「社会科学の科学性について」というエントリーにコメントをもらった佐佐木晃彦さんの「② <本質=関係>把握としての弁証法」というページを訪ねてみた。三浦つとむさんから学んだというその内容はたいへん興味深かった。
ここで語られている内容そのものもたいへん興味深いのだが、その前段階として「本質」という概念についてもう少し考えたいような気分になった。それは、「本質」を「関係」として捉えるという思考の展開が、必ずしも自明に自然なものには見えなかったからだ。もう少し説明が必要なのではないかと感じた。何故に「関係」という点に「本質」を見るのか。その必然性がどこにあるかというのを考える必要を感じた。この前段階をよく考えた後に本論のほうへ入っていきたいと思う。 「本質」という言葉は「現象」という言葉と対比させて考えられるのではないだろうか。現象というのは、辞書によれば「人間が知覚することのできるすべての物事。自然界や人間界に形をとって現れるもの」とされている。つまり、現象というのは「すべて」の対象を含むものであり、非常に高い多様性を持っているものだ。 しかし、「本質」というのは、そのように多様に現れた「現象」の中から、その対象がそれであるという規定になくてはならないものとして、他の「現象」と区別される。多くの「現象」は、偶然的に現れた末梢的なものであり、その「現象」(=形)がなくても、対象にとっては別に不都合はないというものだ。しかし、「本質」として現象してくる性質は、それが無くなったら、対象そのものも無くなってしまうという重要な属性になる。その「本質」が「関係」という面に現れるということの意味をもっと詳しく考えてみよう。 「本質」というような複雑な概念を理解するには、いきなり難しい対象を考えても分からなくなるので、最初は単純な対象の考察からはじめようと思う。例えば台所で使われる「包丁」という対象について、その「本質」を考えてみよう。包丁に現れてくる多様な現象のうち、そのどれを欠いてしまえば、それはもはや包丁と呼ばれなくなるだろうか。あるいは、その現象がたとえ違うものになったとしても、なおその対象は包丁と呼ばれるというようなものでありつづけるなら、変化しうる現象は「本質」ではないということになる。 包丁の場合、その外形は変化しても包丁としてありつづける。先がとがっていなければ包丁ではないということはない。刃の部分を持っているという外形は、包丁であるならどの包丁も持っているので、これは「関係」ではない「実体」としての「本質」になるだろうか。これは難しい判断だと思うが、刃の部分を持つものは包丁に限られない。もっと広い範囲の集合の属性となってしまう。ナイフも鋏も刃の部分を持つが、これは包丁ではない。 「刃の部分を持つ」という現象は、包丁にもいつでも見られるものだが、それは包丁を含むより広い対象が持っている属性なのでいつも見られるというものになる。その現象は、包丁を特定する個別的な存在に対応する現象ではない。この場合、個別の対象を特定する現象ではないということが、「本質」という概念からはやや離れるのではないかという感じがする。 三浦さんは、言語を表現の一種としたが、人間の認識が形として表に現れる「表現」の本質を言語の本質とはしなかったように感じる。言語の本質は、言語の個別的な属性を特定する、「一般化=抽象化」という面や、「社会的」というところに求めていたように感じる。なくてはならない性質としての「本質」という点を考えると、より広い範囲の対象に当てはまる本質は、「本質」というもののレベルが違ってくると考えたほうがいいのかもしれない。 それでは包丁固有の現象で、これなしには包丁という存在になりえないというものがあるだろうか。それは「食材を切るという行為」に見られるのではないかと感じる。食材を切るには、他の道具も使うという人がいれば、まな板とともに使うという条件を入れてもいいかもしれない。形や素材という実体的側面は、他のものを使って包丁を作ることもできるということから、多くは本質でないものとして捨象される。実体的側面を捨ててしまったら、残るのは機能的側面であり、数学で言えば関数ということになる。これはまさに関係として捉えられるものになる。 「本質」を「関係」として捉えるというのは、「本質」は実体としてつかみ出せるものではないという考えからくるのではないかと思う。しかしここで一つ引っかかることがある。三浦さんは機能主義を鋭く批判し、どこまでも実体的な物を忘れないという唯物論を基礎にして理論を展開してきた人ではなかっただろうか。その人が、機能こそが本質であるという、「関係」に本質を見る見方を主張するのは変ではないかとも思われる。 このあたりの整合性はどう捉えればいいのだろうか。それは、三浦さんが批判してきた機能主義というものが、統一を欠いたものであり、実体と切り離した機能を論じてきたものを批判したのではないかと捉えることで整合性が取れるのではないだろうか。唯物論的でありつづけるためには、実体と切り離した観念的な対象のみで理論展開をするのではなく、常に統一されたものとして対象を捉える必要があるのではないだろうか。 