三浦つとむさんがマルクスについて語った部分だっただろうか、抽象的思考の上り下りというようなことを言っていた。上りというのは、具体的な対象からある属性を抽き出し他の属性を捨てる(捨象)ことを意味する。抽象とは同時に捨象であるということを新たな発見として感じたものだった。本質を抽象し、抹消を捨象することで対象を深く捉えるということが出来ると思ったものだ。
下りというのは、一度抽象した概念を、今度は具体的対象に適用してみることを意味する。ソシュール的な発想で言うと、現実を言語によって切り取るという理解になるだろうか。このような上り下りを繰り返すことによって、我々は世界の理解を深めていくのだというのが思考というものの本質ではないかと思われる。 三浦さんの言語学では、言語というのは対象の概念を表現するもので、語彙としてはその内容は概念という抽象的なものを指す。しかし、現実の言語の利用においては、目の前の具体的対象が、その概念の範囲に入っていると言うことから、それを呼ぶのにある言語を適用するという、抽象からの下りの現象が見られる。言語を実際に使用することが出来るというのは、それが抽象の上り下りの能力を持っていると言うことを示しているだろう。 仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、科学を理解する前提条件として言語の理解が出来るということをあげていた。それは、三浦さんと同様に、言語を使うと言うことの中に抽象の上り下りを見ていたのだろうと思う。抽象過程の上り下りを経て理解すると言うことが、科学の理解の本質になるのだろうと思う。 通常の言語を理解するという段階が、抽象の上り下りのもっとも初歩的な段階だとするなら、ある理論体系の全体像を把握して、それを現実に応用出来るという段階は、最も高いレベルの抽象の上り下りになるだろう。初歩の段階から、高いレベルへと発展していく学習の過程というものを解明したいと思うものだ。 三浦つとむさんの言語学における抽象の上り下りは、言語とは何かという言語本質論において見られるのではないかと思う。現実には「言語現象」と呼ばれるものがたくさん見られると思う。これは、具体的なある言語、日本語なら日本語を使っている場面というのが現実にはたくさん見つかって、抽象として抽き出す対象になるものはたくさんある。 この現実の言語現象から、何を捨てて何を抽き出すかが抽象の上り下りの過程になる。三浦さんが抽き出したものは「表現」と呼ばれる属性を持っているものだった。つまり、心の状態を表に現すものとして言語を捉えた。それは表に現れるという属性を持たなければ言語ではないという抽象だった。これはほとんど大部分の言語現象に当てはまるので、抽象としては妥当なものだっただろう。 言語=表現としてしまうと、言語でない表現との区別がつかなくなるので、言語として抽出するもう一つの属性を、三浦さんは、表に現れる何かを「概念」として抽出した。言語表現は、概念と対応してそれを表現しているときに、他の表現と区別されて言語だと判断される。また、社会的な存在である言語規範との対応も、言語であるかないかを決定する大事な抽象になった。 この言語本質論から考えると、音声や文字という属性は、言語本質論においては捨象されている。それが音声で表現されていても、文字で表現されていても言語としては変わらないと言う判断をするからだ。それはどちらも概念を表現しているという点では同じものだと判断をする。それらの違いは、言語の中の違いとして考察される。 一度このように抽象への上りが行われると、今度はこの抽象概念を使って、現実の現象を「言語であるかないか」という判断に適用するという下りの段階がやってくる。言語現象として見られる現実の対象の中の、どの部分が言語なのかという判断を、抽象の適用として考える段階だ。 オウムや九官鳥が人間の言葉を真似る現象は、オウムや九官鳥に概念としての認識があり、それを表現していると判断されれば言語だと認められる。これは、100%断定するのは難しいかも知れないが、多分三浦さんが定義する意味での言語ではない。言語という言葉を抽象によって定義することで、この現象が言語であるかないかという判断が行われる。そこまで深く考えなければ、日常用語的にはこの現象を、「オウムや九官鳥が言葉をしゃべっている」と捉えるだろう。 人間が言葉を使うときに、社会的な規範である言語規範を使って表現するという言語現象も平凡に見られるものだ。言語規範の存在は、それがなければ、個人が使っている言語の意味が確定せず、社会的なコミュニケーションが行えないと言うことから、その存在が前提されなければならないと言うことが導かれる。 これは頭の中にある実体のない存在なので、それを直接取り出して観察することは出来ない。ある言葉の意味を説明出来るという、語彙を知っていると言うことからその存在が類推されるものだ。これは、三浦さんの抽象からすると、頭の中に存在はするが、表には出てきていない存在だから、言語ではないということになる。 しかしソシュール的な発想では、これこそが言語と呼ばれる対象であると語られているようだ。三浦さんの抽象過程から作られる理論においては、このソシュール的な判断は間違いだ。しかし、抽象過程が違っていれば、言語が持つ条件にも違いが生まれ、ソシュール的なとらえ方が妥当だという理論体系が生まれる可能性もあるのではないだろうか。 ソシュールは、言語という対象を捉えるに際して、何を抽き出し何を捨象したのだろうか。その抽象の上りの過程は、論理的な妥当性を持っている過程なのだろうか。