虹が七色であるのか六色であるのかは、虹という現象を人工的に作り出して実際に数えてみれば確かめることが出来る。そのときに、錯覚をするという可能性もありうるが、とりあえずは自分の感覚を信用して判断するということが大事なことだ。権威ある言説が、自分の感覚を否定していようとも、まずは自分の感覚のほうを信じて考えてみる。
そして、権威ある言説と自分の感覚のどちらが正しいかを、論理的な整合性があるかで判断をする。もし、虹が七色だと断定することが正しいなら、自分が錯覚しているのは圧倒的少数派となるだろう。多くの人は正しいとされるほうを感覚するはずだ。しかし、七色に見えないほうが多数派であるという結果が出ている。これは論理的にどう整合性が取れるだろうか。 圧倒的多数が同時に錯覚しているという可能性は論理的には考えることが出来る。水の中に入れた棒が、上から見ると曲がっているように見えるというのは錯覚だが、これはほとんどすべての人が見ることが出来る錯覚だ。だがこの錯覚は、錯覚であることが証明できるからこそ錯覚だと判断される。水の中から棒を抜き出せば、それが曲がっていないということを確かめることが出来る。 だから、虹が七色に見えずに六色に見えてしまうことが錯覚だとしたら、それが錯覚だということが示されなければならない。しかしこれは、実際には論理的に不可能だ。棒がまっすぐであるか曲がっているかというのは、視覚という感覚以外でそれを確かめることが出来る。だから、視覚という感覚に錯覚があることを、他の感覚で確認できる。ところが、虹が何色に見えるかというのは、視覚以外で確認することが出来ない。だから、この場合視覚に錯覚があるということは、それが錯覚であるという証明をする手立てがない。 結局、七色に見えるか六色に見えるかは、視覚をそのまま信じるほかない現象となるのだ。そうなると、どちらが例外かは、少数派のほうが例外的な現象だと統計的に判断するほかない。そして統計的には、圧倒的多数派が六色という判断をする。これは、七色という判断が、ニュートンの指摘以来出てきたということと、七色という判断をする人が、自分の感覚で判断する以前に「虹は七色」という知識をもって眺めていることを考え合わせれば、七色というのが率直な感覚の判断ではないということも出来るだろう。それは先入観が大きく作用した判断になる。 いずれにしても論理的な整合性は、虹は六色に見えるという方にある。七色に見える人もいるかもしれないが、それは例外的な現象であり、一般的な真理性から言えば捨象できる現象だと判断できる。それが、板倉さんが言う「虹は六色」という主張だろうと思う。 虹の色と同じように、科学の対象というのは自分でその真理性を確かめることが出来るものが多い。だからそれを授業として構成して仮説実験授業というものが考案された。物質的存在というものは、原子で構成されており、重さという属性は、その原子が増えたり減ったりしないことが確認されれば同一の値を保つというのは一つの科学法則だ。そして、この科学法則が正しいことはさまざまな実験で確かめることが出来る。 仮説実験授業では、重さという属性が、人間の意志によっては変化しないことを、体重計の上に乗った人間が力をこめてふんばっても変化しないという実験によって確かめる。外見的な形が違っても重さが変わらない事を、せんべいを粉々にしても重さが変わらない事を確かめて証明する。これらは、ある権威がそのような法則性があるといって、それを信じさせるのではなく、実験という客観的な現象を見て自分で論理的に判断するように構成されている。これが仮説実験授業の優れたところだ。 現在教育を受けている人々は、地球が丸いことや、太陽ではなく地球のほうが周りを回っていることを知っている。これを直接確かめた人は少ないかもしれない。しかし、これも工夫をすれば何とか確かめることができる。板倉さんは、アリストテレスと関連させてこのことを語っていたが、古代ギリシアの人のほうが、この真理性を権威を単純に信じるのではなく自分で確かめていたので、いろいろと工夫をしていたようだ。 地球が丸いことは月食という現象で地球の影が月に映ることで確かめる方法がある。また、俗説では、海の向こうからくる船の高いマストの先から見え始めることで確かめられるというものがあるが、これは実際にはうそだという。船程度の大きさでは、それが視覚に入ってくるほどの距離では、まず全体が目に入ってきてしまい、とてもマストの先から見えてくるというような確認が出来ない。 これは、アリストテレスが逆の発想をしているようなのだが、船のほうから高い山を見るということでの確認を語っていたようだ。山のように大きな存在なら、遠くから見たときに、まず山頂が見えてくるという確認ができるということだ。これは簡単に経験できることではないけれども、船のマストよりも信用できそうな考えかただ。 地球の公転に関しては直接確認することが難しいが、これも惑星の運動を観察することで推測できる。惑星は、地球が止まっていると考えると非常に不思議な、整合的な理解が難しい運動をする。それを整合的に捉えるには、地球が公転していると仮定したほうがうまく行く。そして、この仮定は、さまざまな新発見がその後起きたときも、修正することなく整合的に解釈できることをもって、その正しさが証明されると考える。未知なる出来事に対しても正しく予測できるような仮説は科学という真理になるのである。 自然科学の対象は、何とか工夫をすれば自分でも確かめることが出来ることが多い。もちろん現在の最先端の自然科学は、巨大な実験装置を使わなければ確かめられないこともあるので、「誰もが」確かめるということは難しい。しかし、原理的には追試が可能なものが自然科学になる。だから、確かめようと思えば確かめられるという信頼性が、自分ではしなくても、ある種の権威を信頼しても大丈夫だという保証を与える。 