「反証可能性」という言葉は、そもそも科学と疑似科学とを区別するための判断基準として提出されたように感じる。「反証可能性」を持っていれば、それは科学としての可能性(将来科学として相対的真理であることが確認されるかも知れない)を主張できる。しかし、「反証可能性」をもっていなければ、それは科学としての資格を持つことはない、という判断が出来る。
科学と疑似科学との区別が難しいので、「反証可能性」があるかどうかで判断をしようという発想なのだろうと思う。ところが、この「反証可能性」の判断が、科学と疑似科学の区別の判断以上に難しかったら、最初の意図は達成されなくなる。「反証可能性」という概念はそのようなジレンマに陥っているのではないかと感じる。 「反証可能性」がないというのは、それが間違っているということが言えないと言うことだから、論理的な意味でのトートロジーでない限り、そのようなことを示すことが出来そうにないように感じる。「反証可能性」がないものの例として出されていた「適者生存」という法則も、これは論理的な意味でのトートロジーに還元できるからこそ「反証可能性」がないと主張できるものだった。 他の場合のほとんどのものは、「反証可能性」がないと言うよりも、反証を受け入れない言い逃れのような屁理屈を語るので、「反証可能性」がないように見えてしまうだけなのではないか。多くの宗教の教義などはそういうものだろうと思う。ある教義を何らかの法則として捉えれば、それに対する反証はいくつでも見つかるのではないか。 しかし、宗教の場合は、その主張が科学であると言っているわけではないので、別に反証されたからと言ってあわてる必要はない。「宗教は科学ではない」と言えばそれですむことだ。その主張と事実が違っていても、そこには奇跡が起きなかったと解釈すればそれですむだろう。 問題は、その主張が科学であると言いたいとき、それに対する反証というものをどう受け止めたらいいかと言うことだ。それは、科学の限界を見るためのものだと受け止めるのが正しい受け止め方だろう。それは、科学における命題そのものを否定するものではない。科学というのは、一度は相対的真理であることが確立されているのであるから、それを全部否定することは出来ない。 主張の全てが否定されてしまう段階は、「仮説」と呼ぶのがふさわしいだろう。「仮説」が主張することに対して反例が示され、反証されることがあれば、その「仮説」は否定されたといっていいのではないかと思う。だが、科学の場合は、正しい限界を超えて適用するような反証が示されると受け止めなければならない。そうでなければ、いったん科学であると判断したことそのものが間違えていると言うことになる。 科学において限界が存在するのは、それが現実を対象にしているからである。だから、 「ある主張が科学的法則である」→「その法則の適用には限界がある」 →「限界を超えれば法則は誤謬になる」 →「限界を超えたところに反証できる可能性がある」 と言うような論理の流れで、ある主張が科学であると認められれば、それは「反証可能性」を持つと言える。逆に言えば、「反証可能性」を持たなければ、それは科学ではないと言うことが、上の命題の対偶として求められる。 「反証可能性」がないと言うことは、適用の限界がないと言うことだ。つまり、適用する対象が、未知の例外的な存在であることがないと言うことだ。これは、対象の全てをあらかじめ定義して、それ以外を排除できるという数学においては、定理という主張に対する「反証可能性」はないと言える。だから、数学における主張は、現実を対象にした科学ではないということになる。 現実を対象にした主張は、科学である・無いにかかわらず、適用の限界を持つ。つまりそのような主張の全ては「反証可能性」を持つ。「反証可能性」を持たない主張は、原理的には論理的なトートロジーだけではないかと思う。つまり、「反証可能性」という概念では、「科学ではない」と言うことは確かめられるが、「科学である」ということについては何も言えないだろうと思う。論理的には、 「ある主張に反証可能性がない」→「それは科学ではない」 と言う正しい命題からは、前提が正しいときは、その結論が正しいことが自動的に導かれる。しかし、この命題は、前提が間違っているときには結論に対しては何も言うことが出来ない。つまり、「ある主張に反証可能性がある」と言うことが確認出来たとき、その主張が科学であるか・無いかは決定できないのだ。上の命題は、あくまでも「反証可能性がない」と言うことが確かめられたときのことしか語っていないのだ。 「反証可能性」を考えるだけでは、ある主張が科学であるかどうかは分からない。では、その主張が科学であるという確信はどうしたら得られるだろうか。そもそも、科学というのはどういうふうに定義されているだろうか。 科学を絶対的真理として定義すれば、そのようなものは現実には存在できないので、科学は存在しない、全ては「仮説」に過ぎないと言わざるを得なくなるだろう。科学とエセ科学の区別がつかなくなるものと思われる。 科学とエセ科学を区別して、科学の真理性に有効性を持たせるためには、科学を相対的真理として定義するしかないだろう。相対的真理とは何か?それは、ほんの少し誤謬が張り付いた真理のことを意味する。その誤謬は、普通は「誤差」として例外的なものとして処理されるようなものになる。 逆に言うと、相対的誤謬というのは、ほんの少し真理がこびりついている誤謬のことを意味する。