宮台真司氏が「連載第7回 選択前提とは何か」の中で「自由」について記述している。この「自由」は「意志の自由」であり、いくつかの選択肢がある中で、その中のどれを選んでもいい・「自由」にどれかを選べるという意味での「自由」だ。
面白いのは、この「自由」が実現できないと言う「不自由」の問題を考えると、そこで起きてくる「不自由感」が、「近代以前」「近代過渡期」「近代成熟期」にそれぞれ対応した特徴を持っていると言うことだ。つまり、「自由」の問題を考える上で、「近代成熟期」という概念は非常に役に立つのではないかと思えるところだ。 「自由」は「放縦」につながるというイメージがあって、「自由」というものは保守勢力にはすこぶる評判が悪い。教育が乱れているのも、無制限の「自由」が許されているからだと考える人もいる。「自由」は「義務」とセットにされるべきであり、「義務」を果たした人間だけが「自由」を行使する権利を持つのだと考える人々もいる。 一方では、基本的人権として認められている「自由」は、それを行使するものが一人の人間であると言うことから認められている「自由」であり、人間ならば誰でも所有する権利であるから、ある意味での無制限の「自由」だと言ってもいいものだ。この場合の制限や義務の問題は考え始めるとけっこう難しい。 思想・信条の自由は、思うだけなら何を思おうと自由だと言うことになる。これは、それを表現しない限りでは誰にも知られないのであるから無制限の自由のように見える。制限があるとしたら、とんでもないことは表現しないと言うことだろうか。しかしそれにしたって「表現の自由」というものがあるのだから、いくらとんでもないことであっても、実質的な被害が起こらなければ、何を表現しようと自由だとも言えるのではないかと思う。 ある種の表現をしたために実質的な被害が起こるとしたら、それは表現そのものがいけないのではなく、表現が関わる関係性に問題があると考えた方がいいのかも知れない。フィクションであり、それが誰を表現したものであるかが特定できないのであれば、プライバシーという関係は起こりえない。だからそのようなものはプライバシーに関わるかも知れないある種の表現があっても、何を表現しようと自由だと言うことになるかも知れない。同じ表現であっても、ある場合にはプライバシーの侵害になり、ある場合にはならないと言うのは、表現の問題ではなく関係性の問題になるだろう。 その場合制限されるのは、表現そのものではなく、関係性という条件の下での表現と言うことになるのではないだろうか。表現そのものは、一般的には「自由」があると言ってもいいのではないか。実質的な被害が出るときは、その実質的な被害に応じて責任の所在が判断されるべきであって、それによって表現一般を制限するのは、論理的には行き過ぎた判断になるのではないかと思う。 「自由」というのは考えれば考えるほど多様な面を見せてくれるので、これの全体像をつかむのはかなり難しい。しかし、この否定である「不自由」というものは共通のイメージをつかみやすい。「不自由」がカバーする範囲は「自由」ほどの多様性を持っていないとも言えるだろう。だから、宮台氏も「自由」を説明するよりは「不自由」を説明して、そこから「自由」に対する多様なイメージにつなげるという方向を取っている。 「不自由」というのは「自由」ではないと言うことなので、端的には「選択肢がない」と言うことになる。これは、決定論的な世界観を持っている人間には、一切の「自由」はないように見えるだろう。しかし、この「自由」はあくまでも「意志の自由」であり、選択における「自由」なので、決定論的には他の選択肢がないように見えても、あえて間違ったものを選ぶという「自由」もあるという形で理解する「自由」になる。 それが正しいか間違っているかにかかわらず、原理的に選ぶことが出来ないようなものであれば、そこには選択肢が存在せず、「自由が」無いと言ってもいいだろう。しかし、結果的に間違った(意図に反すること)方に行くことであっても、それをあえて選ぶことが出来るなら、そこには「自由」が存在すると考える。 このように考えた「自由」は、対象の物理的法則性を全て把握して、深い洞察の下に、ある一つの選択肢だけを選び、あえて他の選択肢を排除した選択は、他のものを選べないと言う「不自由」ではなく、正しいものをただ一つ主体的に選択したという、究極の「自由」を実現しているものと考えられる。これがヘーゲル的な「必然性の洞察」という意味での「自由」ではないかと思う。 各時代に応じた「不自由」については宮台氏は次のように説明している。 1 近代以前:選択肢そのものが存在しないと言う不自由 「近代以前に特徴的なのが「選択領域の欠落」です。南側は、近代と接触することで貧しさを自覚し、外貨を獲得するべく一次産品に作付けを替え、国際市場で買い叩かれて構造的貧困に陷りますが、以前は自足していました。この自足が選択領域の欠落に相当します。」 2 近代過渡期:選択肢はあるのだが、それを選択する物理的条件が無く、選択のチャンスがない不自由 「近代過渡期、すなわちモノの豊かさが国民的目標となる第二次産業中心型の社会で問題になるのは、経済的貧しさ=「選択チャンスの欠落」です。」 3 近代成熟期:選択肢もあり選択条件もあってどれを選ぶことも可能になるが、どれを選ぶのがもっともふさわしいかという判断能力が無く、選択した結果に満足できないという不自由 「モノの豊かさを達成した近代成熟期に、何でも選べるのに、何を選んでいいのか分からない、あるいは、ソレを選ぶことに何の意味があるんだ、という形で問題になるのは、選択原則(選択肢を評価する物差し)の不在という意味での「選択能力の欠落」です。」 