自然科学のような「数学系」では、その真理性の信頼はかなり確かなものだ。権威が揺らぐことは少ない。最近ではいろいろな捏造問題も出てきているようだが、それが捏造であるということが確認できるのも、自然科学の信頼性の一つだろう。捏造があってもなかなか確認できないこともあるので、確認できるということが一つの権威の現れだと思う。 以前に遺跡発掘において捏造が明らかになったことがあったが、あれなどは捏造の現場が確かめられなかったら、捏造の証明は難しかったのではないだろうか。歴史における捏造は、いくら論理的におかしいと思っても、自然科学のようにそれが嘘であることを証明することが難しいのではないだろうか。歴史が「数学系」的に展開されていればそれも可能な感じがするが、「文学系」的に鑑賞の対象になっていると、「創作」という捏造が入り込んでいないかどうかを判断するのは難しい。 日本の戦争に関して、侵略の意図があったか無かったかという議論をするのは「文学系」の発想のように感じる。これはどちらの「創作」も出来る。解釈としてはどちらも成り立つだろう。確証できる問題ではなくなる。「数学系」は、意図というような曖昧な基準で判断をしない。誰もが同じ判断をするだろうと考えられるような、客観的な、人間の意志と独立に存在する対象を設定して、そこからの判断で「侵略」という事実を定義することを考える。その意味で、「数学系」は基本的に唯物論的に考えを展開する。 「文学系」的な発想が入り込むところでは、真理性というものは大きく揺らいでくる。「数学系」を基本とする自然科学では、原理的にはすべての真理に関して直接確証できる実験を設定できる。「文学系」的な発想では、直接確証できないことを基礎にして論理が展開されることがある。 ヒトラーはドイツ敗戦の直前に自殺したといわれているが、物的証拠である死体は出ていないそうだ。だから、この「事実」は、自然科学的には証明できない事柄になる。では、われわれはどうしてこれが「事実」であると信用するのだろうか。ヒトラーの近くにいた人間からの証言からそう判断するのだろうか。彼らが嘘をついていないということは信用できるのだろうか。 歴史をさかのぼって、ヒトラーが自殺する場面に立ち会うことは出来ない。だから、この「事実」は、原理的に直接確認することは出来ない。ヒトラーが生きていないというのは、論理的には推測できる。ヒトラーが生きている姿を誰も確認していないし、年齢的にも寿命が尽きるのではないかとも考えられる。 だが、戦後もヒトラーは生き続けていたと「創作」することも出来るだろう。そのようなことを推測させる出来事さえ見つかるかもしれない。このことの肯定も否定も、原理的には確定しないとしたら、このような「創作」が捏造だと証明するのも難しいだろう。だがほとんどの人は、ヒトラーが自殺したということが定説だと信じている。だが、このことを本当に深く確認するほど関心をもって調べたりはしない。この信頼はどこからくるものだろうか。 ホロコースト(ユダヤ人虐殺)については、これはいまだに捏造だという説が出てきて、ユダヤ人収容所などもなかったのだと主張する人がいる。しかし、この主張はほとんどの人は信用しない。しかし、われわれはその主張が捏造であるかどうかを正しく判断するだけの知識をもっているとは思えない。 歴史的「事実」が正しいかどうかは、ごく小さな「事実」であっても、われわれは直接確かめることは難しく、どうしても権威ある言説の伝聞として知る以外なくなる。このあたりの認識は、歴史学ではどのように考えているのだろうか。江川達也さんは、論理的整合性という「つじつまが合う」かどうかに重きを置いていた。歴史的「事実」を数学系のやり方で扱うにはどうしたらいいのだろうか。文学系の捉え方では、それぞれの思想の数だけ「事実」が存在することになってしまう。 数学系の自然科学では、真理の面の普遍性というものを重視する。個別的な真理性ではなく、一般的に成立する法則性としての真理を対象にする。歴史における真理というのも、確証できるのは普遍性との関連における真理になるのではないだろうか。 ヒトラーやナチスの普遍的属性が「ユダヤ人迫害」というものであるなら、ホロコーストという現象は存在するのが論理的に当然であって、それが存在しないように見えると解釈できる「事実」が見つかっても、それはたとえ存在したとしても例外的なものであり捨象できると判断するのが「数学系」的な発想ではないかと思う。つまり、それが存在しているかどうかを問うことに大きな意味はないとして捨てられるのではないかと思う。 ヒトラーが自殺したかどうかという問題も、歴史の普遍性から見て大きな意味を持っていれば、そこからこの「事実」の確証が考えられるだろう。だが、普遍性にとっては大きな意味がなければ、これはどちらでもいいものになるのではないだろうか。それは「創作」にとっての文学系にとっては大きな意味があるかもしれない。ヒトラーが自殺したのであれば、そこに権力者の絶望を創作して表現することが出来るだろう。自殺しなかったのであれば、そこに違う意味を見出して創作することも出来るだろう。 創作にとっては意味があるかもしれないが、歴史の普遍性にとっては意味がないものであれば、それは確証する必要のないものとして関心の外に置かれる。歴史的「事実」の確証とはそういうものではないだろうか。「南京大虐殺」と呼ばれる「事実」に関しても、それが歴史の普遍性と関連する部分では、「事実」の確証というものが出来るのではないかと思う。考えてみたいものだと思う。
by ksyuumei
| 2007-02-15 10:04
| 真理論
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