表題にあるような質問に答えようとするとき、普通は、肯定的に答えるか・否定的に答えるかという対立した答を思い描く人が多いのではないだろうか。近代社会というものに対してある種のイメージを持っていて、そのイメージに合致するなら肯定的な答が結論として出てくる。合致しないなら否定的な答になるわけだ。
これが単純な判断なら、その肯定判断も否定判断もそれほど問題になることはない。ことさら異論が出てこないだろうと予想される問題では、細部にこだわって答を求める必要はない。例えば、ある動物を見て、それが「犬」であるかどうかという質問をしたとき、それが肯定的に答えられるか否定的に答えられるかで違う答が出る場合はほとんどないだろう。「犬」であるかどうかを判断するのが難しいという動物は見たことがない。 しかし、対象が単純でない場合は肯定判断なのか否定判断なのかが見解が分かれる場合がある。脳死の判定などの場合、ある人物が脳死なのかどうかということは、専門の医師であっても見解が分かれるのではないだろうか。身体が死んでいるというのは心臓停止の状態が蘇生しないということで、ある程度の共通の了解があるようだ。しかし、身体は死んでいない・すなわち心臓は停止していないが、脳は死んでいるという判断は、脳死の定義によって判断が違ってくる。 単純な事象においては、その判断の根拠になる前提や定義に異論が出ることは少ない。しかし、複雑な事象については、何を捨象しているかが違ってくると、定義そのものが違うものになり、その定義の元で判断をすれば結論が違ってくるということがありうる。これは、論理的には正しい場合がありうるので、正反対の結論がどちらも正しいということがありうる。複雑な事象について判断するときは、単に結論について議論するだけでは正しい判断が出来ない。むしろ、論理の前提になるような定義がどうなっているかが重要になる。 近代社会というのも非常に複雑な事象である。これに対して単純なイメージで判断していれば、その複雑性を十分反映したような判断にはならないだろう。どのような要素を「近代」の本質と見るかということでその定義が違ってくる。そして、定義が違えば、「日本は近代社会である」という肯定判断も、「日本は近代社会ではない」という否定判断も、その定義の元では論理的には正しいといえる場合が起こりうるだろう。つまり、結論としての肯定判断や否定判断そのものを問題にしてもあまり実りはない。 近代社会の考察には、「近代」をどう捉えるかということが重要になる。それを考えるヒントになるものが宮台真司氏の社会学入門講座の「連載第一七回:下位システムとは何か?」に書かれている。宮台氏は、近代社会というものを「機能的分化を達成した社会」というふうに定義する。「機能的分化」という定義がまた難しい概念ではあるのだが、この概念を使えば、考察する人間の立場・イデオロギーにかかわらず同じ結論が出てくる。つまり、客観的な結論として考察を進めることが出来るので、それが科学となる可能性が期待できる。 上記の宮台氏の定義に対して、「産業化」という概念を使って近代を定義することも出来る。宮台氏は次のようにも書いている。 「近代化とは何か。一つには産業化を意味する用法があります。産業化とは規模の大きな生産設備を必要とする第二次産業が発達することです。故に産業化は第一次産業を通じた資本蓄積を前提とします。この意味では東側の一部が近代化を遂げていることになります。」 この定義を使えば、日本はもちろん近代化されているし、東側と呼ばれた社会主義国も近代化されていることが結論付けられる。これも、産業化という概念が、立場やイデオロギーにかかわりなく誰もが同じ判断が出来るようであれば、客観的な判断になり、客観性という点では「機能的分化」を用いた定義と変わりはない。科学になりうる可能性としては同じだ。 しかし、両者の定義は対立する結論をもたらす。「産業化」を基礎にした判断は、日本も東側諸国の一部も近代化されていると肯定的に結論付ける。だが、「機能的分化」という面を見て判断すると、日本は近代化されているが、東側諸国は近代化されていないという結論が出てくる。この対立した結論は、結論としてどちらが正しいかということを考えても仕方がない。むしろ、どちらの定義で考察することが、現実を妥当に解釈したことになるのかということを考えたほうがいいだろう。 それを考察する前に、もう一つの近代化の定義を考えておこう。東側諸国は、国民がイデオロギー的に統制・支配されている状況があったので、思想・信条の自由がないという点では近代化されているとは言い難いというイメージを持つ人もいるだろうと思う。市民的自由の確立、あるいは市民の存在というものを近代化において重要な要素だと考えて定義するやり方もあると思う。この点について宮台氏は次のように書いている。 「■市民社会化とはビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフトになること。人がゲマインシャフトリヒ(共同体的)な存在からゲゼルシャフトリヒ(市民社会的)な存在になること。つまり家族共同体や地域共同体に埋没することのない、自己決定的主体=市民になることです。 ■かつての枢軸国や少し前までNIES諸国と呼ばれた後発近代化国では、例外なく「産業化は遂げたのに市民として振る舞えないこと」が問題視され、この意味での近代化が奨励されました。例えば共同体からの自立の困難が「近代的自我」の問題として議論されました。」 