内田樹さんの「「若者はなぜ3年で辞めるのか?」を読む」というエントリーを見て、「3年」と言うことが印象に残った。個人的な経験から感じるものでは、僕が職に就いた26年前は、3年勤めればあとはいくらでも勤められたという感じがしたからだ。
3年というのは仕事に慣れるのに必要な時間でもあった。その3年が、今の時代は辞めることを決断するのに必要な時間になっていると言うことに時代の差を感じる。実を言えば僕も仕事を辞めて他の職業を探そうと思ったことがある。しかしそれは仕事についてすぐにそう思った。 仕事について、自分はその仕事に向いていないとか、仕事に就く前に抱いていたイメージと違う(端的に言えば理想とは違うと言うことだろうか)と言うことはよくあることだろう。僕と同期に新規採用された教員は、その地域では16人いたが、3年以内に8人が辞めた。辞める理由はいろいろあったようだが、最も早い人間は半年で退職した者がいる。彼は辞めて俳優になるためにどこかの劇団に入ったと言うことを聞いた。彼は、理想と違う現実を拒否して理想に向かって進むことを決断したのではないかと感じたものだ。 僕の場合は特別に理想を抱いていたわけではないが、中学校で数学を教えてみると、その数学がひどく程度の低いものに思えて、こんなものは数学ではないと言う思いが強くなった。そんな思いを抱いているものだから、僕が教える数学はなかなか子どもの成績につながらないと言う、仕事を果たすには困ったレベルになりそうだという思いから、辞めた方がいいのかなという思いを抱いていた。 僕は教育の理想に燃えて、使命感を感じて教師になったという人間ではない。出来れば自分の自由になる時間がそれなりにあって、数学と論理学の研究を、独学でもいいから続けていきたいと思っていた人間だ。いわば、教師に「でも」なるかという発想で教師になった「でも」教師だ。最低限要求される技術が自分にあればいいのであって、ひどく低い水準の授業さえしなければ仕事を果たしていることになると思っていた。 それがどうも低い水準の授業になりそうだったので困っていた。ここで早い決断をしていれば僕は教師でない他の人生を歩むことになっただろうと思う。今から振り返るとその方が面白かったかもしれないとは思いながら、これも運命なのだろうと思うところもある。その後の人生がそれほど悪いものではなかったので、まあ満足しなければならないかとも思う。 僕は早い決断が出来なかったので、疑問を感じながらもずるずると教師を続けていた。そうすると不思議なことに仕事への慣れというものが出てきたのだ。疑問を感じながら仕事をしていたときは、ひどく低レベルの授業をしているものだと感じていたのだが、慣れてくるとそれが結果的にはそうでもなく、並レベルのものではないかとも思えてきた。結局、子どもたちのレベルがひどく標準を離れていない限り、普通の教員にとっては並レベルを脱することは出来ないのだと思った。ひどい低レベルの授業をするには、僕の個性はまだ不足していたと言うことだったのだろうと思う。 板倉さんの言葉の中に、「びりっかす、向きを変えれば一番に」というようなものがある。だから、ひどい低レベルの授業しかできないと言うことは、実は状況が変わればそれが一番いいと評価される可能性もある個性なのだと思う。普通の人間はそれほど強烈な個性を持っていないので、たいていが並のレベルに落ち着くのだろう。しかし、仕事というのは、基本的に並のレベルがこなせる人間が圧倒的多数を占めなければ、社会的に要求されるレベルをクリアできないだろう。 僕は1年間の仕事で、どうやら自分は並のレベルくらいにはいるらしいとわかり、2年目・3年目には仕事にますます慣れてきて、かなり楽に並のレベルを保つことが出来るようになった。仕事はかなり順調にいくようになってきたのだが、個人的にはちょっと困ったという感じがしていた。数学の内容に疑問を感じていた頃は、その問題意識が働いていたのかも知れないが、数学や論理学の学問の方に自分の関心の多くが向いていたのだが、仕事に慣れて疑問が薄れると、学問に対する気持ちも薄くなってきたのを感じていた。 僕は仕事の中で自己実現をしたいとは思っていなかったが、仕事の中に埋没することは、自分の生き甲斐とも言える学問を忘れてしまうことにならないかと言うことが気になった。どうも学問的とは言えない数学を教えているのがいけないのかとも思い、数学を教えなくてもすむような学校を探そうと思った。 数学の教員が数学を教えなくてすむようにしようと考えたのだから、これはかなり難しい。このときそういう学校が見つからなかったら、僕は3年で教員を辞めていたか、学問的な要求を捨てて、まったりと現実的な満足の中で生きていくことを決めて仕事を続けていたかどちらかだっただろう。僕は、運良く養護学校と言うところを見つけて、そこで数学を教えずにすんだので教師を続けることが出来るようになった。 数学を教えなくてすむようになってからの養護学校での教師生活は楽しいものだった。数学を教えていた頃は、教科書を教えてノルマを果たしていればそれで仕事をしたという感じだった。拘束されている時間内に、果たすべき仕事内容が決まっていて、それをどの程度こなしたかで評価されて賃金がもらえるという感じだっただろうか。