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優等生病・一番病と亜インテリの関係

宮台真司氏が「学生諸君が考えるべきこと~宮台真司インタビュー[中編]」の中で語るところによれば「優等生病」とか「一番病」とか呼ばれるものは次のようなものになる。


「対米自立を長期的目標とした途端に、少なからぬ官僚は、「一流国における三等官僚になるか、三流国における一等官僚になるか」という「究極の選択」の場面に立たされ、多くが迷いなく後者を選ぶということです。これぞまさしく売国奴官僚です。
 この売国奴的メンタリティを、昔は竹内好が「優等生病」と呼び、今は鶴見俊輔が「一番病」と呼びます。僕の十年以上前の言い方では「受験エリート病」です。受験エリートは受験システムが無いと困ります。だから受験システムを廃止するような改革には、実存的にも利権的にも抵抗するわけです。この脆弱な者どもを、さてどうするか、です。
 こうした脆弱なる「優等生病」「一番病」「受験エリート病」を患うような者どもしかいないのなら、冷戦体制終焉後の日米関係の見直しを、対米ケツ舐め外交の永続「ではない」方向で行うことはできません。こういう病気を患っていないエリートを養成することが、僕が長年教育システムの改革に携わってきている目的です。」



優等生になること・一番になることが至上価値になるということは、何かを学ぶときに学ぶ対象の本質を求めるよりも、その時々に最も高く評価されるものを記憶するということが目的になる。「優等生病」「一番病」の問題でもっとも重要なものは、優等生になりたがったり・一番になりたがったりというメンタリティの問題ではなく、評価されたがるというメンタリティの問題ではないかと思う。

評価されたがる人間は、価値基準が自分の中にない。宮台氏がよく語ることで、最近印象的なのは「人は変わらないから変わる」という言い方だ。これは江藤淳が語ったことであり、宮台氏の父親も同じことを語っているという。この弁証法的な捉えかたは、人間のどのような側面をどの角度から見ているのだろうか。

これは日本における「優等生病」「一番病」のエリートのことを語った言葉だ。「変わらない」という側面は「評価されたがる」という側面のことだ。たとえば世の中がファシズム的な雰囲気の濃い時代であれば、ファシズム的な価値観から最も評価される人間として振舞うのが、「優等生病」「一番病」に侵された日本のエリートたちだった。彼らは、敗戦になって民主主義の世の中になったら、民主主義の観点から最も高く評価されるような振舞いをするようになる。

彼らの「評価されたい」というメンタリティの本質は「変わらない」。だからこそ、時代が変わり価値観が変われば、彼らの振舞いは「変わる」というのが「人は変わらないから変わる」ということの意味だ。

「優等生病」「一番病」の人間たちは、優等生であり一番になる人間たちだから、高い能力を持っていることは確かだ。エリートになりうる人間といっていいだろう。だが、彼らは評価されている間は高い能力を発揮するだろうが、自らが指導者の立場に立ち、人から評価されるのではなく、自らの判断で問題を解決していかなければならないようになると、その高い能力がまったく生かせないということが起こってくる。

日本が遅れた国であり、目指すべき目標が明確に定まっていて、それに近づくことが高い価値をもっていた時代だったら、評価されることが至上価値の人間であっても、その能力を十分発揮できる場があっただろうと思う。定型的な仕事を効率よくこなす人間が、その時代には最も望まれたエリートの姿だったかもしれない。

しかし、日本が遅れた国であった時代でも、日本がこれから先どのような進路をたどっていくことが、国家と国民にとってもっとも望ましいのかという公的な判断をするには、定型的な解答はなかっただろう。それは自らが切り開いていかなければならない問いであり、主体的に試行錯誤ができる能力がなければ考えられない問題だったのではないかと思う。

明治維新のころに日本の指導者になり、日本が欧米列強の植民地になることを防いだ人間たちは、「優等生病」「一番病」のエリートではなく、創造的で主体的なエリートたちだったのではないかと思う。国民の中に国家という意識を持たせるために天皇制を利用して「愛国心」を植え付けようとしたのも、あの時代においてはまったく先進的な創造的なものだったのではないかと思う。

国家としてのまとまりを持たなければ、日本が植民地化されることは目に見えていたという判断があったのではないかと思う。当時において、世界的な視野で日本の姿を見ることのできる人間などは少なかったに違いない。今なら高い教育を受けた人間がたくさんいるので、そのようなことを考察できる人間も多いだろうが、当時において教育の成果を待つのでは遅かっただろうと思う。

当時の判断としては、上からの注入による国家意識と愛国心が必要だったのではないかと思う。そして、それは国益にかなう公的な行為だったのだと思う。この当時にそれが必要だったということと、今の時代にそれをしようとしている現在の統治権力を比べて、その時代の違いが、同じことをしようとしていてもまったく国益という観点からは違いがあるということを考えるのは面白いことではないかと思う。同じようなことを考えていても、当時のエリートの創造性と、現在のエリートの創造性のなさを比較するのは重要ではないかと思う。