三浦さんは、言語を認識を表現するものとして機能的に扱っている。そして、その認識は一般化した概念を表現するものとして捉えている。言語の機能は、人間が個別的に捉らえた個性ある対象を一般化し、その概念を表現する約束としての言語規範を社会が共通に持つことによって、コミュニケーションが成立するというものだ。 三浦さんは、言語の本質をこのような機能的側面に見ていたが、頭の中だけに存在して表現されることのない「内言語」という概念には反対していた。これは、言語のコミュニケーションの側面を担う言語規範が、一人の頭の中であたかも言語表現のような展開を見せる現象を指している。思考の展開と呼んでもいいかもしれない。三浦さんは、言語規範を言語と呼ぶことには反対していた。このあたりがソシュール批判の中心になっていたのではないかと思う。 三浦さんは、言語というのは物質的な形としての現象である「音声」や「文字」という実体が存在しなければ言語と呼ばなかった。ここに、機能と実体が統一された唯物論的な見解が表れていると思う。三浦さんが批判した機能主義は、実体である「音声」や「文字」というものを言語の本質から除いてしまって、「音声」や「文字」のような物質的属性を持たない言語規範を言語の中に数えていた。それに対して三浦さんは反対していた。これは統一されたものとして対象にならなければならないのだと思う。 実体と統一されていない機能主義は、機能という観念的存在が肥大して空想から妄想に陥る危険性をはらんでいる。新興宗教的妄想の大部分がそのようなものではないだろうか。この世を支配しているような秩序という機能が空想的に肥大していくと、その秩序をつかさどる神が見えてくるような感じがする。 本質を関係に見る機能主義において、実体的な存在を忘れずにいるという唯物論的な感性を持ちつづけることは難しい。三浦さんも、徹底した唯物論者でいることがどれほど難しいかをいつも語っていた。実体を忘れて機能だけを見ていると、何か空想的な実体を前提にすれば論理的にはうまくことが運んでしまうからだ。数学における「虚数」の設定などはそのような例の一つではないかと思う。 本質という概念は、個別の実体に張り付いているものではなく、多くの実体を一般化して抽象しなければ捉えられない。本質は、個別の実体に個性的な形で現象はするけれど、それがそのまま本質になるわけではない。だから、本質は実体として見つけることは出来ない。これが、本質を実体ではない関係と見ることの必然性だろうと思う。そこに横たわるのは、抽象化という過程だ。 抽象化という過程においては、具体的な実体的側面は捨象される。唯物論的基礎をいったん捨てて、抽象化の後にまた戻ってくるという円環運動が必要になるわけだ。これはかなり難しいのではないかと思う。いったん抽象化の方向へ向かったら、そっちのほうへどんどん行くほうが分かりやすい。行きつ戻りつしながら思考を展開していくのはかなり難しさを感じる。 今、小林良彰さんの『市民革命の先駆者 高杉晋作』という本を読み始めているのだが、高杉晋作に関しては、その評価が大きく分かれていて、その本質が見えにくくなっているといわれている。小林さんのように高く評価する人もいれば、明治以後の民衆を弾圧するような国家権力の肥大に手を貸した人間として非難する人もいるようだ。現象としてはどっちの面も見られるようだ。また、高杉晋作の豪快な生き方に共感して、それを面白く脚色して楽しむ人々もいる。 高杉晋作個人の生涯という現象をいろいろ調べれば、そこにはさまざまな解釈のできる出来事があるだろう。そこから、末梢的な部分を捨てて、本質的な部分を拾い出すのはかなり難しいと思われる。ある一面を肥大化して取り上げれば、抽象だけが一人歩きするような妄想的な高杉晋作像が出来上がる。しかし、細部にこだわって個人的なエピソードばかりを追いかければ、本質と抹消の区別がつかず、面白いだろうけれど本当の理解には達しないということが出てくるだろう。物語としての歴史が出来上がる。 小林さんの方法は、高杉晋作の生涯を歴史的に位置付けて、歴史の中での高杉晋作の動きの意義からその本質を求めようというものだ。歴史的に位置付けるというのは、時代の変わり目や変化をどう抽象的に捉えるかという問題にもなってくる。個別を捨てて一般化して考えなければならない。しかし、高杉晋作個人を評価するには、高杉晋作の個人的な側面を捨てるわけにはいかない。小林さんの仕事の中に、現象から本質へ至る道を学びたいものだと思う。 本質は実体にそのまま表れているのではないので、関係という機能的側面に注目して捉えたほうが発見しやすいだろう。しかし、機能を考察するときに、どこまで実体を引きずって再帰的にそこに戻るかを意識しておかなければならないのではないかと思う。本質が関係に表れるということの理解はそういうものではないかと感じた。このことを前提として、次は本論である弁証法について考えたいと思う。
by ksyuumei
| 2007-03-04 11:25
| 雑文
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