小林良彰さんは『明治維新とフランス革命』(三一書房)という本で、「「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」、これが市民革命の定理と考えるべきである」と書いている。定理というのは、数学の場合に、ある公理から論理的に導かれる正しい言明(つまり真理)のことを指す。だから、市民革命の定理というのは、市民革命というものが見つかれば、そこには必ず「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」という属性が見つかるのだと主張していることに当たるのではないかと思う。
このことから、明治維新は市民革命であるという判断が導かれる。このような思考の進め方は、僕は極めて数学系の発想だというのを感じる。小林さんは定理という言い方をしているが、「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」ということが実は市民革命というものの本質であって、考察している対象が市民革命であるかないかという判断は、この本質的属性を持っているかどうかだ、と主張しているように感じる。 まずは抽象的に本質を規定して、その規定に合致していれば肯定判断をし、合致していなければ否定するということが、数学系の判断としては普通に行われている思考の展開ではないかと思われる。そしてそこで重要なのは、肯定・否定の判断において、基準が明確になっているので誰が判断してもほぼ同じ判断に落ち着くようになっていることだ。つまり、個人の思い込みによる判断になってしまうのではなく、客観的な判断になるように基準が工夫されているのも数学系の特徴だといえる。 市民革命がどういうものであるかというイメージは人によってそれぞれ違うものがある。その中で、「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」というものを本質的なものと考え、あとは末梢的な現象だと判断して、この属性さえ見つかれば他の違いは捨象するというのが数学系の発想だ。 この判断が客観的だといえるのは、領主の権力というものが、政治的判断の決定が領主の意志によって行われるという現象を見ることで、客観的に判断できるからだ。財政が破綻しようが、領主が金を使いたいと思ったら使えるような政治体制になっているということが、領主に権力が存在するということでもある。金がないときは領民から自由に税金を搾り取る力が領主にあれば、権力は領主に存在する。 これが自由に行えなくなり、領主が新興ブルジョアジーから資金を引き出せない政治体制になったときが、市民革命によって変更された社会だと判断する。フランス革命も、明治維新もこの属性が見出せるので、小林さんは両方ともに市民革命であるという判断をするわけだ。 これは単純化された唯物論では捉えられない論理だ。社会を構成する物質的存在の中に「市民革命」という属性を見つけたとき、そこに「市民革命」という名前をつけて呼ぶというような認識ではない。小林さんが、「市民革命」というのはこのようなものだと規定し、その規定によって社会を観察したときに、初めて「市民革命」の属性というものが見えてくる。小林さんが規定する以前は、そこに「市民革命」という属性は見えてこない。小林さんの規定とともに、それが実在を獲得したと考えることが出来る。 それでは、「市民革命」という実在は恣意的に何にでも当てはめることが出来るものになるのだろうか。勝手に、これが「市民革命」だという定義を与えて、その定義にあうようなものが観察できれば、論理的には「市民革命」というものが実在することを主張できる。思考の展開は、そのようにご都合主義的な恣意的なものなのだろうか。 これは、対象の全体像を把握して、総合的な判断から主張を導いた人間と、まだ全体像の把握には至っていない、これから総合的な学習を展開していく段階にいる人間とでは認識のレベルが違ってくるように僕は思う。フランス革命や明治維新の全体像を把握している小林さんにとっては、市民革命を「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」と規定するのは、恣意的な規定ではなくほとんど必然的なもので、革命の本質を捉えたものとの判断が在るのだと思われる。 しかし、学習の初歩の段階にいるものにとっては、全体像の把握が出来ていないので、この規定は恣意的なものに見える。だが、たとえ恣意的に見えようとも、この規定で革命を眺めて、フランス革命と明治維新にこのような属性があることを発見することが認識の進歩にとっては重要なのである。その発見は、この規定を受け入れない限りもたらされることはない。この規定を受け入れれば認識できるが、受け入れなければ認識できない。 小林さんからフランス革命と明治維新を学ぶというのは、このように小林さんの観点を受け入れて、小林さんの目で対象を眺めるということを意味するのではないかと思う。そして学んだ結果として、確かにこの観点が「市民革命」の本質を捉えていると思えれば、小林さんの認識のレベルに一歩近づいたといえるのではないかと思う。 逆にいえば、小林さんの規定がどうしても受け入れられないものであれば、小林さんから学ぶということは難しくなるだろう。