「優等生病」「一番病」のエリートたちは、定型的な仕事をこなすには高い能力を発揮するが、創造性を必要とする、未来を切り開く指導者としての能力には欠ける。だが、優等生になりたい・一番になりたいというメンタリティの強い彼らは、創造性のある指導者が高く評価される時代には、そのようなものになりたいという要求が強くなるのではないか。そのようなときに、本来的には矛盾する自らの姿とどう折り合いをつけるだろうか。

この折り合いのつけ方が、宮台氏が語る「亜インテリ」という姿として現実化するのではないだろうか。本物のインテリであれば、広い視野を持ち・深い思考ができる創造性を持っている。自らの持っている資質で、本当に高い評価を受けるような仕事ができるだろう。だが、指導されるものから評価されるために、その視点での膨大な知識を身に付け、他の観点からの思考ができなくなっている「優等生病」「一番病」の人間は、その欠点を隠すような合理化をする必要が出てくるだろう。

それは、ある意味では他の視点を否定することで、自らの視野の狭さを覆い隠すということになるかもしれない。だが、他の視点を否定するのに、正当なやり方を使うほどの教養はない。むしろ、正当なやり方では広い視野を否定することなどはできない場合がほとんどだろう。だから正当でないやり方で否定するようになると思われる。それは、権力と結託して、権力的な弾圧で他の視野を否定するという方向に行くのではないかと思われる。

この特徴は「亜インテリ」の特徴とよく一致するのではないかと思う。「亜インテリ」が権力と結びつき、代替的な権威を獲得して、本物のインテリを弾圧するという図式は、「亜インテリ」というものの内在的な特質から論理的にも導かれてくるようなものではないかと思われる。「優等生病」「一番病」の人間は、「亜インテリ」へと育っていきやすいということがいえるのではないだろうか。

「亜インテリ」は、創造性と主体性という面では欠けるだろうが、インテリであることは確かだろうと思う。膨大な知識をもち、確立された理論の範囲内では十分正しい結論を導き出すだけの高い能力を持っているに違いない。彼らは、彼らがそれまでぶつかったことのないまったく新しい側面の本質を理解するには創造性が足りないのだと思う。

この「亜インテリ」というインテリが権力と結託するとき、最も恐れなければならないのは「ファシズム的」な権力と結託するときだろう。彼らがそのような権力と結託すれば、真のインテリを弾圧することは容易になり、世の中から正しい判断というものが消えてしまう。軍国主義下の日本の姿は、丸山真男が指摘したようにその典型的な姿を見せたのではないかと思う。

今の時代はどうだろうか。学校教育では真のインテリが評価されるような制度になっているだろうか。真のインテリに対するリスペクト(尊敬)が自然に生まれるようになっているだろうか。それとも、教師の価値観に迎合して、教師の視点から物事を見ることで高く評価される人間が一番になるような制度になっていないだろうか。

現在の教育制度のもとでも、「優等生病」「一番病」は再生産されるような仕組みになっているのではないかと思われる。インテリの中には、相当数の「亜インテリ」が生まれているのを予想させる。

だが「亜インテリ」と真のインテリを区別するのは難しい。その語る内容が専門的なものであれば、専門的な知識をもたないものは、それが単なる辞書的な知識なのか、それとも現在の世界の正しい認識の上に、その知識が正しく適用されているものなのか、つまり創造性が発揮されているのかを区別するのは難しい。両方とも難しいことを語っているという印象だけが強くなることもある。

専門知識のない普通の人間に、真のインテリと「亜インテリ」を区別する視点を育てるにはどうすればいいのだろうか。多分それは応用問題が解ける能力というものが一番の目安になるのではないかと思う。三浦つとむさんは、戦後まもなく若い労働者の相談を受けて、彼らが日常でぶつかるさまざまな問題を、正しく捉えて弁証法的に考えるという指導をしていた。その際に、どれほど難しいことを語ることができても、ありふれた日常的な問題を正しく解決できないなら、それは本物の知識ではないということを語っていた。

象牙の塔にこもっていて、日常的な問題をまったく無視して生活しているインテリは、それだけで「亜インテリ」かもしれないと判断してもいいのかもしれない。そして、インテリが、日常的なことに対して何かを語ることがあれば、ありふれた日常に対して正しい判断をしているかどうかで、そのインテリの創造性や主体性を見抜くことが必要なのではないだろうか。

宮台氏や内田樹さんは、ありふれた日常について語ることが多い。そしてそこには正しい判断が含まれていると僕は感じる。日常の中に本質的なことを読み取っていると感じる。世の中の大部分の人が賛成して、常識的で権威ある人から評価される方向のことを語っているのではないのを感じる。あるときは常識に反して、たたかれやすいこともあえて語るところがあるのを感じる。しかしその判断は、論理的な整合性があって正しいというのを感じる。この二人は、真のインテリではないかというのを、僕はそのような面からも感じる。
by ksyuumei | 2007-01-16 09:53 | 雑文


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