沈思黙考さんから、「ウィトゲンシュタインの「世界」」へのコメントで、大変興味深いものをいただいた。とても短い文章のコメント欄では答えられないくらい多くの内容を含んでいるものなので、新たなエントリーで自分の考えをまとめておきたいと思った。沈思黙考さんが自分のブログを持っていたら、そこで是非まとまった主張を論じてもらいたいものだと思う。彼の主張の内容も、正確に伝えるには、コメント欄では難しいだろうと思う。
このコメントが興味深いと思ったのは、「超越」というものをどう受け止めるかで世界の枠組みが違ってくると僕が感じているからだ。そのようなことを強く意識させられるものとして上祐氏の宗教的な人格陶冶というものを知ったこともある。様々な出来事や抽象的理論が「超越」というキーワードでつながってくる不思議な一致を見たことが、このコメントに関心を引かれた原因ではないかと感じる。 コメントで触れている事柄は多岐に渡っているので、まずは「超越」ということに絡んで、それを象徴する「神」という考え方と、論理の関係について考察してみようと思う。上祐氏の宗教観というものを知って、僕は論理的に信仰を築きうるのではないかということも感じ始めている。信仰というのは、非論理的に、まず信じることから始めるというイメージを今までは持っていたが、論理的な帰結として信じることが最後に確認出来るという形の信仰もあり得るのではないかと今はぼんやりと感じている。 沈思黙考さんは、世界を「内在」と「超越」に分けて理解する考え方として、「超越論哲学」というものに言及している。これを論理的に考えるなら、「内在」とは我々が知りうる経験によって構成される世界ということになる。これは、個人の特定の「内在」というものにはいろいろなでこぼこがあるだろうが、人類一般の体験としての「内在」という抽象化をすることで、人間の知りうる世界全てという概念を作ることが出来るだろう。 そして、「超越」とは、その世界を越えているという意味で「超越」というとらえ方をするのだろうと思われる。だから、「超越」とは、「超越」という名詞で呼ぶことが出来るものの、その言葉の内容は語ることが出来ない。それは人間にとっては経験の範囲を超えているのだから、ある意味では想像も出来ない世界へ踏み込むことになる。想像というのは、経験を加工して行うものであるから、経験をしていないことは想像も出来ないだろうと思う。 論理的には、「超越」という対象は、その概念を作ることは出来るが、その内容は決して知り得ないものという対象になるだろう。これは、まさに抽象の究極としての「神」に重なるような対象になる感じがする。 「超越」という対象が語り得ないものであるというのは、「超越」という言葉の概念から論理的に帰結されるように僕は感じる。それは、「内在」ではないということから、人間にとっては経験出来ないものであり、捉えられないものなのであるから、それについては内容は何も語ることは出来ない。従ってその実在に関しても、そのことについては何も言えないので、信じるか信じないかという問題になってくるだろう。 「超越」が語り得ないものであるから、それに対しては哲学は沈黙すべきだということなら、ウィトゲンシュタインの言説をそのように解釈すれば、それはごく当たり前のことを語っているように感じる。しかし、この言説だけであるなら、何も哲学的な考察は必要ない。簡単な形式論理の適用さえ出来ればすぐに分かる。難しいのは、ある対象の考察をしているときに、それがどこかで「超越」の領域に踏み込んでしまっているかどうかということを具体的に判断することではないだろうか。 見かけは「超越」を考察しているように見えても、実際には「超越」の概念を象徴するような「内在」を対象にしている場合は多いだろう。キリスト教的な「神」を考察しているように見えても、実は「神」を象徴するようなイエスや奇跡の数々を考察していると言える場合は多いのではないかと思う。「超越」そのものを考察することは人間には不可能だというのが論理的な帰結ではないかと思う。 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』が解明しているのは、「超越」が何かということではなく、人間の思考においては、思考するということそのものが対象を「内在」にしているという構造を持っているのだということではないかと僕は感じる。ある対象を思考の対象にしたとき、それはその時点ですでに「内在」としての属性を持たざるを得ない対象になっているのだという構造を、人間の思考というものが持っているのではないかと思う。 それでは「超越」というのは、無用の長物としてよけいなものだと言っていいものだろうか。何の役にも立たない、人間の思考を迷わせるだけの誤謬と言っていいものだろうか。沈思黙考さんのコメントを読むと、デカルト的懐疑を究極にまで押し進めると、「超越」は無用の長物になり、確かなことは何もないという「懐疑論」に陥ってしまうことになるのではないかと思われる。 「内在」の世界での経験はどこまでも疑いを差し挟むことが出来る。究極的には、人間には認識出来ない「超越」である「神」が、人間が認識しようとするときに必ず間違った認識をするように設定していたら、その間違いを間違いと認識することは人間には出来なくなる。「懐疑論」においては、人間の認識の真理性は証明し得ないものになってしまう。 デカルトは、このような懐疑論を、「神はそのような不完全なことはしない」という信仰で乗り越えたように感じる。