宮台真司氏が『権力の予期理論』(勁草書房)の序章「社会理論が権力概念を要求する理由」の終わり近くに次のようなことを語っている。ちょっと引用しよう。
「第1に、権力と自由とは対立するどころか、権力は自由を要請している。自由を賞揚するためには権力を批判しなければならないとするリベラリストの言説には問題がある。自由こそは、権力を呼び寄せる依代である。この命題のコロラリーだが、権力=悪しきもの、という一般図式は、図式の提唱者がリベラリストであればあるほど、問題的である。「権力なき自由」を構想できるとする発想は甘い。自由は必ず権力を招き寄せる。 第2に、複雑な社会が諸身体を拘束する高度な超越的審級(道徳など)を要請するとする把握も誤りである。権力工学に基づいて必要な選択連結を供給できれば足りる可能性があるからだ。この命題のコロラリーだが、高度な資本制による道徳的な基礎の破壊を、社会システムの自己破壊に直結させるヒューマニストの議論にも問題がある。高度な資本制は、権力を媒介とするその高度な自己準拠によって、そうした道徳的な基礎を代替し、不要にしてしまうからである。」 「「権力なき自由」を構想できるとする発想」や「複雑な社会が諸身体を拘束する高度な超越的審級(道徳など)を要請するとする把握」の誤解というものは、僕も以前そういうものを抱いていたように感じる。権力は自由にとって、それを邪魔する存在であるようなイメージを持っていた。また、社会が正しく運営され安定するには、正義の実現というような道徳的な基礎がなければならないというイメージも持っていた。 しかし、そのイメージは、現存する日本社会の権力に対するものであって、実は「権力」一般という抽象的な対象に対するものとしては間違っているのではないかというのが、このごろ考えることだ。「権力」一般に関しては、それはむしろ自由を保障する基礎になるもので、「権力」の支えなしに自由の実現は出来ないのが近代社会というものではないかとも感じるようになった。 日本社会は、近代社会としてはまだ未熟な面をたくさんもっている。だから、自由が制限される場面のほうが目立っているといえるだろう。しかし、自由がすでに実現されている部分は、われわれにとってはあまりにも当たり前になっているので、そこに自由があることすら忘れてしまっているようにも感じる。 たとえばかつての日本では人々に移動の自由はなかった。一般大衆は、生まれた土地で育ち、死ぬまでそこで生活するような人生を生きていた。だから職業に関しても、親がやっている仕事をそのまま受け継ぐだけで、自分の才能を発見して、自分で職業を選ぶというような自由など考えられもしなかっただろう。 現代社会で基本的に保障されている自由は、改めてそれを反省してみないと、どんな自由があるかさえ気づかれない状況だ。その自由は、日本の歴史を見る限りでは戦って勝ち取ったもののようには見えない。それは、進んだ西洋社会を真似て取り入れたもののように見える。つまり、権力の側が積極的に保障して社会に取り入れた自由のように見える。 もしこの自由を権力の側が認めなければ、民衆の側が戦って勝ち取らなければならないのだが、勝ち取った自由は、それを守るためにも権力による擁護を必要とするだろう。権力がそれを守らなければ、自由は存続できないというのが一般論としては正しいのではないかと思えてくる。 もう一つの道徳的基礎の必要性の誤解は、上のような自由のための権力の要請という考えが一面的に行き過ぎると生じる誤解のように見える。自由のためには権力が要請されるが、その権力は自由を守るものでなければならないから、ある種の正義を実現するものでなければならない。だが、正義を実現するものだからということで、それが道徳的にも正しいもので、それを実現しなければ社会の安定性も失われると考えるならば、自由の意味が変化する部分を捉えるのに失敗する。 自由が制限され弾圧されていた時代には、自由を守るための基礎は正義であり道徳的に正しかっただろうと思う。しかし、自由が普及して、むしろ自由であることが当たり前になると、「近代成熟期」における「不自由」というものが発生してくる。 何を選ぶかという選択肢の自由がなかった時代は、選択肢を増やすための物理的な・量的な努力が必要になる。それは努力さえすれば何とかなるといういうふうに見えるので、一生懸命がんばるというモチベーションを高めることが出来る。だが、何を選ぶかの自由は一応達成されている時代には、何を選んだらよいのかということが、自由のもたらす幸せではなくむしろ苦痛に感じるようになる。 「近代成熟期」になれば、自由の選択肢は、その時代に可能な限りでたくさん発生するだろう。中には、道徳的に見れば放縦のように見える自由も存在するようになるだろう。そんなときに、道徳的な主張をしてその自由を制限しようとしても、おそらく成功しないというのが宮台氏の第2の指摘ではないだろうか。 権力にとって、自由がその社会を安定させるというメカニズムが働いていれば、最初その自由を獲得するために働いた人々の動機は関係なくなる。努力せずとも守られている自由においては、人々は道徳的な意識など持たなくても社会は回ってしまう。宮台氏は、このような現象を「気がついてみるともう降りることが出来なくなった賭け」のようなものと表現している。まことに言い得て妙だと思う。自由の暴走は、社会のメカニズムが回るために起こっているのであって、個人が意識してその意思を変えようとも個人的な努力ではどうにもならないのだ。メカニズムを修正しなければならない。