たとえば「病気は心の持ち方が悪いから生じる」と言うことを考えてみよう。これは、その主張が正しいときが例外的に観察できる。恋の病などはそういうものだろう。しかし、普遍的に、そこら辺に見られるありふれた病気に対してもそうだという判断をしようとすると、この主張が間違えていることを発見するだろう。つまり、例外的には正しいけれど、ありふれた対象に対しては間違っているというものが相対的誤謬というものだ。 これに対して、ある病気の原因がある種の病原菌が原因で起こると言うことが確かめられたとき、それは科学という相対的真理になる。これは、その病気であると診断された人間には、その原因を除去するような治療をすればほとんどが病気を治すことが出来るという観察で、それが相対的真理であることが主張できる。つまり、正しいことがありふれているときは相対的真理というものになる。 時には治療が失敗することがあるだろうが、その時は、科学としての主張を疑うのではなく、その病気であると診断した判断を間違えたのではないかを疑うことだろう。それが、科学という相対的真理の資格を獲得したならば、反例は、科学そのもの否定ではなく、条件の否定としてその限界を示すものと理解されるだろう。 このような相対的真理であるという判断を確固たるものにするのが、板倉聖宣さんが主張する「仮説実験の論理」というものだ。これは、ある主張が正しいと言うことを、現実にその事実を確認すると言うだけの意味で語っているのではない。その事実を確認する「実験」を、必ず「未知の対象」に対して行って確認すると言うことを条件にする。 既知の、すでに結果が分かっていることに対してそれを確かめるようなことをしても、それは「仮説実験の論理」の意味での「実験」とは考えない。ある主張が「仮説」から「科学」になるには、未知なる対象に対して、その主張が成立すると言うことを確かめる「実験」をしなければならない。そして、その実験を経て真理が確認されたとき、その主張は相対的真理としての科学の資格を持つことになる。 この「仮説実験の論理」では、未知なる対象に対する実験が「反証可能性」を確かめる実験となっているのだ。未知なる対象は、その主張を覆す可能性を持っている。既知であれば、それは反例にはならないと安心していられるかも知れないが、未知のものは、可能性としては反例になり得るというものを持っている。この「未知」であると言うことが本質的に重要なことであって、「未知」であることが、現実の「任意性」というものにつながってくる。 科学というのは、普遍的・一般的な事柄を主張するものだ。任意の対象に対して成り立つ法則を主張する。その「任意性」を「未知」という概念で代替するのが「仮説実験の論理」だ。任意の対象を全て把握できれば、論理的にも完全になるが、これは実無限を把握することになり「未知」という概念に反するもので、現実には不可能だ。「未知」なる対象の全てを把握することは出来ない。 未知なる対象に対してある法則が成立すれば、その法則は「任意」の対象に対して成立することを主張できる。そう考えるのが「仮説実験の論理」である。この「仮説実験の論理」で科学であることが確認出来たとき、その法則が、もし成立しないような対象に遭遇したら、それは例外的な対象であると判断する。それを、その法則を適用できると判断したのが間違いだったかも知れない、と考える。 この「任意性」は完全なものではないから、いつか誤謬が生まれる可能性があるが、それは相対的真理として、誤謬を克服しながら絶対的真理に近づいていくと考えるのが、「仮説実験の論理」を基礎にした科学の考え方と言うことになる。 科学を「仮説」として捉えれば、未知なる対象に対して適用するときは、それが間違えているかも知れないと言うことをいつでも忘れてはいけないことになる。宇宙にロケットを飛ばすときも、それは飛ばしてみなければどうなるか分からないと言うことになってしまうだろう。これから起こることは、何が起こるか分からない、と言うのが「仮説」としてのとらえ方になる。 しかし、科学を相対的真理として捉えれば、宇宙にロケットを飛ばすときに考察した科学法則による予想は、間違いのない真理として信頼を持って受け止めることだろう。もし、万一それが失敗に終わったときも、それは科学の否定としての失敗と受け止める科学者はいない。科学を否定するのでなく、何らかの技術的なミスがあったからだと考えるだろう。 「仮説実験の論理」で科学を受け止めれば、科学として確立された理論は全て相対的真理として高い信頼を置くことが出来る。それは「仮説」ではない。科学という真理なのだ。「仮説実験の論理」で科学であることを確信できるようになれば、エセ科学をすぐに科学という真理であると鵜呑みにすることはなくなるだろう。「反証可能性」では両者を区別できないが、「仮説実験の論理」なら両者を区別することが出来るだろう。 科学を科学として認識できるようになれば、あとはその適用を正しくする技術を磨くことで、科学は素晴らしく便利な道具となってくれるだろうと思う。科学を正しく認識できず、間違っているかも知れないと言う「可能性」だけで否定したりすると、その反動でエセ科学に引っかかってしまうのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2006-12-29 22:28
| 科学
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