機能主義については、僕は長い間ある種の偏見を抱いていた。「悪い先入観」を持っていたといってもいいだろう。それは、三浦つとむさんが機能主義に対して常に批判的な見方をしていたからだ。三浦さんは唯物論の立場だから、機能よりも実体の方が基礎的なものだと考える。唯物論の立場からすれば、機能主義は本質を外れるように見えるだろうと思う。
しかし唯物論というのは絶対的に正しいものではない。そのような観点から見れば対象を実体的に把握する際には間違いが少ないという、視点を提出する発想法のようなものと捉えたほうが正しいと僕は思うようになった。あるときには観念論的に見える視点の方が本質を捉えている場合もあるだろうと思うようになった。 現象を観察するときに、そこに実体を把握することが極めて難しい場合がある。たとえば社会というような対象を考える際には、社会そのものは実体としては見えてこない。社会を構成する人間一人一人は実体的に把握できても、その人間が構成する社会というのは、人間の実体的な身体を延長しても解明できることは何もない。 この場合われわれが観察できるものは、ある現象が起こった後に他の現象がつながるという、機能的な側面だけになる。宮台氏的な表現を使えば、われわれに観察できるのは行為の行動的側面だけということになる。われわれはそれをいくら細かく観察しても社会そのものを理解することは出来ない。個人の法則と社会の法則は違うということは、板倉さんも強調していたことだが、社会の観察においてはわれわれに見えるのは、何かが起こった後に他の出来事がつながっていくという機能的側面だけと考えられる。 機能というのは数学的に言えば関数のことになる。関数では、入力と出力の間に成立する数学的な法則を捉えることが大事なことで、どのような内部構造でその機能を実現しているかという実体的な面は関心の外にある。その機能を実現する装置はブラックボックスと呼ばれ、中で何が行われているかは分からないが、とにかく何かが入って何かが出てくるということが分かればいいという対象だ。 関数をブラックボックスにするというのは、本当は実体的なものは存在せず「関係」があるだけなのかもしれないが、フィクショナルにブラックボックスというものを設定して実体的に捉え返してみると役立つことがあるからである。その間に計算をしたり・合成をしたりという操作が出来るようになる。本質は機能にあるのだが、その機能は、機能そのものとして扱うには扱いにくいのでブラックボックスのような実体的なものにして、関係がつかみやすいように工夫して本質である機能を捉えようとするのだと思う。 三浦さんは言語の基礎を実体的なものに置いた。そのほうが考察の対象としては安定したものになると思う。そして、実態的な音声や文字というものの属性として、そこに固定された表現という意味の機能との関係を考察したように見える。三浦さんにとっては、言語の本質はあくまでも実体的なものであり、何かが伝わるという機能は、その本質から導かれる属性として捉えられているように感じる。機能はあくまでも導かれるものであって、本質は実体に在るという捉え方のように感じる。これが唯物論というものでもあるのだろう。 本質は機能にあるのではないということが基本にあれば、機能を本質とするような機能主義は、それだけで間違いだということになるだろう。三浦さんが捉えた対象の言語に関してはそのような考えが正しかったかもしれないが、すべての学術的な対象がそうであるとは限らないだろう。実体が存在しないときは、実体ではなく機能を本質とするような数学的な関数の考え方のほうが正しいのではないかと思う。 ソシュールが捉えようとした対象の言語は、実体として存在する具体的なコミュニケーションの場で使われるものではなく、コミュニケーションを支える人間の頭の中に存在するものだったのではないだろうか。それは実体的なものではないから、むしろ機能的側面を本質だと捉えたほうが正しいのではないかとも思える。それを「言語」という名で呼ぶかどうかにはまた他の難しい問題があるだろうが、ソシュールと三浦さんとでは、捉えた対象が違うのであるから、その方法論にも違いが出てくるというのは理解できそうな気がする。 機能主義は、機能主義というだけでは間違っているかどうかは分からない。考察の対象が本質的に実体的なものであるのか、それとも実体を持たない、現象としては機能しか観察できないものであるのかによって、機能主義の正しさが違ってくるのではないかと思う。 宮台氏は社会をシステムとして捉える。このシステムというのは、人間の行為を入力として、その行為に続く行為を出力とする関数(=ブラックボックス)だと考えることが出来る。つまり、システムとして捉えるということは、実体は把握することは出来ないけれど、ブラックボックスとしての関数として把握しようということなのではないかと思う。 この実体が把握できないということは、本質的に実体的なものが存在しないのか、われわれがまだ対象をよく知らないために把握できないでいるのかを考える必要があるだろう。われわれの知識不足のためであるなら、ブラックボックスは、とりあえず対象をつかむための方便として考えられた方法論ということになる。いずれは、ブラックボックスの中身が解明されると期待できるだろう。 しかし、どこまで言っても観察されるのは機能的側面だけだということになれば、ブラックボックスであるということが本質になる。つまり、その場合は機能主義こそが本質を捉えた正しい見方だということになるだろう。システムという捉え方は、システムの中にも部分的なシステムが存在し、それはどこまで行っても実体的なものに行き着かないように見える。