小室直樹氏の指摘で気になることの一つに、父性の欠如とそれに原因するモラルの喪失との関係というものがある。小室氏は、『悪の民主主義』の中で「父性が良心を作る」と語っている。そしてこの良心が「人の規範(倫理、道徳)をつくる」と主張している。
小室氏によれば、「社会規範が内面化したものが良心である、ということである。そして、社会規範を内面化させるものは、父性の権威(authority)である」ということになる。小室氏は、「フロイトは、「父が権威を与える」ことを科学的に解明した」とも語っている。 ここで言う科学的ということの意味は、僕はそれが党派によらない真理であるという意味に受け取る。どのようなイデオロギーを持っていようとも、父性が権威を与え、その権威が内面化して良心となり、それが人の行動を規定する倫理となるということは誰もが認めるだろうということだ。フロイトのいうスーパーエゴと呼ばれるものはそういうものだろう。 良心の声というのは、理屈抜きに悪いことは悪いということを規定してくるものだ。河合隼雄氏は小室氏の本にも、「日本に復権するべき不正などなかった、今の日本では、「父性の創造」こそなされるべきである、と主張している」と紹介されているが、非行のある子どもとのカウンセリングにおいて、理屈抜きに悪いということを指摘して、権威をもってモラルを押し付けることがかえって非行から抜け出すきっかけになることを報告していた。 僕などはどのような行動においても、良心の声よりも論理のほうを優先して考えるので、あるときは世間的な常識的判断よりも、論理的な必要性から、あえて良心の声に反する選択をするようなときもある。しかし、いつでも論理を優先していると判断の出来ない行動の指針というものもある。 例えば「人を殺してはいけない」というモラルは近代社会において大切なものだが、これに論理的な正当性はないということを宮台真司氏が指摘していた。現代社会を生きている我々は、このモラルは当たり前のように感じているが、実際には論理的には「味方のために敵を殺せ、味方は殺すな」というモラルこそが論理的なものである。 「味方のために敵を殺せ」というのは報復の論理ということになるが、これは敵から味方の誰かが殺されたときに、それに報復しなければ、殺されてもいいということを受け入れたことになるからだ。殺されるということが不当なことであり、そんなことをされたら黙ってはいないということを示すために敵を殺すことが必要になってくる。報復をすることによって、それから先味方が殺されることを防ぐことが出来る。論理的には、そのような因果関係を理解することが出来るので「味方のために敵を殺せ」ということが正当化される。 世界史の上でも、味方のために敵を殺せなかった国は、植民地化されて何をされても文句が言えないという風に侵略国からは思われていたのではないだろうか。だからこそ明治維新のころの日本は、侵略されそうになったときに敵を殺すだけの力があるということを示すために軍事力の増強を目指すことにもなったのだろう。 実際には一般的な意味で「人を殺してはいけない」というモラルは、自然に生まれてくる感情とは相容れない。だが近代という時代はこのようなモラルを、社会の存続のために必要とした。近代においては、宮台氏が指摘するように流動性が高まり、誰が味方で誰が敵かということが分かりにくくなった。敵だと勘違いしたものを、味方を守るために殺していたら社会の秩序が保てなくなる。 近代社会というものは、見知らぬ他人を信用し共生していくということがなければ成り立たない。資本主義の発展も、見知らぬ他人という大衆が消費者になることによってもたらされる。他人が信用できなければ資本主義の発達もない。良心の声というものが、他者を敵だと考えるのではなく、ともに生きる仲間だと考えるように仕向けたのではないかと思われる。 この考え方は論理的に導かれたものではなく、その前提の下に行動すれば資本主義の発達のために役立ち、人々に繁栄をもたらすことになったので、結果的にモラルとして定着したのではないかと思う。だから、論理的に証明することが出来ないのだろう。そして、論理的に証明できない規範を社会に浸透させるには、それを支える強い権威が必要であり、それが父性というものであり、それが良心の声となるという関係になっているのではないだろうか。 資本主義に陰りが見えてきたときに、このモラルに疑問をもち「人を殺してみたかった」と語る少年が出てくるというのも象徴的なことではないかと思う。佐高信氏だっただろうか、悪いことも出来る状況であえて悪いことを選ばないというところにモラルというものがあると指摘したのは。モラルというものの構造を論理的にも把握していれば、それを守らなければならない状況との関連で考えることが出来る。だから、選択肢はあるものの、あえてそちらを選ばないという判断も出来る。逆にいえば、必要ならばモラルに反することも選べるということになる。 理想としては、誰もがそのような賢さを持つことが望ましいが、賢くない人間がモラルに反するような判断が出来ると、これは社会の秩序を乱すことになる。社会の秩序を保つには、賢くない段階では良心の声として内面を規定する規範があったほうがいいということにもなる。このあたりは微妙な判断が必要なのでなかなか断定的には語れないが、道徳教育の必要性というのは、統治権力の側(つまり教育する側)と、それを教育される側とでは意味が違ってくるような気がする。 僕などは、道徳的規範などは自分で作り上げるものであって上から与えられるものではないと思っている。だから、道徳教育というものに対しては否定的だ。しかし、誰もが賢いわけではないという状況の下では、統治権力が秩序維持のために道徳教育をしたいと考えるのも論理的な理解は出来る。