本多勝一さんの『中国の旅』から南京事件に関する記述を拾って、そこでの「虐殺」の現象がどのように考えられるかを、「言語ゲーム」的な発想で考えてみようかと思う。「言語ゲーム」の概念については、まだ充分わかったわけではないが、真理の決定における言語の影響という観点が大きいのではないかと感じている。
普通唯物論的に物事を捉えると、真理というのは対象である物質的存在をよく観察することによって、存在と認識との一致ということから得られるものと考えられる。初期のウィトゲンシュタインの考え方からすれば、言語が現実を映し出すという「写像」という考え方が、真理関数というものにつながり、現実の事実が言明の真理を示すと考えられる。 しかし、言語による言明が、現実の事実と完全に一致しなければ真理の判断は違うものになってしまう。言語の言明は、言語とは独立に存在している対象に属するものとしての真理と対応しているのではなく、言語を使うことによって真理が影響されるという関係にあるのではないか。それまでは真理の対象とならなかった事柄が、それについて語ることによって何らかの意味で真理と考えられるようになる。そのような現象が「言語ゲーム」として語られるのではないだろうか。 本多勝一さんが語る「虐殺」の言明が、「虐殺」という判断の真理に影響を及ぼしていることが、その「言語ゲーム」から読み取れないかという観点で考えてみたい。本多さんは、姜さんという、父母と7人兄弟がいる人の話を報告している。姜さん一家は、日本軍の南京占領後に逃げ出したのだが、川のほとりのアシの茂みで身動きが出来なくなって隠れていたらしい。その一家を見つけた日本兵がどのような行動をしたのかを本多さんは報告する。 「末子の弟は、まだ満なら一歳あまりの赤ん坊だった。空腹のあまり、母乳を求めて大声で泣いた。ろくな食物がないから、母乳は出ない。運悪く10人ほどの日本兵の隊列が土手の道を通りかかった。気づかれた。「鬼子」たち2~3人がアシ原の中を捜しに来た。赤ん坊を抱いた母を見つけると、引きずり出してその場で強姦しようとした。母は末子を抱きしめて抵抗した。起こった日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしり取るとその面前で地面に力いっぱいにたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。半狂乱になった母親が、我が子を地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母を後ろから撃った。二発撃った。一発は腰から腹へ、一発は肩からのどに貫通した。鮮血をほとばしらせて、母は死んだ。 「鬼子」たちは同僚の隊列を追って土手の上を去った。」 ここに報告されたことを姜さんという人物が語ったであろうことは事実に違いない。本多さんが物語を作る必然性というものはないからだ。本多さんは、中国の手先であって、中国のプロパガンダのためにこの報告を書いている、ということでもあれば別だが、それは信じるに値する「蓋然性」はない。 語ったという行為は事実ではあるだろうが、その内容も事実かどうかは、これだけではわからない。本多さんは、記事にするときにそのあたりもかなり慎重に「蓋然性」があるかどうかの裏を取るので、これも信頼してもいいのではないかと思う。ここまでは事実に関する考察であって、まだ「言語ゲーム」的なことは考えていない。 本多さんの報告が事実であると仮定して考えると、ここに語られていることはやはり客観的に見ても「虐殺」だといえるだろう。これが事実なら、「虐殺」はやはりあったのだといえるのだと思う。これが「大」か「小」かを考えるのは、僕は意味がないと思うのだが、30万人説はそのような意味のない方向に議論を持っていこうとする「言語ゲーム」のように感じる。 この報告で重要な判断は、この殺人がまったくの不当なものであって、戦争であろうとも犯罪であることに違いないということだ。戦闘行為に運悪く巻き込まれて死んだというような、事故のようなものではないということだ。 もう一つの報告は、約2000人の青壮年男子が狩り出されて虐殺されたというものだ。ある大きな倉庫に詰め込まれた大量の人々に対して、日本軍は次のような行為をしたらしい。 「陳さんら10人が倉庫から出ると、両側に日本兵が列を作っていた。全員が着剣した銃を構えて向かい合っているから、銃剣のトンネルみたいになった。日本兵が、後ろから「走れ」と怒鳴った。10人は銃剣のトンネルの間を走っていった。 陳さんは先頭から4人目にいた。日本兵の隊列にはさまれたコースは、避風港の岸壁沿いに長江の本流まで約100メートルだった。本流の岸近くまで走ったとき、倉庫の影の土手に、30数人の日本兵が銃を構えて並んでいるのを見た。海軍と思われる黒っぽい制服を着ている。「銃殺だ」と、陳さんは瞬時に悟った。躊躇する余裕もなく、後ろから「早く走れ、走れ」と怒鳴られる。本流と避風港の接点あたりまで走ると「水に飛び込め」という叫び声が聞こえた。同時に一斉射撃の銃声。10人は、のけぞったり宙を踊ったりしながら、水の中へ倒れこんだ。」 これも、このことを語ったというのは事実に違いない。ただ、この内容については、前の家族の体験と違って、そのまま事実だろうと受け取るのが難しい部分がある。それは、前の家族の場合であれば、殺されたのが母親であり、その死の理由も不当なものであることがすぐにわかるのだが、この報告で語られている、2000人という人数については確かめようのないデータとして受け止めなければならないだろうと思う。 2000人というのは、すぐに数えられる数ではない。