そのような仕事生活は、仕事をしているときはあまり自分が生きているという感じがせず、余暇の時間に自由に過ごすときの自分こそが本当の自分だという感じがしていた。 ところが養護学校では、これをしなければならないと言うマニュアル的なものが何もなかった。そこで長く仕事をしている人間も、初めてそこに行った人間も、仕事の内容が分からないと言うことでは同じだった。試行錯誤で仕事を進めていかなければならなかった。 この試行錯誤が仕事に対する関心を高め、仕事を面白くさせるのに強い効果があるというのは、かつて数学の魅力を感じ始めた頃、試行錯誤によって数学の法則を一つ一つ確かめていた頃の楽しさを思い出す感じだった。 また何よりも喜びを感じたのは、自分の仕事が子どもの要求に応えているという感じが持てたことだ。数学を教えていたときは、子どもがそれを望もうが望むまいが、とにかく教えなければならないことが決まっていて、それを子どもに注入することが仕事だった。しかし、養護学校ではそのような発想では子どもは何も応えてくれない。 子どもがまず何を求めているかを知らなければ全く仕事にならない。それを探るために多くの試行錯誤をしてみる。もちろん失敗することも多いが、失敗から学んで賢くなると言う感じも実感として受け止めることが出来る。給料をもらっていながらこれほど充実した時間を過ごしてもいいものだろうか、と感じることもしばしばだった。自分がやりたいと思っていた学問的な思考が、仕事をする中でやっていけているという感じだった。 その時に出会ったのが「障害者の教育権を実現する会」という運動団体だった。その中心にいたのは、三浦つとむさんとも親交のあった津田道夫さんだった。津田さんは、戦後まもなくマルクス主義陣営をリードした理論家だった。障害児教育を扱った文章で、津田さんの文章ほど学問的な香りの高いものは無かった。 今は障害児教育を離れて夜間中学にいるのだが、それは障害児教育の方が、理想的な障害児像のようなものを設定して、それに近づく努力をすることが障害児教育であるというような雰囲気を持ってきたからだった。そうなるとそこからは試行錯誤によって実践を確かめると言うことがなくなってくる。どこかの偉い学者が打ち立てた学説を忠実になぞるような実践が主になる。 全体がそのような流れを持ってきたときに、一人でそれに抵抗するのはかなりしんどいことだ。試行錯誤というのは、ある程度の失敗を見込めるから踏み出せるのだが、主流派に抵抗するとなると失敗が許されなくなる。そこまで仕事の中で自己実現をしたいという要求は僕にはなかった。ある程度の妥協は仕方がないと思いながら、妥協の中で流されないような職場をまた探そうという気分になったときに見つけたのが夜間中学だった。 僕の教員生活の中では夜間中学が一番長くなった。夜間中学でも妥協しなければならないところがないわけではない。仕事というのは、自分勝手に出来る部分で全て成り立っているわけではないから、妥協する部分もたくさんある。だが、夜間中学ではもっとも大切にしたい試行錯誤による実践という面での妥協はまだしなくてすんでいる。他でいくら妥協しても、ここで妥協しないですむなら、夜間中学という場はまだやりがいのある仕事場だと思う。板倉さんが言う「理想を掲げて妥協する」と言うことを実践している思いがある。 僕は教員という仕事を辞めはしなかったけれど、数学を教えるという仕事は基本的に3年で辞めたと思っている。まことに3年という時間は微妙な時間だ。内田さんは 「「働き甲斐」というのは金だけではない。 著者は「やりがい」の条件として「担当業務が縦に切り出された形で一任されること」、「予算も含めた権限がセットでついてくる」雇用形態を推奨する。つまりスタンドアロンで、小なりといえども「一国一城」を任されると、若者もやる気になる。」 と語っているが、試行錯誤をして自分の成長を感じることが出来る仕事というのは、ここで言っている「やりがい」のある仕事ではないかと思う。また内田さんは 「オーバーアチーブという言葉には、単に「賃金に対する過剰な労働」のみならず、個人にとっては「その能力を超えた成果を達成すること」を意味している。 というより、「賃金に対する過剰な労働」は労働者自身が「能力を超えた働きをしてしまった」ことの副作用なのである。」 ということも語っているが、まことに鋭い指摘だと思う。人間は適材適所に配置されると、どうしても要求された仕事以上の成果を上げてしまうものかも知れない。それが、まだ適材適所にいない人たちの仕事をカバーして、日本を引っ張っていくものになるのだろう。 僕は数学を教える教師としては適材ではなかった。それを知るのに3年かかったと言うことだろう。そして、養護学校と夜間中学は自分の適所だと言うことを見つけて、たぶん給料以上の働きをしているだろうと思っている。自分が、仕事において適材適所にいるかどうかを判断するのに、たぶん3年という時間がちょうどいいのではないかと思う。そして、多くの若者が自分が適材適所ではないと感じるからこそその仕事を辞めていくのだろう。若者にそう感じさせてしまう仕事の環境というのは、それが特殊ではなく一般的ならば、やはりシステムの改善が必要な問題なのだろうと思う。
by ksyuumei
| 2007-01-09 09:56
| 雑文
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