システム理論で対象を考察するというのは、機能に本質を見ているのではないだろうか。 システムというのは、全体は部分の総和を越えるという理解からもたらされる。部分は、全体を構成する要素であり、これは実体的に捉えることができる。その部分を、全体はいつも越えてしまうということは、システムにおいては決して実体的な捉え方は出来ないということを意味するのではないだろうか。社会全体は決して実体的に捉えることができない。機能主義で本質を捉えることしか出来ない対象なのではないだろうか。 社会という全体がシステムとしてしか捉えられなくても、その部分であるいくつかのものは要素的に実体把握が出来るものもあるかもしれない。たとえば宗教のようなものは、実際に教団があったり、偶像的な崇拝対象があったりして、実体的な捉え方も可能になるかもしれない。しかし、それを社会の中の下位システムとして見るというのは、ある種の「先入観」を持って眺めることになる。だが、この「先入観」は、社会の全体像を捉え、その社会における宗教の意味を理解するのに役立つ「よい先入観」になるのではないだろうか。 宗教をシステムとして捉えるというのは、その中身は問わないということでもある。中身はブラックボックスとして、分からなくてもいいものと捉え、観察するのは入力と出力に当たるものになる。宗教というものは、どのような現象(行為)に当たるものが入力となったとき、どのような反応(行為)が出力として出てくるかというのを考えることになる。それがシステムとしての捉え方ということになるだろう。 これは、宗教を実存的に生きている人から見れば、宗教の冒涜に感じるだろう。だが、宗教を実存的に生きている人にとっては、宗教が社会の中で果たしている意味は理解できない。それは、実存的に生きている人間には、宗教が価値ある行為をもたらしてくれることが自明の前提になっているからである。自明の前提になっていることに対して、客観的に正しいと思えるようなことを認識することは出来ない。そのような人にとっては、宗教が社会的にどのような意味を持っているかということは、関心の外のことであって、考えること自体が宗教の冒涜になるだろう。 機能主義的な捉え方は、その機能をもたらす装置を外から眺める視点を与える。それは覚めた・冷たい視点であって、宗教の場合で言えば、宗教的な高揚感を捨てた、感情的な喜びを捨てたものになっている。しかし、その代わりに得られるものが、一つ高い視点からのメタ的なものになる。これは、その中に没入して感情的な喜びが得られない分、感情に流されて間違えるということから免れるようになるだろうと思う。 実存を離れてメタ的な視点から世界を眺めるというのは、これこそがいわゆる理科系(これは数学系といったほうが正確のような気がする)の特徴なのではないかと思う。その反対の極にあるのが文科系(これも文学系といったほうが正確だろう)だとすれば、文科系はメタ的な視点よりも実存的な感情のほうを大事にする特徴を持っているのだといえるのではないだろうか。 これは、一人の人間が、完全な理科系になったり完全な文科系になったりすることはないと思う。おそらく考える対象によって、理科系的になったり文科系的になったりするのだろうと思う。問題は、対象を正確に捉えるには理解系的でなければならないときに、感情に流される文科系的な受け取り方をすることだろう。正確な判断が要求される場面では、絶対的ともいえるくらい理科系的でなければならないと思う。 逆にいえば、個人の自由が保障されている範囲では、それはあくまでも文科系的に実存を尊重する態度が望ましいだろう。自分がそれをしたいからするのであり、好きだから熱心にやるということでいいのだろう。 宗教を理科系的に捉えれば、それは社会の中で、パニックを起こしそうなくらいに衝撃的な出来事を受け入れ可能なように和らげる装置として理解することが出来る。宗教があればこそ、吹き上がるような大衆的な激動的な流れが起きずにすむだろう。革命にとっては宗教は邪魔になるかもしれない。だが、社会を安定させるには役立てることが出来るものだ。明治政府が採用した天皇制も、宗教的な側面の効用を考えると、合理的な理解が出来るかもしれない。それは、天皇制に翻弄された人々には出来ないことだろうと思う。外から眺める覚めた視点だからこそそのような理解が出来るのだと思う。 また、個人的な実存の危機が訪れたとき、理科系的な視点だけではそのパニックから逃れることが難しいだろうとも思う。自らの実存の危機を外から眺められる人間などいないからだ。もしそれが外から眺められるのなら、それは少しも実存の危機にはならないからだ。理科系の頭を持っている人間が、自らの実存の危機に際してはかなり程度の低い宗教に走るというのも、宗教を装置として眺めれば理解できそうな気がする。 僕も若いころにキリスト教の洗礼を受けようかという一歩手前まで言ったことがある。「ブラザーサン、シスタームーン」という映画を見て以来、聖書とキリスト教が好きだったからだ。ちょうど実存的な危機を感じたときに、洗礼を受けようかという気持ちにまでなったことがある。残念なことに洗礼を受けることはなかったが、今は実存の危機も脱したのでとりあえず宗教を個人的には必要としていない。理科系の人間としては、宗教も理科系的に理解したほうが気分的には安定していると感じている。理科系的な思考は機能主義のほうへ向かうかもしれないと、今はなんとなくそう感じている。
by ksyuumei
| 2007-01-29 10:08
| 方法論
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