『バックラッシュ』(双風舎)という本の中の齋藤環さんの「バックラッシュの精神分析」という文章に書かれた内田樹批判を考えてみようと思う。これは「誤読」というキーワードで解釈することが妥当なように僕には感じる。
斉藤さんは、内田さんが「フェミニズム」というものを誤読している(誤解、つまり全然「フェミニズム」でないものを「フェミニズム」だと思って、その間違ったイメージに対して批判している)と受け取っているように感じる。それは、内田さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」という文章から次のような判断を引き出していることからそう感じる。 「一読すれば分かる通り、この一文において内田が批判するのは、正確にはフェミニズムでもマルクス主義でもない。ようは、自らの主張の正しさに対して一切の懐疑を持たない「正義の人」が批判されているのだ。しかし、そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない。 内田がほぼ田嶋陽子一人をフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩きに対しては、今さら無知とか下品とか言っても始まらない。これほどあからさまな「為にする議論」を、今なお自らの公式ウェブサイトで公開し続けるという身振りは、議論や対話を最初から放棄するためになされているとしか思われない。それでなくとも内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している。」 この判断に関しては僕は全く賛成出来ないので、「一読すれば分かる通り」と言うことが理解出来ない。しかしそれはまた後で考えることにして、ここでは、斉藤さんが語る「内田さんの誤解」というものが、実は批判というものに必然的につきまとうものではないかという僕の感想を語ることにしよう。「フェミニズム」の意味を誤解しているという指摘は、斉藤さんの立場からは正しい主張なのだろうが、その立場に立たない僕には全く説得力を持たない。むしろ、そのような指摘で批判することにどれほどの意味があるのだろうかと言うことを感じる。 内田さんの文章が「フェミニズム叩き」に見えるとき、その「フェミニズム」は本当の「フェミニズム」ではないとする反論がほとんど意味がないと僕が考えるのは、文章の理解というのは、相手の文脈でまず理解するしかないからだ。だから、内田さんの文章をまず理解するには、内田さんが語る意味で「フェミニズム」という言葉を理解すると言うことが前提となる。そうでなければ、それは「誤読」としか考えようがない。 内田さんが語る意味で「フェミニズム」という言葉を理解し、自分はそういう定義には賛成出来ないと言うのであれば、それは「見解の相違」という形で語るしかないだろう。それを、内田さんの「フェミニズム」理解が間違っていると批判しても、あまり意味のあることのようには見えない。なぜなら、誰かを批判する表現というのは、自分の定義に従って理解した意味で批判せざるを得ないからだと思うからだ。批判という行為には、自分が定義した意味に従ってやっていると言うことが避けられないものとしてあるのだと思う。だから、定義が恣意的だという批判をしても、それは批判そのものをしてはいけないという主張にしか聞こえない。 斉藤さんの主張をこのような論理として受け取ると、斉藤さんの三砂さん批判というものが全くおかしな主張のように見える。斉藤さんが内田さんを批判するのと同じ論理が、斉藤さんが三砂さんを批判する言説にも同じように適用出来ると僕は思うからだ。斉藤さんは、次のように三砂さんへの批判を語る。 「まして『身体知』における内田の対談相手である三砂ちづるにいたっては、もはやなにをかいわんや、である。彼女の悪名高い著書『オニババ化する女たち』(光文社新書、2004年)において、彼女はおおむね以下のような主張を無邪気に繰り広げている。 「社会の中で適切な役割を与えられない更年期女性がオニババ化する」「誰でもいいから結婚して子を産むべし」「子宮を空き家にしてはいけない」「めかけのすすめ」「月経前緊張症は受精出来なかった卵子の悲しみ」……わざとそういうキャラを作っているとしか思われないトンデモ発言の数々は、正面から批判の対象にする気力すら萎えさせるほど、またしても「素朴さ」に終始している。」 斉藤さんは、ここでこれらの文章の解釈を詳しくは語っていない。全て「トンデモ発言」という言葉でくくっているだけだ。それから推し量ると、例えば「オニババ」という言葉の意味を、斉藤さんが、その言葉を使うだけで女性を非難・貶めるために使っていると受け取っているように感じる。しかし、これは斉藤さんが定義する「オニババ」の意味なのではないか。三砂さんが、斉藤さんが使う意味と同じ意味で「オニババ」という言葉を使っていると言うことはどう証明されるのだろうか。 「オニババ」という言葉に反発を覚える人は、斉藤さんに共感してこの解釈を支持するかも知れない。しかし、それが三砂さんの本意だと言うことは確認されてはいない。斉藤さんが語る意味で言葉を解釈すればその批判は妥当で正しいと思うだけだ。これは、内田さんが語る「フェミニズム」という言葉の意味(イメージも含む)を、内田さんと同じようなものを抱いていればそれに共感する人がいることとどこが違ってくるのだろうか。 自分では、自分が定義する意味の言葉に従って批判しているのに、内田さんに対してはそれは間違っていると主張することに論理的な矛盾はないのだろうか。批判をするというのは、そういう論理的前提を逃れることが出来ないのではないか。