板倉聖宣さんは、『子どもの学力 教師の学力』という本で、「パラダイム理論」というものに触れている。板倉さんによれば、パラダイムというのは、<物事を考えるときの考えの枠付け>という言葉で説明されている。これは、抽象された結論だけを語っているので、捨象された過程を知らなければ、この用語の本質的な意味を理解するのは難しいが、この用語をまったく知らない人は、まずはこのようなイメージからの理解を図ることになる。
<パラダイム>の概念については、「パラダイム 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」に詳しくかかれているが、そこでは 「クーンの提出したこの概念は、本来は限定された専門分野において用いられることを想定していたにもかかわらず、時としてビジネス書にすら登場するほど一般的な言葉となった。そうした場合、最大公約数的に言うと、パラダイムは“時代の思考を決める大きな枠組み”などと解されていることが多いが、これは誤った解釈であり、そのような“大風呂敷を広げて”いる概念ではないことにまず注意しなければならない。こうした誤謬、また、パラダイム概念の発表とともにクーンが巻き込まれた激しい論争の位置付けを理解するためには、そこまでに至る前史と文脈をおさえておく必要がある。」 と書かれている。<パラダイム>の概念は、それを正確に知るには科学史などの知識を元にして、この概念が抽象されてきた過程を理解するということが必要で、それなしに、現実の現象にすぐに当てはめて解釈しようとすると、捨象されたものを含めてしまったり、抽象したものを捨てたりする間違いをするのではないかと思う。最初の理解の段階では、科学に対して、それも自然科学に対して考察することに限ったほうがいいのではないかと感じる。 板倉さんは、<地動説のパラダイム><天動説のパラダイム>というものについてここで書いている。天体の運動の捉え方について、長い間<天動説のパラダイム>が人々の常識を占めていた。天体の運動を考察する上で、地球が中心にあり、太陽を始めとする天体が地球の周りを回っているという「考えの枠組み」が<天動説のパラダイム>だ。 実際にはこのパラダイムを揺るがすような事実はいくつか発見されている。惑星の運動などは、この<天動説のパラダイム>では十分整合的な説明が出来ないので「惑星」という「惑う星」と言われるようにもなったのだろうと思う。これは、後になって<地動説のパラダイム>によって、あらゆる事実が整合的に説明されるようになるのだが、整合的でない事実が見つかっても、それによってすぐにパラダイムが変えられるということがなかった。<天動説のパラダイム>にとって都合の悪い事実が発見されても、それを何とか解釈することによって<天動説のパラダイム>は維持されるように工夫されてきた。 コペルニクスの地動説は、理論としてはほぼ完璧であったにもかかわらず、その当時のパラダイムを変革することは出来なかった。後に、パラダイムがすっかり変わってから、その偉大な業績が評価されるということになった。そのパラダイムの変化が、「コペルニクス的転換」と呼ばれて、非常に大きなものであったと捉えられている。 パラダイムという考えで非常に重要なのは、「新しい事実が発見されたからといって、科学者たちはその事実を元にすぐに古い理論を乗り越えることが出来ない」ということだというのを板倉さんは指摘している。思考の枠組みを変えるというのは、とても難しいことなのだ。だから、教育においても、「子どもたちに新しい事実を示しただけで、それまでも常識的直感的な考え方を覆すことが出来るのか」ということが重要な問題になる、ということも板倉さんは指摘している。 板倉さんは、<天動説から地動説への転換>の問題に取り組んで、このパラダイムの変換がどのような段階を経て行われたかを考える中から、「真理(科学)はいかにして確立するか」を求めることが出来た。それが仮説実験の論理であり、これを応用したものが仮説実験授業ということになる。 パラダイムという枠組みは、それまで発見された事実に対してはよく合致するような説明をしているのではないかと思う。だから、それは新しい事実に対しても、有効な枠組みになるのではないかと思って、ある種の前提として設定される。それはある種の先入観であり、物事を考える仮説として設定される。 これを仮説として意識できていれば、それに反する事実が見つかったときに違う仮説を思いつくことが出来る。しかし、この仮説が真理にまで高まってしまうと、それはイデオロギーとして人間を支配してくる。人間の目には天が回っているように見えるので、天動説が正しいに決まっているというイデオロギーを持てば、それに反するような事実が見つかっても、天動説そのものを変えていこうとするのではなく、その解釈を工夫してつじつまを合わせようとしていくようになる。これが<パラダイム>の問題としてあるということが、<パラダイム>の概念として最も重要なものではないだろうか。 パラダイムを乗り越えるには、それを仮説として意識できなければならない。イデオロギー的な真理だと思い込んではならない。そのような認識をもたらすために、板倉さんは、実験の前に仮説を闘わせるという「仮説実験の論理」を考案したのだと思う。実験前に仮説を闘わせることによって、そのパラダイムが、もしかしたら違うんじゃないかという気持ちを1%でも持つことが重要だというのだ。 <パラダイム>という概念が提出された当初は、それの支配がいかに強いものか、それから逃れることがいかに難しいかということが強調されたようだが、それを超える方法については発見されていなかったという。板倉さんの仮説実験の論理がそれをはじめて提出したと、板倉さん自身も語っているが、僕もそのとおりだと思う。 板倉さんの次の指摘は、人々の考えが変わらないことの理解を深めることに役立つのではないかと思う。 「人々は、「自分たちの持っている常識的直感的な考え方は疑い得ない。百パーセント確かだ」と思っているときは、公平な立場から見てそれが<明らかに間違っている>ということを示す事実を示されても、そのことだけで自分の考えを変えることが出来ないのです。そんなときには頭が空白になって、ただただ「これは何かの間違いだ」と思うだけなのです。そこで、その後さらにいくつかの実験問題を繰り返すことによって、「従来の考え方では正しいと思えない予想・仮説にも、1%くらいは正しい可能性がある」と認めることが出来るようになって、その考えを改めさせることが出来るのです。」 言語ゲーム的に、社会で流通しているということだけを根拠に信じられている「真理もどき」が、実は間違っているという事実が発見されても、その言語ゲーム的真理があまりにも深く信じられているときは、事実のほうを人々は否定したくなる。それは、事実を認めたときの自分の混乱に耐えられないからだ。宮台氏ならそれを「アノミー」と呼ぶのかもしれない。 板倉さんは、社会主義国家の崩壊によって「これで社会主義の間違いは誰の目にも明らかになった」という例を挙げているが、「それまで「社会主義が正しいことは疑い得ない」と考えていた人々は、そうは考えられませんでした」と指摘している。これは、「社会主義の間違い」ではなく、社会主義の正しさをうまく展開できなかった、「社会主義国家の指導者」の間違いだと解釈できる。このような解釈で<パラダイム>の維持を図った人々は、この実験結果からだけでは、<パラダイム>を変えることは出来なかっただろうと思う。 板倉さんの次の指摘も、深い教訓として心にとどめておきたいことだ。 「「1%でも可能性がある」と思う人々は、その1%の可能性が事実として現れると、「やっぱり」と思うことが出来るのです。0と1%の差はそれほど大きいのです。仮説実験授業がほとんど一切の押し付けを排除することが出来たのは、その違いに着目して、科学上の最も基本的な概念を教えるのに、一つの実験問題だけでなく、一連の問題を系統的に取り上げる手順を取ってきたことによるのです。」 イデオロギーに支配されていると、1%の異論を認めることが出来ずに、反論の成立の可能性を0にしてしまう。ポパーの反証可能性の理論を適用すれば、このような主張は科学にはなり得ないことになるだろう。科学にはなりえないということは、それは客観的な視点での真理ではなく、利害対立のあるときの、ある利益を代表する願望に過ぎないということになる。これは、ある種の運動をするときに、指導的立場にいる人間が忘れてはならないことではないかと思う。 利害対立から言って、異論を肯定することは出来ないということがあるだろうが、客観的な理論として考えた場合、その異論の可能性が0であるという判断をしてはならないだろう。主観的には、利害関係から言って異論を否定したとしても、それは客観的判断ではないということを自覚していなければならない。 運動において、長期的な戦略を立てるには、客観的に正しい事柄に沿ったほうがよい結果を生むと思う。短期的には、客観的な判断よりも、利害を第一に判断してもいい場合も出てくるだろう。利害が一致する人が圧倒的大多数を占めるといえるときだ。そのときは、民主主義制度を利用すれば、多数の利益を実現する運動が出来るだろう。 だが、そのときも、その利益の実現が、長期的に見れば客観的に正しいかどうかは、異論の可能性があるということを常に忘れてはいけないだろう。指導者であれば、そのような長期的な見通しをいつも考えて、それを間違えたときには、修正が出来るような手立てをうっておかなければならないだろう。そうでなければ、パラダイムにとらわれて、イデオロギー的な妄想による失敗をするだろう。 最近の問題で言えば、憲法9条が「世界平和」に貢献したというのは、間違ったパラダイムではないかと感じている。それが貢献したのは、日本が戦争を起こさなくてすんだという、日本人にとっての利益に貢献したのだと理解したほうがいいのではないかと思っている。 憲法9条の主張は正しいに決まっているのではなく、ある条件のもとで日本に利益をもたらしたと理解したほうがいいのではないかと思う。もし、この主張を客観的に正しいものと受け取ったら、社会主義を疑うことが出来なかったものと同じ失敗をするのではないだろうか。憲法9条も一つのパラダイムであり、状況や視点が違えば変えなくてはならなくなるものではないだろうか。その変える可能性を0にしてはならないのだと思う。具体的にはどのようなときに変える可能性が生じるのかを、憲法9条を守ろうとする人々も考えなければならないのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2007-05-11 10:13
| 方法論
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