仲正昌樹さんは『ネット時代の反論述』という本の中で、裁判について次のように語っている。
「判決文は、“正しい答え”があるかのように書かれますが、実は裁判官も弁護士も、本当の意味で「正しい答え」があるなんて信じてはいません。正義感に燃えて裁判所に出かける人は、社会正義を司法が実現してくれると思い込みがちです。しかし、そんなとき弁護士が、「いや、そういうものじゃない。法の正義というのは、本当は社会的な力関係で決まるんだけど、一応のルールがあるので、その範囲内で、自分の主張を通すんだ」というような言い方で本音を語ったら、きっと驚くのではないでしょうか。プロの法律家なら、裁判における真理としての「正義 Justice」は、その時の力関係や社会通念で決まってくるものであるということを知っています。ただ、最初から力関係だけで、「答え」を落ち着かせるのではあまりにもまずいので、ある程度のルールを決めておくだけなのです。」 これが裁判の実態なのだと言われると、何か釈然としない気分を抱く人もいるだろうが、国を訴えて最高裁まで争った裁判がほとんど国側の勝利に終わるという現実を見ると、仲正さんの指摘が正しいと思えてくるだろう。 宮台氏も、裁判において証明されるのは、現実的な事実(真理)ではないと語っていた。ある意味では「手打ち」として妥当な結論が出されるのであって、事実(真理)は二の次なのであるとも語っていた。冤罪ではないかと疑われる人が有罪になって重い罰を受けるのも、その犯罪に対して、これだけの処罰をしたということを示さないと、世間との「手打ち」が出来ないと言うことがあるのではないかと思う。 裁判で証明されるのが「真理」ではないということは一般的にも結論することが出来るだろう。これは「真理」というものの定義から導かれる論理的結論だ。ある命題が「真理」であるということが、その命題が述べている内容が現実の事実と一致するという定義をすると、無限の多様性を持っていると考えられる現実に対して、完全な一致を証明することは原理的に不可能だ。 さらに、深刻な争いになっている裁判では、どうしても証明できないような事実が存在してしまう。元々が「真理」として証明することが無理なことを、「真理」を証明しているかのように争っているのが裁判だとも言えるだろう。 しかし、裁判には本当の意味での「論争」は存在しうると僕は思う。それは明確なルールが設けられていて、そのルールに従って意見の交換がされるからだ。前提となる事実や、犯罪行為を被告が行ったという事実の真理性は100%確立することは出来ない。しかし、ある前提を認めたら、必ずこのような結論を引き出さなければならないと言う、仮言命題的な推論に関しては、恣意的な判断ではなく明確なルールの下での判断がされるのではないかと思う。論理に関しては正しい流れを持っているのではないだろうか。 正しい「論争」は行われるが、前提や結論の正しさは確証されないと言うのが裁判というものではないか。論争の部分で被告側が正しい、すなわちその前提からでは被告の犯罪であるという結論が導けないと言うようなことが論理的に証明されたら、証拠不十分ということで「無罪」になるのではないだろうか。この「無罪」というのは、被告の犯罪では無いという否定が証明されたのではなく、被告の犯罪であるということが証明されないとき「無罪」と呼ばれるのではないかと思う。それが推定無罪の原則ではないだろうか。 疑わしい人間が「無罪」になったときに、感情的な反発を感じる人がいるようだが、それは「疑わしきは罰せず」と言うことの方が近代社会では正しいと言うことを忘れているのではないかと思う。疑わしい人を罰して冤罪を作るということと、真犯人を逃して犯罪者を社会に放置することと、両方を比べて、「疑わしきは罰せず」の方が民主的には利益が大きいという判断から、このような判断がされているのだと思う。 力関係によって裁判の「答え」が決まってくると言うことの説明で、仲正さんは面白い説明をしている。論理の展開そのものは力関係に関係なくルールによっているが、前提となる事実が力関係によって変化することがあることを「セクハラ」を例に説明している。仲正さんは次のように書いている。 「またセクハラの例で言いますと、たとえ相手が明白にノーと言わなくても、性的なものを強要するのは違法であるという考えが社会的に有力になり、“正義”が明らかにその方向にシフトしているとしても、個々の事件が果たして、それに当てはまるかどうかは自動的には決まっていません。原告と被告の双方が、「当てはまる」、「いや、当てはまらない」とわめいているだけでは埒があきません。 そこで、訴訟のルールに従って、双方、あるいはその代理人が裁判官に対して、「最近の正義の趨勢から見て、我々に勝たせた方が妥当ですよ」と言うことをアピールするための“証拠”を順番に出し合うわけです。いわば、個別のケースを無理やり、社会の現在の“正義”観に当てはめるためのルールなのです。そして、そうした個別のケースにおける判決(判断)が、社会全体の“正義”観に徐々にフィードバックされる形で、“正義”が次第に変容していくわけです。」 