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問題のレベルと社会学的な視点

宮台真司氏は「社会学講座 連載第15回:人格システムとは何か?」の中で次のように語っている。


「■心理学は、現行の制度や文化を「前提にする」学問です。社会学は、現行の制度や文化を「疑う」学問です。社会学によれば、「社会」とは私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的前提の総体で、非自然的前提の総体を明るみに出すのが社会学の目標です。
■ゆえに「個人が治ればいい」という心理学と、社会学の対立は避けがたい。現行の制度や文化を前提とする限りで「こうしたらいい」という心理学の提言が理に適っていたとしても、そもそも現行の制度や文化を維持するべきかどうかに疑問を呈するのが社会学です。」


心理学と社会学とは、問題の捉え方のレベルが違うという主張だ。ここで宮台氏は「かつては狐憑きや神降ろしの媒体として珍重されていた心的喪失者が、近代初期には犯罪者や涜神者と同様なノイズとして隔離され、19世紀以降は治療対象として見出されます」とも語っている。



心的喪失者が、社会にとって問題にされていなかった時代は、彼らの心を治療して正常に戻すという問題は生まれなかった。しかし、彼らが社会にとっての正常値からは離れている、つまり異常だという判断をされると、彼らは「治療対象」になる。社会にとっての正常値とは、現行の制度や文化を「前提にする」ことから判断される。

だが、この問題を別の視点から捉えることも出来る。心的喪失者が、確かに社会にとって問題視されたとしても、それが個人レベルの解決されなければならない問題として捉えられるのではなく、社会の変革を伴った問題解決の方向が考えられる場合がある。社会のほうに、より大きな解決の方向を見出すのが社会学的な視点のように感じる。

この視点のシフトは、心理学的な解決方法に限界を感じているときは、ある種の救いが見えてきたりするのではないかと思う。宮台氏は、


「例えば、家族の中に居場所が見つからない人に、なぜそうなるのか、どうすれば見つかるかを心理学者は語ります。でも社会学者から言えば、家族の中に居場所を見つけなければならない理由はないし、そもそも家族を営むべきなのかどうかさえ疑わしいのです。」


とも語っている。居場所を見つけるのに多大な努力を払いながらも、なおそれが見つからなくて絶望的になっている人にとって、それを見つける必要がないかもしれないと発想するのは、とても気持ちが楽になるのではないかと思う。あるパラダイムの範囲で問題解決をしなければならないと考えると、そのパラダイムの中ではもはや不可能だと思われる場合もあるのではないだろうか。そのときは絶望があるだけだ。しかし、パラダイムを超える発想があれば、その絶望から新たな出発が出来る。

しかし、この発想は、徹底的に絶望した後でなければうまく行かないような気もする。絶望が中途半端に終わるようだと、パラダイムを乗り越えてまで解決を目指そうという気持ちが生まれないのではないかとも感じる。まだ絶望しきることが出来なければ、そのパラダイムの範囲内で解決が出来るのではないかという希望も持ってしまうのではないだろうか。

宮台氏は『絶望から出発しよう』というタイトルを持った著書もあるが、これは、絶望から出発しなければパラダイムを乗り越えることができないということを語ってもいるのではないだろうか。深い絶望の後に、もはや現行のパラダイムにはまったく希望がないと判断できたとき、現行のパラダイムを否定する、その思考の前提である社会的現実を否定するような発想が生まれてくるのかもしれない。社会学的な視点というのは、そのようなパラダイムの変換を見出すのに役立つものではないかと感じる。

母親を殺害してその首を切り落とした衝撃的な事件を起こした少年については、心に問題がある、あるいは人格に問題があるというふうに、心理治療の対象であるように捉えたい人が多いかもしれない。彼は特殊で、普通ではないからあのような事件を起こしたのだと考えれば、自分のことを普通だと思っている人は安心できるのかもしれない。だが宮台氏の次の言葉を見ると、そのような安心感が吹っ飛んでしまうのではないだろうか。


「■同じく、精神医学(広義の心理学の一部に数えます)は最近“病気(神経症や精神病)ではないが変な人”を「人格障害」と呼び、矯正教育の対象とするようになりました。しかし社会学は、治すべきが人の心なのか社会の在り方なのかは、自明ではないと考えます。
■社会学の立場では「人格障害」は郊外化現象への合理的適応です。「人格障害」はむしろ正常性の証です。これを矯正教育の対象とすることで、合理的適応として「人格障害」を生み出すような社会そのものの矯正が、埒外に置かれる可能性を社会学者は危惧します。」


「人格障害」と呼びたくなるような、普通ではない人が、実は「郊外化現象への合理的適応」だとしたら、そのような人間はこれからもたくさん生み出されると予想される。治療すべきは人間ではなく、社会なのだと考えなければならない。だが、この社会学的な視点から得られた発想は、まだそれを信じられない人が多いのではないかと思う。今の社会で、人々が努力をすれば、そのような普通ではない人間の問題を解決できるはずだと希望を持っている人が多いのではないだろうか。まだその希望がまったくないというほど深い絶望を持っている人は少ないのではないだろうか。

