「思想・良心の自由」というものをひどく勘違いして理解している人がいるような気がする。「思想」と「良心」というものを、辞書的に解釈すると平たく言えば次のようなものになる。
・「思想」=「心に思い浮かべること・考えること・考え」 ・「良心」=「善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き」 「思想」の方は、哲学的なものになれば、もう少しまとまった体系的なものになるが、要するにどちらも心の問題であって、人間の内面の問題である。それが直接的な行動に結びつかない限りでは他人に迷惑をかける種類のものではない。 これらが自由を保障されなければならないということは、心に思うだけなら、その思ったことに対する責任は生じないと言うことなのである。責任は、具体的な行動とその結果としての事実に対して発生するのである。 この自由を勘違いする人たちの中には、「間違った思想」や「間違った良心」は持ってならないと考える人がいるようだ。戦争中に弾圧された共産主義思想などは、このように解釈された「間違った思想」だったのだろうと思う。本来の「思想・良心の自由」というのは、その「思想」や「良心」がたとえ間違ったものであろうとも、思うだけなら自由だという考えから保障されているのである。 自分から見て間違ったと思うしかないような言説を見ると何かむかつく気分になることは分かる。しかし、それは思うだけなら自由であり、言論として発表するだけなら全くの自由なのである。それが具体的な行動に結びつくときに、その内容の間違いというものが影響を与えてくるのである。 言説の間違いというのは簡単に判断出来るものではない。人間は罪深い生き物であり、全てが滅んだ方がいいという思想が間違ったものであるかは簡単には分からない。宗教的な終末思想というのは、そのような考えを抱くことが多い。これが間違いであるなら、宗教の多くは間違った思想だと言うことになってしまうだろう。 この思想に対しては間違っているかどうか分からない。だから、正しければそれを認める・間違っていればそれを認めない、などとすればそれを認めるかどうかは決定出来なくなる。全ての思想に対して是非を判断することなど出来ないのだ。だから、心に思うだけで、まだ実害を出していないのであれば、それは、たとえ何を思おうとも自由だとすることが正しいのである。 この心の自由を侵害すると言うことは、心に思う選択肢を認めないと言うことである。ある物事を考えるときに、一つの結論しか認めず、他の考えを選択させないとしたら、それは意志の自由を剥奪したことになる。日の丸・君が代の強制を指示した都教委の通達が、このような選択肢を認めない、自由を侵すものであったかどうかが、「思想・良心の自由」を侵害するかどうかの判断で大きく関わってくるものになるだろう。 日の丸・君が代に対して、どのような思想を持とうと、それは思うだけなら自由である。それを、「侵略戦争のシンボルとして、忌まわしい軍国主義を象徴するものとして理解する」のも、思想の自由においては十分あり得る受け止め方である。逆に言えば、「日本の国の象徴として敬意を示す対象である」と考えるのも、思想の自由から十分あり得る考え方である。 問題は、どちらか一方の思想だけしか許さないとすれば、これは思想の弾圧になるのだと思う。自由を侵害することになる。戦争中に共産主義が弾圧されたのは、その考えを持っただけで罪に問われたのだから、これは正真正銘の弾圧であり思想の自由の侵害であると思う。都教委の通達においてはどうだろうか。 教員自身が、日の丸・君が代に対して戦争の記憶を想起して、それが侵略戦争のシンボルだと考えること自体を弾圧するものになっているだろうか。それはさすがにないようだ。今は軍国主義の時代ではないから、本当はそうしたかったかも知れないが、あからさまにはそうはできない。つまり、思想そのものは弾圧の対象になっていない。 しかし、判決では「思想・良心の自由」の侵害だと語っている。これは、「思想」から生まれる「良心」に従った行動において自由を奪ったと判断しているのだと僕は思う。日の丸・君が代が侵略戦争のシンボルだと思えば、それを賛美するような行動は、「良心」から来る善悪の判断による行動からは拒否せざるを得ないと考える人間がいても仕方がない。この拒否の行動は、「良心の自由」の範囲内であると裁判官は判断したのだろうと思う。 しかし、通達では、拒否の行動を認めていない。拒否をした教員には処分を科すことが結果的に行われている。「思想」から生まれた「良心」によって拒否の行動を示すことを認めなかったことが、「思想・良心の自由」を侵害したことになると判断されたのだろうと思う。 歌わない・礼をしないということは、「良心」を表現する行動だと考えられる。これは、侵略戦争のシンボルとしての日の丸・君が代という思想の下にそうなるのであって、一般的に「歌わない」「礼をしない」と言うことが「良心」の表現であるといっているのではない。論理に慣れていない人は勘違いするかも知れないので、ここで断っておく。 そのような行動が実質的な被害をもたらしていないと言う判断が、「掲揚や斉唱に反対する教職員の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する」ということにつながっているのだろう。もし、拒否することが処分に値するのなら、それは実質的に教育において害悪がもたらされたと言うことが証明されなければならないだろう。 人間が何を思っているかという、心の内面で裁くことは出来ないのだ。責任というのは、その行動において実際に現れてくる実害について問われなければならない。心に思う内面で裁くような処分は、憲法に保障されている「思想・良心の自由」を侵害するのである。 なお「思想・良心の自由」は憲法で保障されているものであるが、憲法というのは、国家権力に対する制約として設定されているものである。だから、これで違反が問えるのは、基本的には国家権力に対してであると考えられる。東京都教委は、直接的には国家の機関ではないけれど、地方に移譲された国家権力の一部を担う機関として、憲法違反が問われたのではないかと考えられる。 大臣の発言などが時に憲法違反を問われるのは、大臣は国家権力を個人で体現する存在と考えられているからではないかと思う。いずれにしても憲法違反を問える対象は国家権力以外にはない。国家権力という公的な対象ではない、私的な対象が行っているように見える憲法違反的な行動に対してはどのようなことになるだろうか。 それはそのような行動をしている私的対象を取り締まる法律の制定を国家の義務として科すると言うことで憲法が関わってくる。国家は憲法を守るために法律を整備しなければならないのである。mechaさんが語っていた、不当解雇を許さない労働基準法などは、そのような憲法の意思を守るための法律なのではないかと思う。 この問題に直接関わっているものではないが、夫婦別姓の問題も、基本的人権として保障された「自由の権利」と関わる考え方が出来ないだろうかと思う。夫婦別姓の問題は、究極的には、そのような要求が個人の権利として許されるものであるかどうかという問題になってくるのではないだろうか。いくら制度変更が難しかろうと、今よりコストがかかるようになろうと、個人の権利として保障されるべきだと判断されれば、法律は改正されなければならないだろう。 夫婦別姓の問題は、心に思うだけのものではなく、実質的な制度改革を伴うものである。だから、その制度改革が、どのような弊害をもたらすかと言うことで、正当な権利として認められるかどうかが判断されるのではないだろうか。「他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する」という判断がされれば、むしろ「選択的夫婦別姓」という法律を制定することこそが、憲法の意思を実現することになるのではないかと思う。考えてみたいことだ。
by ksyuumei
| 2006-10-07 18:59
| 雑文
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