三浦さんが、言語を表現だとした抽象は、コミュニケーションの実際の場面で使われている言語という面を抽象していくと、そのような結論が得られる可能性が理解出来る。言語はコミュニケーションの道具だという点を抽象していけばいいのだと思われる。 逆に言うと、言語がコミュニケーションの場面で使われているという実際の言語現象を捨象しなければ、言語の表現の面を捨てることが出来ないのではないかと思う。ソシュールは、実際の言語が使われる場面を考察の対象から切り捨てたというように僕は理解しているのだが、この捨象によって、表現ではない何かが言語として捉えられるという抽象がもたらされるのではないだろうか。 ソシュールが、コミュニケーションにおける言語活動を切り捨てたのは、そこにはランダムな要素が含まれすぎており、理論的な対象にするための抽象がしにくいと判断したのではないかと思われる。例外だらけの現象は、法則性を考察することが出来なくなるからだ。確固とした抽象が出来る対象として言語規範の方を選び、それが言語学の対象であると考えたので、それを自らの言語理論においては「言語」だと規定したというのが、ソシュール的な発想での抽象の上りではないだろうか。 三浦さんの言語理論の前提を正しいものと認めれば、ソシュールが言語規範を言語と呼んだのは間違いだと言えるだろう。しかし、三浦さんの前提がない状態でソシュールの抽象を考えた場合、それを間違いだと言えるだろうか。これは定義の違いであり、本を正せば抽象の過程の違いであり、両立しうるものではないだろうか。 宮台真司氏は「連載第四回:秩序とは何か?」の中で「複雑性」という言葉の定義について語っている。それは「与えられたマクロ状態に含まれる、ミクロ状態によって区別さた場合の数を、「複雑性」と呼びます」と語られている。たいへん抽象的な言い方なのでこの理解はなかなか難しい。 感覚的には、ありふれた現象の場合には「複雑性が高い」と判断される。それに対して場合の数が少なく、確率的に低いと判断される、あまり起こらないと言う現象は「複雑性が低い」と判断される。秩序というのは、「複雑性が低い」状態を指すのだが、これは、普通放っておいたらなかなか起こらないような状態が実現しているので、「秩序がある」と感覚される現実と良く一致する。 この「複雑性」については、宮台氏は「お分かりのように、複雑性概念は日常的語感とは正反対です」と語っている。我々は、日常的な語感としては、ありふれたものは単純で複雑ではないという感覚を持っている。しかし、場合の数が「多い少ない」に対応して、複雑性が「高い低い」を考えた方が、抽象理論の展開においては論理的な整合性を取りやすいと思われる。それで、あえて日常的感覚とは反対の定義をするということになる。 この定義に対して、日常的感覚に反しているからこれは間違いだと言うことは主張出来ない。もしそのような主張をするなら、それは抽象理論というものへの無理解を表明しているようなものになるだろう。 言葉の定義というのは、ある範囲内ではかなり恣意的に行うことが出来る。だが、それは無条件に恣意的ではない。その定義をすることで何らかの全体像把握に役立つと言うことがなければ、やがてそのような恣意性を持った定義は捨てられてしまうだろう。隠語のようなものでさえ、ある狭い世界の中で長く生き残るのは、その言葉が普通の言葉の使い方と違っていても、その狭い世界を理解するのにはふさわしいと思われるから生き残るのだろうと思う。 ソシュール的な言語の定義は、多くの優れた学者によって引き継がれ発展してきている。この定義は、どのような面でもっとも役立っているのかというのが今の僕の関心だ。抽象の過程を上っていくとき、ソシュールは何をもっとも解明したいと思ってその抽象を行ったのだろうか。 ウィキペディアの「フェルディナン・ド・ソシュール」の項目によれば、ソシュールは「言語の共時的な構造を重視したことで知られる。すなわち、言語の起源や歴史ではなく、ある一時点における言語の内的な構造が、言語を理解する鍵だと考えた」と記述されている。 この目的に役立つ抽象として、ソシュールの言語の規定があるのではないだろうか。ソシュールがこの問題を解明しているかどうかは僕には分からないが、この目的ならば、何が抽象されて何が捨象されているかを理解することが出来るのではないだろうか。 「共時的」と言うことが、個人的な体験が同じ時に起こると解釈すれば、そこから抽象されることは少ない。それは千差万別で個性の違いにあふれているだろう。現実のコミュニケーションの場面の考察は「共時的」というものの抽象にはふさわしくないのではないか。 「共時的」な場面で、個性の違いに左右されない、法則性を求められる対象としては、言語規範がもっともふさわしいと言えるのではないかと思う。それは社会的な対象として抽象出来れば、誰もが同じものを持つと言ってもいい。個性の違いは捨象される。 ソシュールの抽象は、論理的な整合性のあるものとして理解出来るのではないかと思う。その抽象が、目的にかなったもので、理論の構築に成功しているかとは別に、抽象の過程としては納得出来るのではないかと思う。理論の構築に成功しているかどうかは、その抽象が下りてきて現実に適用されたときに、現実に妥当性を持った解釈として受け止められるかどうかではないかと思う。 抽象の上り下りを考えることは、その抽象理論の理解に役立つと思う。学習の技術として考察に値するのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2006-10-23 10:14
| 論理
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