直すべきは人間ではなく社会なのだ、と考えられるためには、そんなことでは問題は決して解決されないという絶望が必要なのではないかと思う。それでは社会はどのように変革されなければならないのだろうか。前回紹介した「承認のコミュニケーションによる尊厳の獲得」というような教育が浸透している社会というものが一つの理想となるものかもしれない。

絶望から出発して問題のレベルを変えるというのは、教育においての問題でも有効ではないかと思う。今の教育は、現行の制度の中で努力すれば、個々の問題が解決していくと考えるのか、もはや今の制度の中では問題の解決は絶望的で、表面的によくなったように見えても、その奥にはさらに深刻な問題が隠れていてやがてそれが表面化してくると捉えるのかは、問題解決のレベルを考えるのに非常に大きな要素となってくる。

宮台氏は、『教育「真」論』の中では、「学級崩壊」について次のように語っている。


「ちなみに、学級崩壊はたいした現象ではありません。高岡先生の言葉に寄り添って言うなら、たとえば、クラスを集団行動的に運営すること自体がいいのかどうか、です。80年代に、プロ教師の会の人たちは、「教師側が弱くなって、子どもたちが言うことを聞かなくなった以上、クラスを維持する上で管理教育は不可欠なのだ」と言っていました。そのときから僕は言っていましたが、他国のようにクラスを廃止すればいいだけの話です。一斉カリキュラムとクラス制度は、都合のいい工場労働者を安く早く栽培するためのメカニズムだったわけで、ファクトリー・オートメーションとオフィス・オートメーションが一般化した成熟社会では用済みです。」


「学級崩壊」は問題だ、と考えたとき、それを現行の学校制度の中で解決を図ろうとすれば、プロ教師の会の人々のように「管理教育」で崩壊を防ぐという方向が考えられるだろう。このとき、管理能力に優れた教員がいれば、現行の制度の中でも「学級崩壊」という問題は解決してしまう。そして、プロ教師の会の人々は、「管理教育」の能力においてはきわめて優れていたといってもよかっただろう。彼らは、この問題に関しては絶望しきるということはなかったに違いない。

だが、彼らほどの管理能力のない教員にとっては、おそらく「学級崩壊」は絶望的な状況だったのではないかと思う。そして、この絶望的状況を、本当に絶望だというとことんまで深めることが出来たら、宮台氏が語るようなパラダイムの変換が出来るのではないだろうか。さらに言えば、パラダイムの変換が出来るなら、宮台氏が言うように「学級崩壊は大した現象ではありません」と思えるのではないかと感じる。それはパラダイムの変化によって、このような捉え方が出来るのである。

現行の学校制度が大事なものであれば、クラスを維持することも大事になり、「学級崩壊」は解決しなければならない問題になる。しかし、そもそもクラスなどというものがなくなってしまえば、崩壊する対象の「学級」がなくなるのだから、「学級崩壊」という問題もなくなってしまうのである。

クラスをなくしてしまえば、都立の単位制高校のように、自らが何を学ぶのかを選択するような学校制度にならざるを得ないだろう。そうすると、今度は教員の側のパターナリズムというパラダイムが絶望を迎えるかどうかという問題が生じる。子どもには、何が自分にとってよいことかを間違いなく選ぶ判断力はないと考えるなら、そこには子どもを導いてやらなければならないというパターナリズムがパラダイムとして存在することになる。

パターナリズムによって子どもを指導しようとしても、教員の判断が必ずしも正しくはならない、むしろ子どもを誤解して間違えることが多い、という絶望を教員の側が自覚するかどうかでこのパラダイムが崩れるかどうかが決まるだろう。現行の制度を支えるパラダイムは、このように多くの絶望を経てようやく変えることが出来るのだろうと思う。それに少し早く気づくには、社会学的な視点を学ぶことが有効ではないかと思う。暗黙の前提にさかのぼって考察するという、社会学の再帰的思考は、パラダイムとして無意識のうちに前提としていたことに気づかせ、それに対する疑問を育てることによって問題のレベルを変えていくのではないかと思う。そして、時代の変わり目においては、おそらくそのような発想が問題の本当の解決を教えてくれるのではないかと思う。

なお自己決定による子どもの選択という問題は、それがたとえ間違っていたとしても、教育的にプラスの方向に生かすことも出来る。自分の決定の判断のどこが足りなかったのかを自覚することが出来れば、子どもは次の決定の判断ではより正しい方向を選べるようになる。進歩することが出来る。子どもの選択というものを、間違いなく選ぶということを目的にするのではなく、選ぶということの経験の中で、判断力を育てるという目的に変えれば、より教育的になってくる。間違えてはいけないというパラダイムは、実は教育的ではないのだ。むしろ間違いから何を学ぶかというパラダイムこそが教育的に正しいと僕は思う。
by ksyuumei | 2007-05-16 23:36 | 方法論


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