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バックラッシュの必然性

バックラッシュというのは、保守的な層からの過剰な反動としてリベラルの側への不当な攻撃がされるというふうに僕は解釈している。それが不当であるという判断をもっていながら、それが起こってくる必然性を考えるのは、バックラッシュの正しさを考えようというものではない。たとえ不当なものであっても、それが現実に存在する限りは、存在するだけの根拠があり合理性があるはずだから、その合理性を理解したいという思いから必然性を考えたいというものだ。

学校におけるいじめの問題に関して、善意の人はそれは「あってはならないもの」という考え方をする。しかし、「あってはならないもの」が現実に存在するという矛盾はどのようにして受け止めたらいいのだろうか。多くの場合は、いじめをする方が悪いということで解釈されるだろう。

しかし、内藤朝雄さんは、いじめの起こる必然性を中間集団全体主義というものに求めた。そこにいじめが存在することの合理性を解釈することが出来たと言えるだろう。これは、そのような合理性があるからいじめが存在することが仕方がないとか、いじめをする方の責任が薄れるとかいう主張ではない。むしろ、中間集団全体主義の方を改善することによりいじめをなくすことが出来るという合理的な展望を語ることになる。



バックラッシュの合理性を理解するというのは、右翼的な保守的思想に大きく揺れている現在の日本の世論の風潮を合理的に理解するということになると思う。教育基本法が「改正」され、憲法が変えられようとしている今の状況は、そのような悪意を持った人々の陰謀ではなく、むしろ論理的には整合性を持った方向にあるのではないかという理解をしたいと思う。そして、その理解をした上で自分の態度を決定したいということだ。

宮台真司氏は、『バックラッシュ』(双風舎)という本の中で「今起こっていることは、ホリエモン(堀江貴文)じゃありませんが完全に「想定済み」です。だから昨今のバックラッシュについては驚いてないし、怒りもありません」と語っている。これは、その存在は論理的に「想定済み」だということだ。つまり、宮台氏にはその存在の合理性がすでにつかめているということを意味する。この合理性を宮台氏の言葉から学んでいこうと思う。

宮台氏は、上の言葉の前に「今述べてきたような「丸山真男的なものの顛末」を知り、その理由を考察してきた者にとって」という言葉を語っている。つまり、バックラッシュの合理性は、「丸山真男的なものの顛末」というものに、それを理解する鍵があるということだ。これは果たしてどのようなものなのだろうか。宮台氏の言うところを考えてみよう。

丸山真男というのは、宮台氏も高く評価している知識人で、「インテリの頂点だった」と語っている。そして、戦後まもなくは啓蒙的な活動に力を入れていた人で、その影響が大きなものになっていれば、世の中はもっと論理的な整合性が確立するような社会になっていただろうと思われている。だが、丸山真男の優れた能力にもかかわらずその影響力は微小なものにとどまり、むしろ反丸山とでも言うべき攻撃(ある意味でバックラッシュと呼べるものだろうか)の方が効果が大きかったという歴史がある。これが「丸山真男的なものの顛末」と言えるものだろうか。

本来整合的な展開だったら、優れた人物の優れた言説が多くの共感を呼び、それが世論として形成されるという流れがまともなものだと考えたくなる。それが、何故日本社会では反対の結果に流れていくのだろうか。宮台氏は、丸山真男を攻撃する人物を「亜インテリ」と呼んでいるが、これは丸山真男に比べれば知的水準では遙かに劣る人々だ。

「亜インテリ」の人々が、インテリの頂点である丸山真男を攻撃したくなる合理性というのは、宮台氏の説明で良く理解出来る。「亜インテリ」というのは、宮台氏によると次のような特徴を持った人々だ。


「亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、あるいはアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者、ということになります。」


この定義を自ら認めて、自分が「亜インテリ」だと自覚する人は少ないだろう。かなりのマイナスイメージを持った定義になっているからだ。だから、「亜インテリ」とは、自分では「亜インテリ」とは思っていないが、客観的なその位置によって「亜インテリ」となってしまう人と言えると思う。そのような人々は、自分の能力を棚に上げて、自分は「煮え湯を飲まされる」存在だと感じている。不当に不遇な状況にいるというわけだ。

この「亜インテリ」にとっては丸山真男のように、実際に頂点に立つ存在は、自分とはあまり変わらないのに不当に高く評価されているように見える。この嫉妬にも似た感情が攻撃性を誘発してバックラッシュが起きるというのは合理的に理解出来ることだ。

「亜インテリ」と丸山真男のような頂点の存在の知的水準の違いは明らかだから、「亜インテリ」が丸山真男に代わって知的な世界で頂点に立つことは出来ない。「だからこそ、ウダツの上がらぬ知的階層の底辺は、横にずれて政治権力や経済権力と手を結ぼうとするというわけです」と宮台氏は語っている。逆に言えば、インテリの頂点は、学問的な水準は高いが、政治的に振る舞う能力は低い。そこで、政治的にはインテリの頂点が負けると言うことがしばしば起こるのだろう。