どのようにして求められた数字なのかがはっきり書かれていないので、これを科学的な歴史のデータのように扱うことは出来ないだろう。被害者が語ったこととして受け止めたほうがいい。銃殺に不当性があることの「蓋然性」は上の報告からはかなり伺えるような気がする。何か確たる理由があって集められたようには思えないからだ。走らせて、川に飛び込んだところを銃殺するというやり方もかなり異常な感じがする。逃亡した捕虜ということにして銃殺に正当性を持たせようとしたのだろうか。 さて、この二つの事実から「言語ゲーム」的な面を考察しようというのは、事実から直接引き出されない真理を語ろうとするときに、「言語ゲーム」的な要素が見えるような気がするからだ。事実から直接引き出されない真理というのは、このような残虐な行為をするのが、日本軍の一般的な当たり前の行為として日常的に行われていたということだ。 これは二つの事実だけからは出てこない。それこそ、戦争中のほとんどすべての事実を洗い出して、そこからの抽象としてそのような一般的傾向を引き出さなければならない。しかし、もしこの二つの報告から、やはり「南京大虐殺」は「大虐殺」であって、かなり法外な人数の人が虐殺されたのだ、と考えるならこのような行為があちこちであったと考えなければならない。そのような判断は、まず日本軍一般の特質という認識があって、それがこの二つの場合に表れていると考えなければならない。 だが、この二つだけから、逆に日本軍の一般的特質を導いてしまうようなら、それは論理の飛躍であって、真理の判断としては間違っている。しかし、それが社会的に流通するようなら、それがまさしく「言語ゲーム」の現象なのではないだろうか。 実際には、戦争中の日本軍についての事実のすべてを知ることは無理だろう。南京事件一つとってみても確立していない事実がたくさんあるのだから、とても戦争のすべてにわたって事実を確認することなど出来ないだろう。日本軍の一般的傾向については、「言語ゲーム」によって流通した事柄が真理とされていくのではないだろうか。 僕は、映画や小説の表現から、かなりの部分で日本軍のイメージを作り上げている。それは、閉鎖的な組織の非人間性を物語るものであり、大きなストレスをかけて日常生活を送らせ、そのストレスを、弱い人間に対してぶつけて解消するような発散のさせ方をしている。戦後の学校もそのような軍隊組織の延長のような気がするだけに、日本軍というのも一般的にそういうものではないかというイメージを抱いている。 そういうイメージからすれば、母親を強姦して赤ん坊を殺すという姿もありうるものとして「蓋然性」を感じる。逃亡した捕虜を銃殺したように見せかけて殺すというやり方も、ありうるものとして想像も出来る。しかし、この日本軍の姿は、本当に一般的なものなのかという疑問も捨てきれない。 映画や物語というのは、ありふれた日常を描いてもインパクトが小さいので、描かれるとしたら特殊性のある事柄が選ばれる可能性がある。母親を強姦して赤ん坊を殺す日本兵や、捕虜が逃げたように装って殺してしまう日本兵というのは、本当に普通の日本兵だと言っていいのだろうか。それは、本当に多くの事実を確認して正しく抽象されたイメージなのだろうか。 これは、ある種の流通観念がもたらした「言語ゲーム」による真理に過ぎないのではないだろうか。板倉聖宣さんは、人口統計というデータを使って、明治維新がいかに人々に希望と自由をもたらしたかというのを証明しようとしていた。希望と自由があったからこそ、停滞した江戸時代後期に比べて、人口が倍増するくらいの発展があったのだというのが、板倉さんの基本的な考え方だ。 明治維新は、一握りの資本家に富を集中させ、その資本家と組んだ売国奴的官僚が私服を肥やした暗い時代を作ったという流通観念はないだろうか。もしそのような「言語ゲーム」環境があれば、人々は事実を調べることなく、明治維新はそういうものだという真理を受け入れるのではないだろうか。 板倉さんは研究者であるから人口統計などのデータを手に入れることが出来るが、そのようなものを知らない一般人は「言語ゲーム」的真理を克服することは難しいのではないかと思う。日本軍の特性についても、専門家でなければなかなかそれを知るのは難しいだろう。専門家でなければ知りえないデータがなくても、何とか論理の力で、「言語ゲーム」的な真理のまやかしを見抜くことは出来ないだろうか。 かつて旧ソ連は、共産主義の理想を実現する国としてユートピア的に語られたことがあった。「言語ゲーム」的には、ソ連が理想国家であることは真理だったのではないかと思う。そんな時代に、宮台真司氏の師である小室直樹氏は、そのような幻想を打ち砕く理論活動をしたらしい。小室氏が共産主義・あるいはソ連の専門家だとは思えないので、小室氏の判断は、データによるものというよりも論理によるものではないのかと予想される。 当時ソ連の内情を知る人たちは、それがまったくユートピアでないことがわかっていたそうだが、それはソ連に近い人たちになるので、なかなか明るみに出ることがなかったようだ。小室氏の本を近くの図書館で見つけたので、これを借りて考えて見たいと思う。また、ソ連がユートピアだというのは、今ではそれが明確に否定された「左翼の嘘」の一つでもあるだろう。そのような観点からもこの問題を考えてみようと思う。小室氏の論理が、「言語ゲーム」的な真理の限界を超えさせてくれるのではないだろうかという期待を込めて考えてみようと思う。
by ksyuumei
| 2007-03-17 23:30
| 言語
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