この「市民」という概念を使った近代化の定義では日本もまだ近代化されていないという結論になる。この定義は、「共同体的」「市民社会的」という概念が難しく、誰もが同じ結論に導かれるかという点で心配はあるものの、それが抽象された概念であって、現実の存在をそのまま(ベタに)指しているものではないということが了解されるなら、抽象されるということで立場やイデオロギーを捨象することが出来るだろう。つまり客観性を持ちうる可能性があり、科学になりうる可能性を持つ。 この3つの定義は、いずれも客観性をもち、論理的には並立共存するものとして現れる。結論が対立するものであるにもかかわらず、どれも正しいと理解できるものとして両立しうる。まとめると次のようになるだろうか。 ・機能的分化による近代化の定義 日本社会は近代化されている(肯定判断)。 東側諸国は近代化されていない(否定判断)。 ・産業化による近代化の定義 日本社会は近代化されている(肯定判断)。 東側諸国は近代化されている(肯定判断)。 ・市民社会による近代化の定義 日本社会は近代化されていない(否定判断) 東側諸国は近代化されていない(否定判断)。 この3つの定義のどれを選んで考察の出発点とするかは、立場やイデオロギーが影響してくるかもしれない。近代化というものを価値が高いものと感じていれば、日本が近代化しているか、東側諸国が近代化しているかを、価値観と結び付けて判断したいという動機が働くと、その動機に都合のいい定義が選ばれる可能性はある。 日本は、先進民主主義国家である欧米社会よりも遅れていると考えたいイデオロギー的前提があれば、日本は近代社会ではないと結論付けられる、「市民社会」というものを基礎にした定義を使いたくなるのではないだろうか。逆に、日本も進んだ社会になったと思いたいときは、産業化を基礎にした定義を用いるのが手っ取り早い。 日本は近代化されたが、東側諸国は近代化されたと思いたくなければ、機能的分化を基礎にした定義を用いることが都合がいいのだが、これは考察としては非常に難しい。この難しさを避けたいと思うと、東側諸国が近代社会に入るのは気に入らないけれど、日本が近代社会だと言えるほうを定義として選びたいという気持ちが生まれるかもしれない。 どの定義を選びたいと思うかという気持ちの揺れにおいては、立場やイデオロギーが影響してくると思われる。しかし、そのような立場やイデオロギーから選ばれた定義は、定義そのものは客観性を持っていたとしても、それを前提にした考察は、立場やイデオロギーに支配されたものになり客観性を失う。 究極的には、人間の考察には客観性などあり得ないのだと考えることも出来るだろうが、そのような究極の方向は不可知論的な結論を導くだけだと思う。究極ではなく、妥当性というものを考え、客観性というものが蓋然的に成り立つと考える方向を求めることが科学の方向ではないかと僕は思う。それでは、この3つの定義のうち、機能的分化を基礎にした定義が何故に宮台氏に選ばれ、それが科学的な考察だと考えられるのはどうしてだろうか。 宮台氏は、他の定義の仕方について「単なる用語法なのでそのように使っても構わないと言えますが、社会システム理論家のように近代化を「社会システムの機能的分化」として捉えれば、従来の用法にはなかった発見的な知見が得られます」と自らの定義との違いを語っている。発見的な知見とは例えば次のようなものだ。 「社会システム理論家は、近代社会、即ち機能的に分化した社会システムを達成するのに、キリスト教的な個人性をベースに自己決定的主体化を経由する西欧先進国的ルートと、それを経由しない日本的ルートがあるのだと考えます。日本的ルートの実態は論争の的です。」 近代化というものを、開拓者的なルートと、それを後追いしたルートに分けて、両者の違いと同等性を考察することで発見的な知見が求められる。この違いは、現象的には次のような現れ方もする。 「■社会システム理論家ルーマンが述べた通り、西欧先進社会では、政治権力が介入してはならない市民の行為領域としての人権概念が、分化退行を抑止します。かかる行為領域として、貨幣や真理や信仰や参政のコミュニケーション領域が憲法に書き留められています。 ■歴史的経緯ゆえに自己決定的主体観念の未成熟な日本では、国民が憲法的命令に基づいて国家を制御するという立憲政治の発想が乏しく、人権概念に基づく分化退行の抑止機能が期待できません。下位システムへの機能的分化の概念はこうした観察にも適用できます。」 日本で抱えている問題が、近代化のルートの違いから論理的に導かれるものであれば、その解決の方向も論理的に考察可能ではないかと考えられる。それは、同じ問題が、開拓者的な西欧の近代化では解決されているように見えることから、どこで違いが現れたかということに注目できる。機能的分化という視点を持つことによって、この考察が進めやすくなるのではないだろうか。 機能的分化ということを基礎にした定義のほうが、産業化や市民社会化を基礎にした定義よりも、現実を理解するのに有効で、現実の変革の方向も考察できると言えるのではないかと思う。だからこそこの定義のほうが妥当性が高く、科学として正しい方向を向いているのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2007-05-18 09:54
| 雑文
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