これに対して宮台氏は、「ようは、文化資本から見放された田吾作たちが、代替的な地位獲得を目指して政治権力や経済権力と結託し、リベラル・バッシングによってアカデミック・ハイラーキーの頂点を叩くという図式です」とまとめている。「亜インテリ」たちは、このような形でインテリの頂点を叩くことで溜飲を下げるというわけだ。

「亜インテリ」のバックラッシュをしたくなる心理として、この宮台氏の説明は非常に説得力がある整合的なものに感じる。その行為そのものは不当であっても、その動機が生まれてくる論理的な流れというのは「想定出来る」合理的なものだと感じる。

「亜インテリ」にとっては、インテリの存在は現実的な自分の利害に関わっているので、このような心性が生まれてくるのも外から見ていれば理解出来る。だから、外から見ている一般大衆としては、「亜インテリ」の行為の不当性を判断して真のインテリをリスペクト(尊敬)する気持ちを持てば、世論の方は「亜インテリ」に惑わされることはなくなるだろう。だが、日本社会では、世論の方も「亜インテリ」の方にくっついていく傾向を持っている。

これは「日本的現象でもあります」と宮台氏は指摘している。「日本では欧州にあるような意味での知識人へのリスペクトが存在しないのです」とその理由も語っている。知識人へのリスペクトが存在すれば、たとえ「亜インテリ」が攻撃を仕掛けたとしても、攻撃されている知識人が、真に知的に優れているかどうかを判断して、その攻撃の正当性を考えることが出来るだろう。だが、政治的に力を持って、宣伝力の大きい「亜インテリ」だった場合は、その宣伝で不当な攻撃を正当化してしまうこともあるかも知れない。

日本では、「亜インテリ」の攻撃を真に受けて、真の知識人が見分けられない傾向にあるのはなぜなのかについて、宮台氏は次のように語っている。


「単純化すれば、日本では「知識人も大衆もみんな同じ田吾作だ」と誰もが思っています。維新以降の「一君万民論」図式に基づく統治も理由の一つですが、さらに遡れば江戸時代における「士農工商」図式に基づく統治も理由の一つになります。「士農工商」図式の特徴は、身分の高いはずの武士の大半には財力も文化的享受機会もなく、身分の最下であるはずの商人の一部に財力や文化的享受機会があるという「地位非一貫性」です。」


知識人も大衆もみんな同じだと思えば、真の知識人と「亜インテリ」の区別もつかないだろう。そうなれば、大量宣伝が出来る人間の方が正しいという世論が生まれてきそうな感じがする。

真に優れた人たちと一般大衆は違うのだという認識は、例えばスポーツの世界などではそのようなものがあるのではないだろうか。イチローや松坂は特別の素質と才能を持ったスポーツマンであって、その他大勢の普通の人間とはまったく違うのだというのは、多くの人がそう感じているのではないだろうか。努力さえすればイチローや松坂になれると思う人は少ないと思う。

それが学問の世界においては、なぜ「みんな同じだ」という見方になってしまうのだろうか。真の知識人と「亜インテリ」の間には天と地ほどの開きがあると、僕などは思うのだが一般にはそう思われていないのだろうか。宮台氏があげているいくつかの理由で、そう思われなくなっているということがあるだろうが、僕は、それに付け加えて教育の問題も大きいのではないかと感じる。

日本の教育における評価というのは、真に優れた思考能力がある人間を評価するようにはなっていない。むしろつまらない機械的な暗記能力が優れている人間が高く評価されているという思いが誰にもあるのではないだろうか。だから、高く評価されている人間も、他のものを捨てて勉強に取り組んでいるだけであって、能力としては「みんな同じだ」という思いがどこかに生まれるのではないだろうか。

スポーツなどでは、実際に強い人間が高い能力を持つと評価されるので、評価と才能の間の乖離が少ないだろう。学問(勉強)においては、そのような客観的な評価がなされていない。それが、「みんな同じだ」という田吾作感覚に流れるのではないかと感じる。本当に面白い学問(勉強)をするという経験があれば、誰が優れているのかというセンスはだんだんと身に付いてくるのだが、勉強は我慢してやるものだというイメージがあると、それで評価されたとしても大したことは無いという感覚にもなるだろう。

田吾作感覚というものがバックラッシュの底にあることは確かだろうと思う。この田吾作感覚が、どのように間違った主張の宣伝に乗せられて世論形成されていくかというメカニズムについて今度は考えてみたいと思う。バックラッシュを仕掛ける側は、この田吾作感覚を宣伝に乗せていく技術においては長けているのではないかと思う。日本社会で教育を受けて成長した我々一般大衆は、多かれ少なかれ田吾作感覚を引きずっているはずだから、これに意識的に注意を向けないと、容易に宣伝に乗せられてしまうのではないかと思う。小泉さんの非論理的な言い方が結果的には効果的な宣伝であったということを忘れてはいけないのではないかと思う。
by ksyuumei | 2006-12-03 11:24 | 雑文


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