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マルクス主義の理論的誤りについて

社会主義国家に誤りがあったというのは、それが崩壊したという結果からほぼ明らかだろうと思う。前回の指摘が正しいかどうかは異論があるかもしれないが、社会主義という考え方に間違いがあったのは誰もが認めるだろう。もし、そこに間違いがなかったのなら、国家が崩壊するなどという結果を招くはずがないからだ。

国家の崩壊は具体的な事実であり、目の前でソビエトという国がなくなってしまったのを我々は目撃した。しかし、マルクス主義という理論は、ある意味では具体的な存在である国家とは相対的に独立していて切り離すことが出来る。だから、マルクス主義理論そのものは、そこに誤りがあるかどうかというのは解釈に違いが出てくるだろう。

マルクス主義の主張には多くの正しさがあったと思うが、根本的なところで間違っていたのではないかと僕は今では考えている。マルクス主義の場合も、理論は正しかったのだが、その適用においてみんな間違えたという解釈をすることも出来る。しかし、ほとんどすべての状況で適用を間違えたマルクス主義というものは、たとえそれがとても難しいものであったとしても、適用した個人だけに責任があると考えるのはどうも整合的ではないように感じる。



社会主義国家の基礎にあったのはマルクス主義であり、これはほとんど崩壊した。生き残っている中国はもはやマルクス主義に従って思考しているとは思えない。また、日本における大衆運動では、マルクス主義を基礎にして進めようとしていたものについては、ほとんど成果を生むことがなく、今は影響力もまったく無くなってしまったように見える。

マルクス主義が現実の指針において正しい指導が出来なかったというのは、未来を予測することに失敗したのであり、科学としての資格を持ち得なかったことを意味するのではないかと思う。科学にはなりえなかったというのは、どこかに認識の誤りがあったと思うのだが、それがどこにあるかを突き止めるのはたいへん難しい。

マルクス主義は左翼的な人々を魅了して、最も優れた人々をその信奉者とした。この人々が論理的な間違いをすることはあまり考えられない。マルクス主義は、論理においては完璧に近い整合性を持っていたものと思われる。つまり、論理的な誤りを指摘することは出来ないのではないかと思われる。

僕も若いころは、三浦つとむさんが語るマルクス主義の、論理的な完結性が非常に魅力的でそれに惹かれたものだ。現実的には、矛盾したと思われる現象が存在することを目にすることがある。不合理を感じるような現象は、論理の上では存在してはいけないはずなのに、現実には存在する。これは形式論理の範囲では解釈が出来ない。それを弁証法という見方を使うことで、見事に論理的な整合性を確立することが出来た。そこにマルクス主義の理論的な正しさを僕は見ていた。

現実に存在する弁証法的な対象が弁証法性を持っていることはある意味では当たり前のことだ。そして、それは現実の矛盾の存在が合理的であることも語っている。自分が考察している対象が弁証法的な捉え方をすることが正しいのかどうかが、弁証法論理を考えるうえでは重要になる。三浦さんが語るマルクス主義は、この対象の捉え方を正しく行っていたように僕には見えた。三浦さんは、形式論理で捉えなければならない対象を、弁証法論理で捉えることの間違いも正しく指摘していたからだ。

ある対象の視点を変えれば、それに対して正反対の解釈をすることが出来る。板倉さんが「ビリっけつ、向きを変えれば一番だ」と語る事柄は、「向きを変える」というふうに視点を変えて、評価の基準を変えれば、「ビリ」が「一番」になるという弁証法性を持っている。これは、「評価」という事柄が、もともとそのような弁証法性を持っているので、弁証法的に考えることが正しいと言えるのだ。

それに対して、ある人間が「男」であるか「女」であるかを考えるとき、視点を変えればどちらの解釈も出来るということはほとんどない。一般的には必ずどちらかに決定できる。つまり、この対象は形式論理的な性質を持っているわけだ。これを弁証法的に考察しようとすれば論理的に破綻する。

ここで「一般的には」と断ったのは、稀にどちらとも決められない人が存在することがあるからだ。しかし、その存在は本当にごく稀なもので、特殊な存在と考えることが出来る。だから、理論の構築の上では(対象を抽象して一般化するとき)、このような特殊な対象を捨象することが出来る。これは、現実にそのような人々を無視しろということではない。理論の構築においてそのような対象は捨象しなければ一般化することが出来ないので、理論そのものの展開ができなくなるから捨象するだけのことである。

生物学的な判断において、「男」か「女」かは確定的に決定できる。だからこそ形式論理でそれを展開できるので、理論の構築ができる。弁証法は対象の捉え方において注意を促すが、理論の構築と展開においては形式論理を使わなければならない。だから、対象が形式論理に従うような抽象と捨象が必要なのである。理論の展開における形式論理的扱いに際しては、弁証法性を持っている対象は捨象されなければならない。

「男」と「女」という対象を社会的に考察しようとすると、途端に弁証法性が顔を出してくる。生物学的には「男」であるが、社会的には「女」として存在しているように解釈できる対象が見られる。そして、それは捨象すると社会の実態を正しく把握できなくなる場合がある。このような時は、対象の構築においてその弁証法性を保った上で、形式論理的展開が出来るように「男」と「女」の定義を変えなければならないだろう。