力関係によって、前提である「たとえ相手が明白にノーと言わなくても、性的なものを強要するのは違法であるという考え」が正しいものと認められれば、その正しい前提から導かれる正しい結論にも変化が起こる。論理そのものは何も変わっていないが、前提が変われば結論も変わってくると言うことが起こる。そして、その前提に変化をもたらすのは「力関係」だという指摘をしているわけだ。 論理の前提になる事柄の正しさは論理によって証明することが出来ない。だからそれは力関係によって決まってくる。裁判におけるこのような構造は、一般的な「論争」における前提の正しさ(これは論理的帰結の正しさにつながってくる)も、同じようなものだと仲正さんは指摘する。 「論争を通して得られる「答え」も、これと同じようなところがあります。つまり、社会的な力関係で決まってくる「正しさ」が、自分の現在の立場・主張に近いように見せるため、一定のルールに従って、証拠を出し合っているのが「論争」なのです。特に、国や地方の議会、各種審議会、各種団体の役員会、大学の教授会などのように、拘束力のある決めごとをするための「論争」の場では、露骨に社会的な“正しさ”とのすりあわせが図られます。」 政治家が行う「論争」が力関係で結論が出るというのは、教育基本法「改正」を巡る「論争」を見ると、その解釈が正しいと思えるのではないか。力関係から言えば、政府案が「正しい」と言うことが民主的に確認されたと言えるのではないだろうか。これは、「現実の教育の諸問題を解決するための改正」という条件があれば、ルールに従って、政府案が間違っていることを証明できたと思うのだが、この条件は力関係によって前提からは抜け落ちていたのではないかと思う。 だから、マル激で鈴木氏や宮台氏が指摘するように、政府案は、通すことが最大の目的で中身の問題は二の次だったのだという評価が正しいような気がする。今回の教育基本法「改正」案が成立したのは、論理的には 「政府与党が圧倒的多数を占める」→「政府提出議案は賛成多数で可決される」 という仮言命題の正しさを確認しただけのことだったのではないか。中身に対しての「論争」はなかったのではないかとさえ感じる。政治的な「論争」では、今週のマル激で話題にしていた「エイズ」を巡ってでてきた「性教育」について次のような感想を持った。 「エイズ」感染の比率は日本でも徐々に上がってきている。この統計的な事実に対して、今後の対策としては、性教育をして正しい知識を与えることが効果的だという提言が出されていた。これは仮言命題的に言えば、 「性教育で正しい知識を提供する」→「エイズ感染の比率が統計的な意味で抑えられる」 これはおそらく正しい仮言命題ではないかと思う。個人の行動について言えば、性教育で得た知識が、必ずしも「エイズ」の防衛には役立たないかも知れないが、統計的な多数を対象にした場合には、これは有効に働くと言うことを統計を取れば証明できるのではないかと思う。正しい知識を与えなければ、それは自然に増加するのにまかせていくだけになるのではないかと思う。 これは道徳教育よりも、統計的には効果があると思う。道徳によって自分を抑える人間よりも、正しい知識によって抑える人間の方が多いと思えるからだ。しかし、「性教育」には一方で次のようなことを主張する人々もいる。 「性教育で正しい知識を提供する」→「性に対する関心が大きくなり、性行為に走る人間が増える」 つまり、性教育をすることは、性行為を奨励していることになると考える人がいると言うことだ。これは一面の真理は語っていると思う。何も知らない状態であれば、性行為に対する関心も生まれないだろう。教えたことによって関心を持つことはあり得る。 だが、性教育の実施を主張する人々の目的は、あくまでも「エイズ」予防ということにあるのである。性教育の実施によって何らかの弊害が起こる可能性があっても、予防という面での利益の方が大きいと判断すれば、実施を主張する。つまり、両者の主張は、性教育の是非に関しては対立するが、その前提も含めた仮言命題としては両立しうるものと考えられる。論理的には両者とも正当性を持ちうる。 この場合に、決定される要素は「力関係」というものになる。宮台氏によれば、性教育に反対する保守勢力の方が、今の段階では力関係が上のように見ているようだった。この力関係は、「エイズ」がさらに深刻な問題として迫ってきたときに逆転する可能性はある。しかし、今の段階で逆転させておいた方が、将来的な深刻な悲劇は防げるように思う。どうすれば力関係の逆転が早められるかを考えることが必要だろう。 力関係は、民主的な多数の力による関係と考えることが出来る。これは、必ずしも正しい主張に結びつくものではない。しかし、社会的な「正しさ」がこの力によっているというのは本当だろう。本当の「正しさ」を争う学者同士の「論争」でさえも「正しさ」は力関係で決まると仲正さんは指摘する。そういった中で、絶望ではなくどうやって希望を持ち続けるかという問題を考えていきたいと思う。
by ksyuumei
| 2006-12-18 09:55
| 論理
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