社会の制度を変えて何とかしなければならない問題になるのだ。決して道徳の問題ではない。 宮台氏が指摘するような誤解は、おそらく誤解する人のほうが多いのではないかと思えるものだ。それは、普通に生活していれば、誤解する部分のほうが社会の中では目立ち、よく見えるところだと思えるからだ。現存する権力は、うまく回っている部分よりも、不合理で下手な使い方をしているところが問題になり人々に印象される。道徳的な荒廃のほうが、それが合理的に正当に実現されている現象よりも目に付く。 現存する権力の姿の印象的な部分が抽象されれば、宮台氏が指摘するような誤解のような権力の概念のほうが普通に抱かれやすいのではないか。そこから、現実の特殊性を捨象して、論理的な構造としての抽象的な「権力」の概念を作るのはかなり難しいものだと思われる。しかし、この誤解をよく自覚して考えなければ、現代社会における「権力」を正しく把握することは出来なくなるのではないだろうか。 現存するものの特殊性に引きずられて一般的・抽象的な概念を作るのに失敗するというのは、三浦さんの誤謬論でもよく指摘されていたものだ。宮台氏がよく語る集団的自衛権の問題にもそのような誤謬があるのを感じる。 集団的自衛権というのは、自国の防衛のためだけに自衛権を行使する(つまり軍隊を動員して戦闘を行う)のではなく、同盟国の安全保障のためにも自衛権を発動するということだ。自国が直接攻撃されたのではなくても、同盟国が攻撃を受ければ戦争に巻き込まれるということになる。 日本の場合の集団的自衛権の問題は、具体的にはアメリカの戦争に巻き込まれるということだ。この特殊性は非常に重要で、現代社会で戦争を起こすのは、今のところ可能性としてはアメリカ以外にはない。だから、集団的自衛権を認めれば、これから起こる戦争(アメリカが起こす戦争だけがおこると考えられる)のすべてに日本は巻き込まれるという形になるだろう。これは非常に重大な問題だろうと思う。 このような集団的自衛権の許容はとんでもないと考える人は多いのではないだろうか。今までなら、憲法9条があったので、たとえアメリカが戦争を起こしてもそれに直接巻き込まれるということはなかった。しかし、憲法を変えて集団的自衛権を許容するような内容に変えれば、当然のことながら、これからのアメリカの戦争にはすべて日本は軍事的に動員されることになる。 憲法9条と日米安保条約があれば、アメリカの戦争に巻き込まれることなく、逆に日本が戦争の危機に見舞われたらアメリカの援助を期待することが出来た。これもまた日本の特殊な状況だろうと思うが、集団的自衛権というものを深刻に考えなくてもよい時代が続いてきたといえるだろう。 日本における集団的自衛権の問題は特殊な状況にある。その特殊な状況という条件のもとでこれが否定されることから、集団的自衛権一般が否定されるとしたら、特殊性を普遍性と取り違える間違いということになる。集団的自衛権が肯定されるような状況もあると考えるのが一般論だ。 宮台氏によれば、平和主義・中立主義を主体的に行いたいと考えるなら、重武装をして自衛能力を持たなければそのような主体性を発揮することは出来ないと指摘する。これは論理的には正当ではないかと思う。もし自国を守るだけの能力を持たなければ、自国の安全のために強い国に頼らなければならなくなる(日本の場合はこれがアメリカになる)。そうなれば、どうしたって主体的な行動は出来なくなるだろう。 アメリカのケツ舐めをせず、反米的な思想でしかも平和主義を提唱するなら、重武装をして自衛能力を高めなければならない。アメリカに従属していれば、イラク戦争のような反平和主義的なものに巻き込まれるのであるから、一般論として自衛隊を否定して平和主義を唱えるのは、ある意味では論理的な整合性を欠くといわなければならないだろう。平和主義を提唱するなら、むしろ自衛隊が理想的な軍隊として機能するようなメカニズムをこそ考えなければならないということになるだろう。 現実の自衛隊は当然のことながら理想的な軍隊ではない。だから批判すべき点はたくさんあるだろう。だが、これを特殊性の批判として普遍性から切り離して正しく行うことは大変難しい。行き過ぎて普遍性の部分までも否定してしまえば、特殊性を批判している分には正しかった部分の正しさもすべて失われてしまうかもしれない。 現代社会を捉えるときには、この特殊性と普遍性の区別にかかわる誤解が、気をつけて見ていなければあちこちにあるだろう。憲法改正の問題も、現代日本のこの時代に、憲法9条という特殊な条文の特殊性を考慮すれば、今それを変えるのは間違いだという結論を出すことが正しいかもしれない。しかし、憲法一般で考えれば、これを改正してはいけないなどという一般論は明らかな間違いだ。 そのようなときに「もし改正するのなら」という仮言命題的な考察をするのは、一般論としての考察になる。しかし、感情的には、このような仮言命題を提出しただけで、その提出者が憲法改正をしたいのだと誤解する人がいるかもしれない。そのような誤解が多いようであれば、特殊性と普遍性を取り違える誤謬が生まれるだろう。特殊性と普遍性を取り違える間違いは、近代成熟期においてはますます難しくなっていくのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2007-01-19 09:44
| 誤謬論
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