可避のものであるなら、資本主義国家における反戦・平和運動の意味というのが、素朴に善意によって正当性が見出せるものではなくなる。資本主義的な豊かさは、実は戦争という公共事業によって資本主義が発展することによってもたらされているなら、その豊かさを享受することと戦争を否定することとは、矛盾してしまうのではないだろうか。どのように整合性を取ればいいのだろうか。 戦争は否定したい、しかしそのことを本気で考えるなら、資本主義的な豊かさも否定することが必要なのではないだろうか。豊かな資本主義国において、その豊かさを保ったままで反戦・平和運動をすることの論理的な矛盾というものを、反戦・平和運動をする人々は深刻に受け止めなければならない。これはたいへん難しいことだ。素朴に、人が殺されるところを見ることが出来ない、というような善意だけで、資本主義国家の内部で反戦・平和運動をすることは欺瞞ではないかという感じがする。 これが欺瞞だからということで、多くの人が犠牲になるような戦争が正しいという主張をすることも出来ない。しかし、戦争の是非は、素朴な感情だけでは結論は出せないということだけは確かだ。 この種の難しさは、無駄な公共事業といわれている、日本の地方の土木工事の問題にもある。公共事業が資本主義の発展をもたらすというのは、日本の土木工事の多さがそれを証明しているとも言えるかもしれない。これは、破産するような自治体が出てきたために、無駄な公共事業をなくせという声が高まっているが、無駄を排したときに資本主義の発展も止まるともいえるのではないかと思う。無駄な公共事業を無くしたとき、それに代わる新たな公共事業が見つからなければ、資本主義は尻すぼみになっていくのではないだろうか。 それでもいいという人が多くなれば、資本主義に代わる新たな社会が生まれればいいと思う。しかし、資本主義的な豊かさを維持したいという人が指導者層にいれば、もう一つの公共事業である戦争のほうに目を向けるかもしれない。資本主義は、マルクスが予想したような階級闘争という根本矛盾ではなく、ケインズが見出した公共事業の必要性という根本矛盾によって曲がり角にきているのかもしれない。
by ksyuumei
| 2007-05-25 09:38
| 戦争・軍事
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