神は、そのようなことも出来るという、神にとっては出来ないことはないという完全性を持っているが、わざわざそのようなことをする必要がないという、神は「内在」の世界の調和を望んでいるというような信仰で、懐疑論の落とし穴に落ち込むのを防いでいるように感じた。 「内在」世界の中の論理だけで、「内在」の真理性を証明することが出来ないと言うのは、数学において具体的な理論である数論の範囲内で数論そのものの正しさを証明出来ないという、ゲーデルの不完全性定理に似たような構造を感じる。 「内在」世界の真理性を証明出来ないとき、懐疑論に陥って全ては不確かだと絶望するのか、何らかの信頼を保つたために「超越」を利用するかという思考の方向が存在するような感じがする。「超越」の利用を信仰と呼ぶならば、人間にとって信仰というのは、弱い人間がすがりつく依存と言うだけではない、何か本質的な、人間が人間であるために必要な何かが含まれているのではないかと言うことを今は感じている。 「内在」世界の真理性が、「内在」世界の中では証明し得ないという問題は、「新聞社説に見る「日の丸・君が代強制」に関する考え方」へのコメントで紹介されている『涼宮ハルヒの憂鬱』という若者向けの小説にも同じようなテーマが書かれていた。このコメントは、「通りすがり」という名前であればはじかれていたところだったが、ちょっと名前が違っていたので反映することが出来た。書かれている内容には問題がないので、書き込むときの名前をもっと当たり障りのないものにしてくれればと思う。 これは若者向けの小説ではあるが、その面白さは僕にも分かった。エンタテインメントとしてはなかなか優れているのではないかと思った。若者向けの文学賞で大賞を受賞するのも理解出来るという感じがした。論理的な興味としては、「内在」世界の正しさを「内在」世界で証明する論理がないということを主張しているように感じて、そこに面白さを感じた。 映画「マトリックス」でもそうなのだが、「内在」世界が、確かに存在しているリアルな世界であるという証拠は、「内在」世界の中だけにいるのでは確かなことは何も言えなくなる。マトリックスの世界がマトリックスであると知っているのは、マトリックスの世界の外に出られる人間だけだ。その世界を越えて外に出ることが出来れば、「内在」世界が本当にある世界なのかどうかが分かる。 『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説では、世界が3年前に生まれたかも知れないと言うことが語られる。これは、「内在」世界の論理では否定出来ないと言うことが語られる。現実には、そのような荒唐無稽なことが言われたら、ほとんどの人はバカげた考えだと思うだろう。 しかし、論理として考えた場合はどうだろうか。世界が3年前に作られたのであれば、それ以前の記憶があるのは矛盾ではないかという指摘があるだろう。だが、それ以前の記憶というのは、マトリックスのように、あらかじめ作られた記憶としてインプットされただけで、実在はしていないがそういう観念を持たされていると考えることも出来る。それは荒唐無稽なことではあるが、論理的なつじつまを合わせることは出来る。 論理というのは、実はつじつまを合わせることが出来るだけであって、そこで語られている命題そのものの正しさについては何も語れないのだと言うことを深く知る必要があるだろう。論理にそのような限界があるとき、命題そのものの正しさ、「内在」世界の記述の正しさを確信させてくれるものはいったい何になるのだろうか。 それが「超越」という枠組みなのだというのが、沈思黙考さんがコメントで説明していることなのではないだろうか。『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説では、涼宮ハルヒという主人公が神であるという枠組みが、世界が3年前に創造されたと言うことの真理性の根拠になっている。この「超越」があるがゆえ「内在」の存在の真理性が保障される。 実際には、常識的な考え方としては、世界が3年前に創造されたと考えることは、あらゆる「内在」的存在との関連で、その必然性があるかどうかということで信じられるかどうかが決まるだろう。3年前に創造されることにどんな意味があるのかということだ。それが3年前である必然性はない。3年前に創造されたということが正しいと考えることも出来るが、同じような論理でそれは10分前だっていいはずだし、1億年前だっていいはずだ。 それは確率的にランダムにどれでもいいことになってしまう。どれでもいいことは、我々の「信仰(確信)」の対象にはならない。つまり、「超越」としての枠組みにはふさわしくない。だが人間は真理の認識において、枠組みとしての「超越」を必要としているような感じがする。しかし、その「超越」は、どのような「超越」が真理にふさわしいものであるかは確定出来ない。それを人間はどのように解決してきたのだろうか。宗教と哲学の歴史はそれを教えてくれるだろう。 ウィトゲンシュタイン、上祐氏の宗教観、『涼宮ハルヒの憂鬱』と、この3つのランダムに登場した対象が、僕の中の「超越」という見方と全てつながってきたというのは不思議な現象だと思う。これも「超越」の作用なのだろうか。これが宗教的体験になり、信仰に目覚めると言うこともあるのかも知れない。僕の場合の信仰の対象の「超越」は、具体的などこかにいる「内在」的な「神」ではなく、あくまでも究極の抽象としての語り得ない「超越」になるだろうとは思うが。
by ksyuumei
| 2006-10-21 10:04
| 論理
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