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論理の理解は難しい

南京で虐殺された人々が30万人もいたということに「蓋然性」がないというのは、簡単な論理の問題だと思ったのだが、なかなか論理というのは理解が難しいものだなと思う。

僕は、宮台真司氏が「南京大虐殺はなかった」というような言説を語ったときに、かなりの違和感を感じた。それは、この言説が、南京事件という事実そのものを否定したように感じたからだ。いくらなんでもそんなことはないだろうというのが僕の感覚だった。

つまりそのときは、宮台真司氏が明らかな間違いを語っているのではないかという違和感だったのだ。宮台氏ほどの優れた人間が、党派性丸出しの右翼イデオローグと同じようなことを語るだろうか、という疑問とこの違和感は一体のものだった。

しかし、これが「蓋然性」の問題だと理解出来れば論理的な整合性を見つけることが出来る。そして、その「蓋然性」は30万人説と呼ばれる中国の主張に対する「蓋然性」の問題なのだ。南京大虐殺という事実がまったくなかったという主張が、党派性丸出しの右翼イデオローグならば、30万人説というのは中国共産党の党派性丸出しのイデオローグなのだと僕は理解した。




この両極端は明らかな間違いで、現実には妥当性のある中間部分に落ち着かせて、党派性を超えたところから南京事件の実態を判断して日本と中国の建設的な関係を築くべきだというのが宮台氏の主張だと僕は理解した。

南京事件がまったくなかったという話は僕はまったく信じていないので、その反対の極の30万人説が、論理的にいかに成り立たないかを考察したのが一連のエントリーだ。論理的にはまったく単純なことだ。

まず判断というものの客観性において、対象の属性として確認できる物質的特性は、党派性を超えた客観的判断が成立しうる。これは自然科学の対象となるものに対しては、客観的な判断が成立するということである。それは、誰が観察しても同じ判断が出来るということを意味する。

例えば、人が生きているか死んでいるかは対象の属性として観察できる。今のところは心臓が止まってしまった人は死んでいると判断している。心臓は今止まっているが、将来また動き出して生き返る人は今のところいない。生命維持装置につながれて、心臓は動いているが、それ以外の機能は停止しているという特殊な人を除けば、生きているか死んでいるかの判断に党派性は出ない。脳死が人の死かどうかで異論が出るのは、そこに党派性が絡んでくるからである。客観的判断は出来ないのだ。

「虐殺」という判断も同じである。これは、対象である死んだ人に物質的に属している属性ではない。その判断をする人間が、何を「虐殺」と考えるかという定義を対象に投影して、自らの主観を対象に読み取ったときに「虐殺」という判断をする。つまり、何を「虐殺」と定義しているかという党派性が判断に影響するのは原理的に避けられない。

この考察の時点で、30万人という数を問題にするのはまったく「客観性」がないという判断をしてもいいくらいだ。数の問題にしてしまえば、それは党派性の主張にしかならず、せいぜいがプロパガンダとして役に立つだけだ。そういう意味では、数を問題にして議論するのは、南京大虐殺を否定したい側にとっては有利に働くうまい戦術だと思う。

30万人という数字には客観性がないのだから、そんなものは議論に値しないということで「蓋然性」がないと判断してもいいのだが、百歩譲って、「客観性」というものを自然科学的(唯物論的)な意味ではなく、社会的な意味・すなわち「言語ゲーム」的な意味で受け取って考察することも出来る。

党派性が強く出た主張には「客観性」はないが、党派性を外れている第三者の大半が同意するような主張だったら、社会的には「客観性」があると判断してもいいだろう。そのような定義として「虐殺」を定義したらどうなるか、と考えたのが、戦闘行為終了後の、殺される必要のない人まで殺されたということでの「虐殺」の定義だ。

戦闘行為途中でも殺される必要のない人が殺されるケースはあったかもしれない。しかし、それは確かめようがないだろう。どう具体的に、こういうケースがあったと判断するのだろうか。犠牲者が死んだということは、結果から判断できるが、「虐殺」されたかどうかはその過程をつかんで判断しなければ出せるものではない。

30万人説を主張するなら、その具体的な過程について述べなければならない。最も信頼性の高いやり方は事実を提出することだが、それはおそらく出来ないだろう。だから、せめて推論によって妥当性の高い具体例を提出すべきなのだが、それはどれくらい語られているのか。数を問題にする以上、その具体例の合計が30万に達するという推測が必要だ。具体的な殺され方を論じなければ「虐殺」という判断など出来ないだろう。

東京大空襲では約10万人の人が死んだといわれている。そのほとんどは民間人だ。民間人が殺されたということでそこに不当性を見るなら、10万人が虐殺されたという主張も成り立つだろう。この場合の数字は、死者のほとんどすべてを虐殺されたものと考えるところから提出される数字だ。

