義務教育学校の6つ目の弊害は「条件つきの自尊心」という言葉で語られている。ジョン・テイラー・ガットさんはまず次のように書いている。
「六つ目の教育方針は「条件つきの自尊心」である。親から無条件に愛されている子どもは、自尊心が強く、従わせるのが難しい。しかし、こういう自信家が大勢いては、社会は維持できない。そこで私は、子どもたちに、自分の価値は専門家の意見に左右されるということを教える。つまり、彼らは常に教師に評価され、審査されるのである。」 僕は子どものころから、人間の正しい評価など誰にも出来ないと思っていた。だから、たいていの評価は間違っていると思っていたので、ある意味ではどのような評価をされようともそれに驚くことはなかった。的外れな評価をする人間は、まあ「見る目がないんだな」と思っていた。 僕の両親も、教員の評価よりも自分の目で見たほうを信じていたので、学校がどのような評価をしようともそれに影響されることはなかった。もっとも僕の評価はずば抜けていいものでもなく、ずば抜けて悪いものでもない平凡なものだったからそれほどの影響を与えなかったのかもしれない。 とにかく、僕は正しい評価というものは難しいということを心得ていたので、評価によって自尊心を傷つけられることは少なかった。例えば、僕は高校3年の1学期までは英語の勉強というものをしたことがなかった。授業のときに話を聞いてはいるけれども、ほとんど関心がなかったのでまったく覚えなかった。僕にとって英語は必要のない知識だと思っていたのだ。 そのために定期テストでは常に平均点の半分以下で最下位をさまようという結果だった。国語や古文も似たようなものだった。数学ではほとんど満点以外はとったことがなかったが、他の教科で点が取れたのは、物理や化学のような理科系科目だけだった。世界史はテストがなく、レポート提出だけで成績がつけられたので高い評価をしてもらったが、後はほとんど赤点ぎりぎりの成績で高校3年間を過ごした。 そんな評価に対しても、僕はそれらの教科は必要ないから勉強しないのであって、評価される必要もないと思っていたので気にしたことはなかった。大学受験をするときに、英語だけは必要になったので、100点満点の30点くらい取れば、あとは物理と数学で合格点に達するだろうと思い、30点を取るだけの英語を習得するために勉強したことがあった。 夏休みの勉強でそのときのテストでは平均点をわずかに越えることが出来たので、これで30点は取れるだろうと思い、安心してまた学校の評価を無視することが出来た。大学へ入ってからは、教科書を丸暗記したらどれだけ点が取れるだろうかということを試すために英語の教科書を覚えたことがあった。そのためには1週間くらいの勉強が必要だったが、丸暗記さえすれば、ほとんど理解していなくても満点に近い点が取れることが分かった。 そのときに丸暗記した内容は、試験の数時間後にはほとんど忘れたが、試験の時間内だけ記憶に残っていれば、テストの評価を高めるには十分だ。また、すぐに忘れるような覚え方をしなければ、おそらく丸暗記などは出来ないのだろうと思う。印象深く、理解するような覚え方は、きっと丸暗記には向かないだろうと思う。僕は、ひたすら教科書をノートに写して、5回ほど書いたときにほぼ完全に丸暗記できたと感じたものだった。 このように学校の評価の本質を見ることが出来れば、そんなものに自尊心を揺さぶられることはないだろうと思う。しかし、学校は、巧妙にそれがさも大事であるかのように思わせてくる。ジョン・テイラー・ガットさんは、その方法を次のように語っている。 「実際、生徒の家庭には月に一度、通知表が送られ、テストの点などが報告される。点数が一桁だったりすると、親は我が子にがっかりするだろう。学校の存在意義をアピールするためには、そうした不満を持続させることが重要である。」 学校で教えていることは一貫性がなく、本当に重要なことなのか分からない。だから、そんなものが出来なくても少しも心配はないのだが、それが出来ないのは頭が悪いからではないかという迷信が、このような方法を有効にする。がっかりすることはないのだが、そのような気持ちが浮かぶような思い込みが刷り込まれていると、学校の評価は、生徒を支配する便利な道具になる。ジョン・テイラー・ガットさんの次の指摘はまったくそのとおりだと僕は思う。 「これは、企業が消費者に不満を抱かせ、そこから需要を掘り起こすのと似ている。教師は通知表を作るのに手間も時間もかけないが、こうした客観的(に見える)データの積み重ねによって、子どもの自尊心は大きく左右され、自分の未来は他者の評価にかかっていると考えるようになる。自己評価は、哲学の世界では重要な要素でも、学校教育ではまったく問題にされない。 通知表の目的は、子どもたちに自分や親を信じさせるのではなく、資格を持った専門家の評価を信じるように教えることである。自分にどれだけの価値があるのか、それは他人が決めることというわけだ。」 さて、最後の弊害として指摘されているのは「監視」というものだ。これは、日本の学校においては最も害悪の大きいものではないかとも感じる。フーコーの理論を借りるまでもなく、監視による支配こそが、秩序を維持させるためには最も有効だというのが学校の長い歴史のうえで証明されているのではないだろうか。