近代以前は、選択肢の存在を知らないので、それがないことに悩むという気持ちは生まれてこない。だからこの時代には「不自由感」を感じるという不幸は免れる。しかし選択肢が存在することが見えてくる近代過渡期には、それが得られないことによる不幸感は「不自由感」として生まれてくるだろう。 だが近代過渡期にはこの「不自由感」を埋め合わせることは比較的容易だと思われる。なぜなら、この時代の欠落感は物質的な不足感から来るものだからだ。物質的な不足感は、量的な増大によって解決できる。つまり、「頑張れば何とかなる」と思えるような範囲の問題として現前してくるのだ。 この時代の教育は、勤勉さを尊ぶ心性を身につければ、頑張って労働に励むことが出来るので時代の要求に応えるものが実現できるだろう。深く考えて疑問を持つ人間よりも、素直に言われたことにしたがって行動する人間が高く評価される。そしてそのような人間が近代過渡期の成長に貢献するような人間になるであろうことも予想できる。 教育によって高い評価を受けた人間が、社会においても重要視され、仕事の上での成功を実現するというのが近代過渡期だったのではないかと思う。努力すれば努力した分だけ報われるという幸せな時代だったのではないかと思う。問題が量的な事柄に限られていたのでそのようなものにつながったのではないだろうか。 近代成熟期において本質的に問題になっているのは「選択能力」というものだ。これは頑張れば何とかなるというものではない。選択する対象の性質をよく知って、深い洞察の下に正しい判断をすると言うことで「自由」を実現しなければならない。「選択能力」がない場合は「不自由感」に悩まされることになる。 頑張れば何とかなるという教育は、監獄的・軍隊的なものである程度成果を上げることが出来る。頑張れば何とかなるという見通しがはっきりしていれば、人間は努力も出来るし、意欲も高めることが出来る。しかし、頑張ってもどうなるか分からないという時代では、学習の意欲そのものが減退してくる。今の子どもにやる気が感じられないと思うなら、それは時代のせいであることが極めて高い可能性として考えられるのではないか。近代成熟期は、意欲というものを自明の前提として要求することは出来ない。意欲を高めなくてはならないと言うことが前提になっているとしたら、やはり教育の世界でも近代成熟期を感じなければならないのではないかと思う。 今が近代成熟期では無いという判断をするなら、論理的には今をその前の「近代過渡期」であると判断するか、近代成熟期を越えてしまった時代と考えるしかない。もし、今が近代成熟期を越えているなら、近代成熟期の「不自由感」は克服されているはずだ。しかし現状はそうは見えないのではないだろうか。それでは、今はまだ「近代過渡期」なのだろうか。 今が近代過渡期であれば、ものを豊かにするという目標を持ち、頑張れば何とかなるという意欲で乗り切ることが出来るのではないか。それで乗り切れないと言うことは、今が近代過渡期ではないことを意味するのではないか。 mechaさんが「理論構築における抽象(=捨象)--何を目的として何が引き出され、何が捨てられるのか」のコメント欄で語ってくれたように、経済的な面から見ても現在が近代成熟期であることを感じることが出来る。 「社会的(経済的)に過渡期であれば、需給バランスが需要サイドに偏ってますので、比較的簡単に物が売れますし、競争状態が起こりにくい」という社会現象は、ものが豊かになっていく過程を見させてくれるだろうし、この過程を見ることによって、頑張れば何とかなるのだという思いも高まるだろう。 「しかし成熟期であれば、需給バランスは偏りがなく、下手すれば供給サイドに偏りますので、物はなかなか売れませんし、それに反比例するように競争が激化していきます」というような現象は、頑張っても何とかならない、むしろよく考えて正しく判断しないと駄目だという思いを抱かせるだろう。 「何らかの差別化が必要になり、技術やアイデアが不可欠になってきます」というのは、単に勤勉で与えられた仕事をこなすことだけが評価されるという時代ではないと言うことを物語っているのではないだろうか。この時代にふさわしい、判断力という面での教育の必要性を語っているのではないかと感じる。 「他方、皆が長時間勤務で苦しいかと言えば、退社時間にきちんと帰ったり、休みを取っている人は、しっかりいるんですよね。 でも残念ながら、得てして大きな仕事は任されていない。 しかし彼らも、それはそれで満足しているんです。 他に生き甲斐があるんですね。」 と言うコメントからは、近代成熟期の「不自由感」を無視して(あえて見ないようにして)、「不自由感」から生まれる不幸を回避する方向に向かっている人がいるのを感じる。そのような人々の存在を許容する社会であるということからも、やはり今が近代成熟期であるという判断は正しいものだと思われる。近代過渡期には、このように勤勉でない人は排除されるのではないかと思う。 このような人々が社会にとって脅威にならず、それなりに幸福感を感じて生きていくことが出来れば近代成熟期の問題はないだろうと思う。しかし、多くの人が「不自由感」からの不幸を感じるようであれば、それは社会にとって脅威になるだろうし、近代成熟期にとっても解決しなければならない問題になると思う。近代成熟期という概念は、そのような社会の理解にとって重要な概念だと思うのだ。
by ksyuumei
| 2007-01-13 10:30
| 雑文
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