誰を師と選ぶかという問題が、学習においてはかなり重要な問題になってくると思う。 「革命」ということばに対する規定では、羽仁五郎さんが、小林さんとかなり違う規定をしているように見える。羽仁さんは、『羽仁五郎歴史論著作集第3巻 日本史 明治維新』の中で、「日本において天皇制が連綿として続いたことの意味は、日本において今まで真実の徹底的な革命がなかったということに他ならない」という主張をしている。「真実の」という修飾語がついている意味を考えると、明治維新についても、何らかの変革が起きたという浅い意味では「革命」であったが、それは本当の意味での「革命」ではないという主張になる。 羽仁さんはこの本で次のようにも語っている。 「日本に天皇制が連綿と続いてきたことは、日本に今まで真実の徹底的なる革命がなかったと言うことに他ならぬが、このことがもっとも決定的な重大な意味を持ったのは、日本に封建的支配が根絶され民主主義が確立されるはずであった明治維新及びそれ以来の運動の際、この日本における封建的支配の根絶による民主主義の確立の革命が、ついに不徹底に終わらせられたことである。」 僕は若いころは羽仁五郎さんも好きで、その著書をけっこう読んだものだった。だが今改めて考えてみると、羽仁さんは数学系ではなく文学系(=芸術系)の発想ではないかというのを感じる。僕が羽仁さんを好きだったのは、その暖かみのある文章が、連帯と勇気の感情を与えてくれるという感じがしたからだった。理論的な共感というよりも、その人柄が好きで読んでいたように感じる。 上の「革命」に関する理解では、僕は小林さんの語る「市民革命」のほうに納得がいくものを感じる。何よりも、そこには曖昧さがなく、論理としてその主張を受け止めることが出来る。残念なことに、羽仁さんが主張する「革命」は、本当の意味が分からない。羽仁さんが語る意味での「革命」と僕が受け取っている「革命」とが同じ意味だという確信が持てないのだ。 なぜなら、羽仁さんは「革命」ということばの意味をはっきりと確定するように語ってはいないからだ。それは僕が持っているイメージで理解していいものかというのがどうしても引っかかってしまう。直接書かれていない規定を想像することは出来るが、直接書かれていないだけに、それが正しい理解かどうかの判断が出来ない。 羽仁さんは、「封建的支配が根絶され民主主義が確立されるはず」と語っているので、「真実の革命」がおこったのなら、こうなるはずだと規定しているのだろうと思う。だが、この規定も客観的に判断するのは難しい。封建支配の根絶というのはどのようなことが観察されれば言えるのか、民主主義の確立というのはどのようなことが観察されれば言えるのか。誰もが認めるような判断として提出できるだろうか。 羽仁さんの規定は、感情的にはよく分かり同感したくなるが、客観的な規定が難しいものではないかと感じる。それは、もっと分かりやすく言えば、誰もが奴隷的な支配圧力を感じることなく、自由に幸せを感じられる社会になることが、「真実の革命」というイメージではないかとも感じる。これはまことに魅力的ではあるが、客観的な判断は出来ない。 若いころに羽仁さんに惹かれたのは、その主張に感情の琴線に触れる、まことに暖かいものを感じたからだろうと思う。文学系(=芸術系)の発想としては、感情的な同意を得るという点で優れた主張だったと思う。しかし、理論的にはすっきりしたものがなく、数学系の発想としては不満が残るものになる。数学系の発想は、やはり小林さんのような思考の展開にあるのではないかと思う。 数学系の発想に慣れていない人は、小林さんの最初の規定が受け入れられないと、その後の判断がすべて受け入れがたいものになってくるだろう。だが、最初の判断を否定することと、結論を否定することは区別しなければならないというのが数学系の発想でもある。 最初の規定を否定したとしても、それを仮定として展開する論理に間違いがなければ、仮言命題としては結論を受け入れる必要がある。前提には賛成できなくても、論理には賛成できると考えるのが数学系的な発想だ。 文学系の思考の展開である羽仁さんの考えでは、現実の観察から新たな問題が提出されてくると、その問題にあわせて展開を修正するという柔軟さはもつことが出来る。文学系の発想では、前提がゆるぎない確固としたものではなく、ある程度あいまいさが残るイメージとして提出されている。だから、そのイメージは現実の状況によって変化していく柔軟さはある。 数学系の発想では、最初の規定は全体像を決定するくらい重要なものになる。だから、それは全体像の把握から本質を抽出して、確固たるものとして決定される。その前提からでなければ論理を展開してはいけないというくらい決定的なものになる。どちらを好むかというのは、気質の違いがかかわってくるだろうが、抽象的な考察をして対象を把握しようとすると、これは数学系でなければ正確な把握は出来ない。現実を忘れず、感性を大事にするなら文学系的な見方を持ちつづけなければならないが、抽象的な把握のためには、現実を忘れて捨象する必要がある。それは数学系の発想でなければきっと出来ないことだろう。
by ksyuumei
| 2007-02-09 09:23
| 方法論
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