しかし、この虐殺の判断が「民間人だから」という根拠で提出されたものなら、党派性的には異論が考えられる。たとえ民間人であっても、戦争遂行のための戦略ポイントにたまたまいたら、戦闘に巻き込まれて死んでも止むを得ないと考える党派性もある。それは事故のようなものだ。むしろ、民間人をそのような戦略ポイントから避難させなかった、攻撃される側の国を非難するという党派性もあるだろう。イラクのフセイン政権に対する非難はそういうものだった。

東京大空襲の場合は、党派性によって「虐殺」であるかどうかという判断が違ってくる可能性がある。しかし、ある点を考慮に入れれば、第三者的な観点でこれを「虐殺」だと同意してもらえる視点を提出することが出来るかもしれない。それは、東京大空襲という攻撃が、警告なしに民衆の密集地帯に無差別に行われたということを指摘することだ。

アメリカが日本の統治権力に対して、圧倒的な武力の差を見せつけるために攻撃をするのなら、まずは人が住んでいない地域に見本としての攻撃をして、降伏しなければ人口密集地帯である東京を攻撃すると警告することも出来ただろう。それを警告なしにこのような攻撃で民間人を攻撃するなら、第三者である人々も、同じような目にあった場合を想像すればその不当性を感じてくれるかもしれない。

しかし、これも逆の党派的な論理を使えば、不当ではないということを主張することもできる。一つには、アメリカにもそれだけの余裕を見せるだけの圧倒的な武力の差があるという認識がなかったと言い訳することだ。また、民間人への攻撃ではなく、軍隊同士のぶつかり合いで圧倒的な武力の差を見せつけることも出来ただろうという考えに対しては、日本の大本営発表が、そのような事実をまったく民衆に知らせていなかったということから、民衆に知らしめるためにあえて攻撃をしたという論理も成り立つ。民衆が目覚めなければ、日本の戦争は終結しないという判断がそこにあったというのは、戦争で日本に被害を受けた国の民衆にとってはむしろ説得力があるようなのだ。東京大空襲も原爆も自業自得だというような判断も論理的には成立する。

かように「虐殺」の判断というのは具体的には難しいのだ。これが難しいというのは、事実の問題ではない。論理として考察すれば簡単に分かることだ。と僕は思っていた。しかしこれが意外なほど難しいということが分かった。

30万人が虐殺されたというような考えは、日本と中国の双方が建設的に未来志向をしていく基礎にはなりえないばかげたものだというのが宮台氏の考えであり、僕もそう思う。だから、こんなものにとらわれることなく、第三者的に「客観性」のあることを事実として確認していこうというのが宮台氏の主張だと思った。

同時に、南京で虐殺がまったくなかったということもばかげた、未来志向を破壊する考えだ。そして、その数をことさら問題にすることも、未来志向を妨げる末梢的なことではないのだろうか。

30万人を否定されて1万人だといわれると、なぜ「虐殺」を否定されたように感じるのだろうか。その数字は党派性が絡んだ数字であり「客観性」は持ち得ないのだと思う。1万人が事実として正しいということもあり得ないのだ。それは、何を「虐殺」と定義するかで違ってくるのだから。

南京での「虐殺」された人の数を問題にするなら、いつでもその「虐殺」の定義と、「虐殺」された具体的状況からの判断をセットで提出して問題にしなければならない。そして、その定義と判断に同意する人間が、その数値を支持すればいいのだと思う。そして、それが第三者の大部分が同意するものであれば、そのときその数値は「客観性」を持つのである。

南京大虐殺の30万人説の論理の問題はこれだけである。当時南京にどれだけの人がいたかというのは、すでに党派性の論理に入り込んでいるだけなので、問題にしても仕方がない。党派性を超えて論理だけを取り出すというのは、党派性の中にいる人間にとっては難しいのだろうと思う。南京事件という悲惨な出来事でさえも、他人事のように冷たく突き放して見ることが出来なければ、おそらく論理の対象にすることが出来ないのだろう。

僕は、南京での「虐殺」された人が0であるという説と、30万人であるという両極端の説はまったくばかげていると思っている。そして、それはそもそもが数を問題にするから本質が見えなくなっているのだと思う。数ではなく、「虐殺」された行為の質を問題にすべきなのだと思う。その「行為」の不当性をこそ深く考えることによって本当の意味での「虐殺」ということが理解できるのだと思う。数という量のほうを重く見る人間は、おそらく質のほうを見誤るだろうと僕は思う。建設的な未来志向のためにも量よりも質のほうを見るべきだと思う。
by ksyuumei | 2007-03-20 09:13 | 論理


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