だから、その恣意的な言葉の定義という前提を認めるならば、批判は立場的には見解の相違に過ぎないと受け取るしかないのではないか。 どちらの見解がより現実を的確に捉えているかという問題はあるが、斉藤さんはそう言う語り方はしていない。内田さんの「フェミニズム批判」が間違っているように見える斉藤さんには、内田さんが誤解(誤読)しているように見えるのは理解出来る。なぜなら、斉藤さんの内田批判に賛成出来ない僕には、斉藤さんが内田さんを誤読しているように見えるからだ。だが、この誤読の判断は、僕の立場からの判断だから、同じ立場に立たない人が賛成しないのは仕方がない。誤読という判断も、立場という条件付きの仮言命題としての真理性を主張するものだからだ。結果的には「見解の相違」だという理解をするしかない。 なお三砂さんに関しては、僕は内田さんに対するほどの関心を抱いていないので『オニババ化する女たち』は持っているもののあまり詳しく読んではいない。しかし、その中の「めかけのすすめ」に関しては、斉藤さんが非難するほどの「トンデモ発言」とは感じない。むしろ、それは常識的な平凡な判断を語っているもののようにも思える。三砂さんのこの本がベストセラーになったのは、そこに語られていることが「トンデモ発言」で面白いからと言うよりも、平凡で常識的な事柄ばかりなので大衆受けしたのだと理解した方がいいと思う。藤原正彦さんの『国家の品格』と同じ要素を持っていたからベストセラーになったと理解した方がいいのではないかと思う。 三砂さんが語っている「めかけのすすめ」というのは、「いつかは妻と別れて君と一緒になるからね」というような男が語る幻想に対して、そんな嘘をつくのだったら正直に「妾にしたい」と言った方がいいという主張だと僕は受け取った。そのような意味での「めかけのすすめ」なのだと僕は理解した。 「めかけのすすめ」という言葉だけでは、ここから人によっていろいろなイメージが浮かんでくるだろう。三砂さんが語りたかった真意ではなく、その言葉を受け取る人が、自分でそう理解したい意味として受け取るだろう。この言葉をケシカランと思いたい人は、ケシカラン意味で受け取るだろう。 例えば、金のある男に囲われることは楽だし、金があれば好きなことが出来る特権を持ちうるから、容貌という素質を持っている女は妾になってその素質を利用すればいい、というような意味でこれを理解すれば、これは「トンデモ発言」のように見えるかも知れない。妾というのを容認するようなことを三砂さんは言っているのだと理解するだろう。 だが、結婚を餌に女性を騙して不安定な地位にいても我慢させるという状態にあるのなら、まだ妾として契約的な関係を持ってドライに対処した方がいいのではないかという主張なら、それは一つの見解として、今の時代なら成り立つのではないかと思う。それは比較の問題だ。 今時そんな設定の下にいる女性なんかいないだろう、というような批判だったら、あるいは僕もそうかも知れないと思ったかも知れない。しかし、「めかけのすすめ」という言葉だけを出されて、それが「トンデモ発言」だという指摘だけをされているという文章の流れからは、それが斉藤さんが考えている意味で受け取られているのであって、三砂さんが語っている意味でそうなのかと言うことは分からない。 しかし、批判するときにいちいち相手の正しい見解を語れという要求をしようとは僕は思わない。そんなことを書いていたら、本質的に主張したい事柄がぼやけてしまうからだ。それだからこそ、批判というのは、自分の側の恣意的な言葉の定義でやらざるを得ないのだと言うことを、批判という行為の暗黙の前提として了解する必要があるのではないかと思う。 斉藤さんが、斉藤さんが定義する意味で批判するのは了解する。その立場からならその批判は正しいだろうと言うことを僕は理解する。しかし、それが本当に三砂さんの真意を捉えた批判であるかというのはまた別に考えなければならないことだと言うことも忘れないようにする。そのような読み方をすればいいのだと思う。 内田さんの「フェミニズム」批判に対してもそうだ。それは内田さんが定義する意味での「フェミニズム」に対する批判なのだ。それに対して、「フェミニズム」という言葉の使い方を間違えていると指摘しても仕方がない。批判の言説の前提として、批判者自身の定義に従って批判しているのだと受け取ればいいことだ。その批判に賛成出来ないのであれば、定義に賛成出来ないのか、批判の論理そのものに賛成出来ないのかという区別をして考えればいいのだと思う。 「バックラッシュ」言説に関する僕の関心と重なるところがあるのだが、このような批判言説に関しても、それに共感する人が多いか少ないかと言うことの方が僕には興味深い。共感する人が少ない言説であれば、それは取るに足りないものなので、少々問題があると感じても放っておいてそれほど大きな害悪を生まないだろう。無視していればいいと思う。 自分が賛成出来ない言説が、大きな反発を呼んでいるようなものなら、むしろその言説が世に出ることを歓迎したくなるのではないだろうか。間違いをよく知らせてくれる言説なのだから、多くの人がそれを知ってくれることがいいことになる。だが、賛成出来ない言説が、多くの人の共感を呼んだりするものだったりしたら、それはどうしてなのかということを深く考えたくなる。反発する自分が間違っているのか、賛成する多くの人が間違っているのか。また、その間違いは、個人的な資質に還元出来るのか、それとも社会的な要素に還元出来るものなのか。批判して溜飲を下げるよりも、僕にはその方が大いに関心がある。
by ksyuumei
| 2006-12-09 11:25
| 誤謬論
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