人を見て法を説くということが臨機応変に適切に出来るかどうかが重要ではないかと思う。 これは、父性が作り上げる道徳というものに関しても、現実には評価が難しい問題が生じてくることと関係してくる。父性が良心の声を作り道徳という規範の基礎を作るというのは、事実から導かれる科学的な解釈だが、この作り上げられた規範が正しいかどうかは科学では決定できない。その規範が社会の存続と維持のために必要だということが分かるが、その社会が維持されることが正しいかどうかというのは科学では決定できない。 小室氏は父性を代表するものとしてカリスマ的人物というものも語っているが、例えばヒトラーのような人物は、ヒトラーのために生きることこそが正しいという気分をドイツの青年の中に生んだ。これは、父性がモラルを作るということの一つの証明だろう。しかし、ヒトラーのために生きることが正しかったかどうかは、否定的に評価する人のほうが多いのではないだろうか。 父性がモラルを作るというのは、イデオロギーにかかわらず同意するような科学的真理だろうが、父性が作り上げるモラルそのものはかなりの部分イデオロギーに支配される。その部分をどう評価していくかが道徳教育においては重要ではないだろうか。 例えば民主主義教育においても、誰もが平等に自由に政治的決定に参加することこそが正しいというモラルは、その正しさを科学的に決定は出来ない。むしろ間違った結論を導くような民主的決定はたくさんあることが見出される。民主主義を選ぶということは一つのイデオロギー的決定であり、民主主義が正しいからそうしているのではない。それには「主義」という言葉がついているように、まずはそのような方向を選んでいるという意識が大切なのである。 民主主義というのは、板倉聖宣氏が指摘するように「最後の奴隷制」として働く欠陥を持っている。論理的構造が難しい問題に関しては、それを正しく把握することが難しく、正しく把握している人間のほうが正しい判断を導くのだが少数派になることが多い。郵政民営化法案の際の荒井広幸さんや山崎養世さんの考えなどは、正しかったけれど少数派だったように思う。これは、民主主義のもとでは正しい意見のほうが否定される。そして、少数派は、意に反して多数派の間違った意見を押し付けられるようになる。これが「奴隷制」という指摘の意味だ。これが「最後」のものであるかどうかは、最後であってほしいという願いが込められているのではないかと思う。 父性というものは秩序のためには必要不可欠のものだ。しかし、その秩序を形成するモラルそのものが、時代と社会に本当にふさわしいものであるかは考慮しなければならない。そのように考えると、フェミニズムというものの存在が微妙な意味を持ってくるような気がする。 これも「イズム」がついている主義であるから、本来的にはイデオロギーであり証明された科学的真理ではない。それは男中心主義というモラルが今の社会にふさわしいものであるかという疑問を提出する。この疑問の提出ということに限定すれば、その存在には大きな意義があるというのが内田樹さんが指摘していたことだ。しかし、内田さんは、フェミニズムが批判的勢力としての意味を超えて、社会の中心となるモラルを形成する「イズム」になることには疑問を提出していた。 これに対して僕は、これは一般的に「イズム」を標榜するものがもっている欠陥の一つだと思っていた。資本主義や民主主義にしても、それが「主義」という「イズム」である限りでは、絶対視すれば必ず欠陥が出てくるものだと思っていた。それは、その反対の極である「共産主義」がその「主義」を絶対視して、ソビエトなどの社会主義国家において壮大な失敗の実験をしてくれたおかげで誰の目にも明らかになった。あれは、単に共産主義の失敗として見過ごすのではなく、「主義」の持っている欠陥としてみなければならない。 フェミニズムに対しても僕は同じような欠陥を感じていたが、「父性」というものと関連して、フェミニズムに特有の問題もあるような気がしてきた。フェミニズムは「父性」そのものを否定しているところがないだろうか。他の主義においてはカリスマ的人物が父性を代表するようなところもあるので、父性を否定しているものはないように思われる。だが、フェミニズムは、モラルの基礎を作る父性そのものを否定しているように僕には見える。これは自己矛盾に陥るのではないだろうか。 フェミニズムが父性を否定しても、モラルの形成においては何らかの父性的なものを必要とする。しかし、父性を否定しているように見えるので、規制のモラルに対してはその破壊をしているように感じられるのではないかと思う。そしてまた父性を否定しているにもかかわらず、フェミニズム的なモラルというものを強い権威をもって押し付けてくるようにも感じる。保守勢力から生まれてくる、強い反フェミニズム的な嫌悪感というのは、このような構造から生まれてくるのではないだろうか。 父性というテーマは僕にとっては難しいテーマだ。それは、自分個人の人生においてはほとんど必要としてこなかったものであるが、社会の秩序維持という点においてはその必要性が論理的には理解できる。個人の眼でそれを評価・判断するのか、それとも統治権力の目でそれを考えるかで結論が違ってくる。どちらのほうが客観性が高いかを考えたいものだと思う。 ■
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by ksyuumei
| 2007-04-17 09:53
| 雑文
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