ジョン・テイラー・ガットさんは次のように指摘している。 「7つ目の教育方針は「監視」である。私は生徒たちに、彼らがいつも見張られていて、教師の監視から誰も逃れることは出来ないと教える。子どもたちには、プライベートな場所もなければ、プライベートな時間もない。5分間の休み時間は、彼らをさりげなく接触させ、お互いにスパイさせるためである。生徒はお互いの秘密や親の秘密を聞き出し、それを密告するように奨励される。もちろん、教師は親にもそれを促し、我が子の反抗的な態度を学校に報告させる。密告が徹底されている家庭では、どんな秘密も筒抜けだ。」 5人組だとか、連帯責任という伝統がある日本では、このような相互の監視体制というのは、まさに放っておいても機能するような社会となっている。これがいかに地獄のような世界を作り出すかは、これこそが悪質ないじめの元凶だと指摘する内藤朝雄さんの主張が正しいと思わせてくれるだろう。 いったいこのような世界でまともな大人に成長することが期待できるだろうか。夜間中学には、子どものころに学校にいけなかった年配の人がたくさんきていたが、それらの人々は、学校で教える知識は知らなかったけれど、すべてまともな大人として生きてきた人たちだった。大人として自分の判断を持ち、礼儀正しく、思いやりがあり、奉仕する精神を持っていた。なかったのは、学校的な知識だけだった。しかし、僕にはその人たちのほうが、学校で育った普通の日本人よりもはるかに立派な社会人に見えたものだ。 夜間中学に行く前に普通の昼の中学校にいたとき、教員などより道徳的にはるかに立派な女生徒が一人いた。まじめで公正心が高く、思いやりのある、尊敬すべき生徒だった。しかし、残念なことにこの生徒が、クラスの中では浮いた存在になってしまうのだ。他の生徒が彼女の持っている大人としての長所が理解できないのだ。そのときに、僕はやはり日本の学校はどこかおかしくなっているのだと感じた。そのときは、それが学校の原理的な欠陥からくるものだとはわからなかった。しかし、今なら学校というのはそもそもそういう存在だったのだと考えることが出来る。自分が生徒だったときもそうだったのだから。 日本人の描く学校神話には、心の通い合う教師と生徒との暖かい関係というものがあるのではないだろうか。古い映画の「二十四の瞳」に描かれた大石先生と生徒たちや、金八先生と中学生たちとの熱いドラマなどが、学校に対する日本人の理想を語っているのではないかと思う。僕も、教師になった当初は、灰谷健次郎さんが描く『ウサギの眼』に表されているような、生徒との深い結びつきこそが教師としての喜びであるという思い込みがあった。 ところが、現実にはそのような深い結びつきに感動する前に、学校という監獄に収容されている子どもたちの醜さのほうが強いインパクトを持って見えてきてしまった。それは当然のことだろう。このような環境でも、なお美しい自分を保っていられるなどというのは、フィクションの物語の世界でなければあり得ない。 本多勝一さんの『アメリカ合州国』という本には、善意にあふれた人が実際に黒人の世界に入ってきたとき、そのうそや犯罪性に驚いて、黒人がそもそもそのようなひどい性質を持っているのではないかという偏見まで持ちかねないことがあると書いていたことがあった。僕も、あのまま昼間の中学校にとどまっていたら、子どもは本来そういうひどい性質を持ったもので、弾圧して抑えなければ管理できないものだと思ったかもしれない。 そういった考えを抱かずにすんだのは、すぐに養護学校に転勤したからだ。ここでの子どもたちは、率直に言えば社会から見捨てられていた。資本主義を担う労働者や消費者として期待されていないのだ。だから、学校に見られる7つの弊害がここではかなり薄められていた。子どもたちは、教師に嘘をついて評価されたい面を見せる必要がなかった。彼らは率直に、教師としての存在の僕ではなく、人間的な面を好いてくれた。そこで僕は、教師として再生させてもらったという思いがある。 学校らしくない学校こそに本来の教育の喜びがあるというのが僕のそのときからの思いだ。だから、学校らしくない学校として夜間中学校で仕事をすることを選んだ。最近は、この夜間中学が、とても学校らしくなってきたので心配をしている。学校の持つ弊害が生徒たちに現れるのではないかということを心配している。大人ばかりの学校であった時代には少しもその傾向がなかったのに、最近10代の子どもが増えてきたことによって夜間中学校はかなり義務教育学校らしくなってきた。 夜間中学校が学校らしくなることを少しでも押しとどめたいと思うのだが、もし学校らしくなったときに、ジョン・テイラー・ガットさんが語る弊害のいくつかが際立ってくるようなら、やはりこの指摘は正しかったのだなと証明できるのかもしれない。ジョン・テイラー・ガットさんが主張するように、日本の学校は、学校らしさを捨てたときに再生するのだと僕は感じる。
by ksyuumei
| 2007-05-04 15:17
| 教育
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