三浦さんが語るマルクス主義というものは、対象の捉え方においても、その弁証法性を正しく受け止めて、形式論理的な論理展開をするときには、その対象を正しく抽象していたように僕には見えた。マルクス主義においては、理論的な間違いは見つけられなかった。少なくとも、論理的な整合性は完璧に近いのではないかと思っていたのだ。

しかし、宮台真司氏を知ってからは、マルクス主義理論のどこかに間違いがあるのではないかという気もしてきた。宮台氏が、社会学が誕生のときからマルクス主義と対立している面を持っていたというのも気になっていた。だが、それがどこを指しているのかはよくわからなかった。それが、このあたりなのかなというのを知らせてくれるようなヒントを「連載第一七回:下位システムとは何か?」の中に見つけた。そこでは次のように書かれている。


「■後に詳しく説明する通り、社会システム理論では、政治とは、共同体の全体を拘束する決定を産出する機能(集合的決定機能)を果たす装置の総体のことであり、経済とは、共同体の全体に資源を行き渡らせる機能(資源配分機能)を果たす装置の総体のことです。
■これらを前提にすると、ソキエタス・キウィリスの概念は「政治優位」であり、ビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフトの概念は「経済優位」です。近代の社会概念と違い、前者は集合的決定機能において、後者は資源配分機能において、共同社会の全体性を把握します。
■前者は、血縁原理が支配する原初的社会を離脱して一定の階層分化を達成した高文化社会において、部族的範域を大きく超えた単位(コイノニア・ポリティケ)の決定に各部族的単位(オイコス)が従わなければならない理由を、主題化するところに生まれました。
■後者は、近代初期に勃興した産業ブルジョアジーが、集合的決定にそぐわないコミュニケーションの領域として市場経済を見出す(政治からの自由)と同時に、かかる自由を担保するべく市場の担い手の政治参加(政治への自由)を願望するところに、生まれました。
■前者を象徴するのがアリストテレス政治学で、共同体の営みを人体に擬えた上で政治的コミュニケーションを「頭」と見做します。後者を象徴するのがマルクス経済学で、下部構造たる経済的営み(生産関係)が、残りの営みを上部構造として支えていると考えます。
■因みにマルクスはビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフト(市民社会)を、市場の無政府性が一人歩きする怪物だと捉え、この無政府性を克服するために社会主義革命を構想しました。この構想に従って、二十世紀には「東側」と呼ばれる社会主義国家群が生まれました。
■社会システム理論の鼻祖パーソンズは、東側のような政治の肥大した体制(後述)が生まれたのは、古典派経済学からヘーゲルを経てマルクスに至る「経済優位」の社会把握に問題があるからだと考えました。社会システム理論の構想は実はそこから生まれたのです。」


長い引用になったが、マルクス主義における理論的な問題としては「古典派経済学からヘーゲルを経てマルクスに至る「経済優位」の社会把握に問題がある」という指摘が重要だ。経済は優位しているのではなく、宮台氏がここで説明している下位システムの一つとして他のシステムと共存しているものだというのが社会学の理解だということだ。それは特別なものではなく、他のシステムと同等なのだという。

これはマルクス主義が前提としているもの、数学でいえば公理を否定して、別の公理系を立てようとするもので、確かに対立する考え方になる。しかも、この考え方を基礎にして整合的に理論を構築することも出来る。それが「東側のような政治の肥大した体制(後述)が生まれた」原因を正しく説明しているようなら、マルクス主義よりも、むしろこの考え方のほうが正しいといえるのではないかと思われる。

「政治の肥大した体制」を持つ国家は、現実的な失敗であり、事実として間違いを語っているものであるように見える。この指摘は、マルクス主義の理論的誤りを指摘したものではないかと僕は感じた。

経済優位の考え方は、「存在が意識を決定する」というテーゼにもつながってくるもので、僕はこのテーゼが正しいと思っていただけに、マルクス主義の基本的設定も正しいと思っていた。しかし、人間の意識を決定するのは、経済という要素が大きいものの、他のシステムによって左右されることを捨象できないのではないかと今では思っている。

それが捨象できないものであれば、経済だけを優位にあるものとして抽象し、それを理論の前提にすることには問題があるのではないかと思えてきた。それを前提にして形式論理を展開すれば、形式論理的には何ら問題がない理論が構築できるであろうが、捨象したものが強く影響をしてくる現実においては、その理論は実効性を持たなくなる。「政治の肥大した体制」が現れる現実は、まさにそのようなものだったのではないだろうか。

「政治の肥大した体制」では個人の自由が失われる。マルクス主義がこのような結論を必然的に生み出すものであれば、日本の政治体制がマルクス主義によって変革される前にこのことが分かってよかったと思う。

宮台氏は学生のころから、システム理論によってマルクス主義を批判していたという。その時代は、マルクス主義が全盛のころだったのではないかと思えるだけに、ここにも宮台氏のすごさというものを僕は感じる。
by ksyuumei | 2007-05-24 09:55 | 誤謬論


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