三浦つとむさんは『言語学と記号学』(勁草書房)の中で「「差別語」の理論的解明へ」という論文で、文脈を理解することの重要性を語っている。これは、三浦さんの言語学からすれば当然の主張ではないかとも感じる。
「差別語」であるかどうかを判断するのは、その形式である文字の形で判断するのではなく、語の内容である意味から判断すべきである。同じ形式を持った言葉が、ある時は「差別語」になり、ある時は「差別語」にならないと言うことがあり得る。これを、いつでも同じ形を持った語が「差別語」になると考えてしまえば、それは形式論理になり、現実の言語活動をそれで理解すると間違いになる。 三浦さんの言う「意味」は、言葉そのものに張り付いている実体ではなく、その言葉が表現する対象と、表現者の認識の間に関係づけられているものとして存在している。だから、関係が違えば意味が違うし、関係が違えば差別性も違ってくると言うのが、三浦さんの言語学からは論理的に出てくる結論だ。 三浦さんは、可能性としては全ての言語が、差別性と関係づけられる可能性を持っていると主張している。これは、言葉というものが、ある特定のもの(実体的な対象であることもあるし、観念的なものであることもあるし、抽象的なものであることもある)を他のものと区別するために使われるものなので、区別が差別につながる可能性が常にあると言うことから論理的に導かれる。 だから、ある文章に表れたある言葉が「差別語」であるかどうかは、それが書かれている文脈を読みとって、意味の関係づけを正確にした上で、差別性を持っているかどうかを判断しなければならない。文章の意味を読みとる上での文脈の重要性は、強調する必要があるだろう。 しかし、この文脈を読みとるというのは非常に難しい。書き手が間違って表現している場合もあるので、その間違いさえも正確に読みとる文脈理解が理想的ではあるのだが、その間違いも認識に間違いがあるのか、表現の技術に間違いがあるのかという区別もあって、それがまた難しい。 文章の書き手の方は、それが誰かの翻訳や伝達の文章でない限りでは、実際に自分で認識した具体的な対象について、自分の考察や思いなどを綴っている。これは、対象が具体的だけに、認識を間違えていたり、表現を間違えていたりした場合、その対象そのものが分かれば間違いも理解しやすい。だが、誰かが書いた文章についてその内容を云々するときは、対象が実際の存在ではなく、文章で表現されたものから生まれるイメージになるので、考察がメタ的なものになる。 現実の対象ではない、メタ的なイメージが対象になった場合は、最近考察しているような、語彙(言語規範)の違いによる「意味のずれ」が文脈の理解にも影響してくるだろう。本来は文章を言葉として理解するのではなく、そこに書かれた内容を具体的にイメージして理解する必要があるのだが、これを2段階に渡って行うことを意識するのは難しそうだ。たいていの人はそれを忘れて、言葉の意味として知っていることは、その語彙の意味の方を受け取って文章を理解したようなつもりになってしまうだろう。 三浦さんの言語学は、辞書的な意味ではなく、現実の関係性としての意味の方が重要だと言うことを教えてくれるのだが、いつもいつもそれが出来るような感じがしない。頭にイメージが浮かんでこない言葉の時は、仕方がないので辞書を引いて、辞書のイメージでとりあえずすますと言うことをしてしまうだろう。それは、辞書のイメージであって、本当のイメージではないと言うことを最後まで意識していなければならない、と言うことが三浦さんの言語学が教えてくれることだと思う。このことは、しばしば忘れてしまうことに気をつけなければならないが。 このようなことがあるから、同じ文章を2度、3度と読むうちに、だんだんと理解が深まっていくと言うこともあるのだろうと思う。最初は、曖昧だったイメージが、だんだんと作者が見ているものに近づいていけば、それは正しい理解に近づいていっているのだと思う。 逆に言うと、この語彙理解の段階で、意味がかぶっていないのに、その意味だと思って文章を読んでいれば、間違いはいつまでも気づかれないままになるだろう。この間違いを強く意識して、間違いを訂正する技術を身につけるには、語の意味がかぶっていたり、かぶっていなかったりする言語規範の違いを意識することが有効なのではないかと思う。それに注目するような発想を、僕はソシュール的だと思っているのだが、これは役に立つ発想ではないかと思う。 三浦さんは、誤謬論についても、人間の認識は間違いうるものである、つまり誰でも間違える可能性から逃れられないと言うことを論理的に示した。それは、人間の認識が、時間的・空間的・能力的に限界を持っているものであるのに、対象である世界は、無限に豊かな多様性を持っていると言うことから帰結されるものだ。 人間は生きている時間が制約されている。生活している空間も制約されている。視覚・聴覚・触覚などの感覚器官の能力も制約されている。捉えきれない対象がたくさんある。しかし、生きていくときに、それらの捉えにくい対象でも考察の範囲に入れなければならないときもある。限界を超える必要がある。その限界を超えるときは、いつでも判断を取り違える可能性というものがある。人間にとって誤謬は本質的に逃れることの出来ないものなのだ。 文脈理解というのも常に間違える可能性があるものだ。だから、間違えたときに、それに早く気づき修正出来る技術を身につけることは大事なことだ。また、人間は間違えることが本質だとすれば、公にされた文章を誤読されることは、覚悟しておかなければならない本質だと言うことにもなるだろう。自分が意図していなかった意味を読みとられたときも、これは人間の認識の本質であると理解しなければならないだろう。もちろん表現を間違えているときもあるのだが、どちらが間違えているかは、なかなか決定が難しいから、間違えて受け取られることはあらかじめ覚悟しておいた方が心的な免疫性が高くなるだろう。 同じ対象を同じ視点から見ている人からは誤読されることは少ない。論理的に判断すれば、たいてい同じ結論に達するからだ。しかも面白いことに、そのように視点が重なる人とは、使っている言葉の意味が同じ場合が多い。言語規範も重なるのでコミュニケーションがかなり正確に出来る。 しかし、違う視点から見ている人は、その視点から文脈を理解すればたいていは誤読してしまうだろう。視点が違うから、そこで使われている言葉が関係づけられている対象を見誤ることが多い。意味を取り違えることが多くなる。この意味の取り違いは文脈理解の違いから生まれる。また、困ったことに、視点が違う人は言語規範による意味のずれも大きいものがあるようだ。 視点の違う人と、お互いに語っていることを正確に理解し合うと言うことはかなりの困難を感じる。仲正昌樹さんが語る「言葉が通じない」という状態が生まれる。その状態は、かつてよりも今の方が多いのではないかと思う。かつては、コミュニケーションの土俵とも呼べるものがあったが、今は、土俵がなくなってしまったと語られる場合が多いようだ。 僕は、土俵の違いを埋めるものが論理ではないかと思っていたが、実は論理そのものが一つの土俵であった可能性が大きい。論理的な思考を重視する土俵と、感情を優先する土俵があるのかも知れない。宮台氏は、感情のロジックと呼んでいたが、僕が呼んでいるロジックと、違う意味でのロジックを持っている人もいるようだ。その土俵の違いは、論理では埋めきれないかも知れないと今は感じている。 視点の違う人間の視点を変えるような影響力を持つというのは大変難しい。だから、僕は誰かの考えを変えようと言う期待はもう持っていない。それは、何かとてつもない大きな出来事を経て変わるようなものだろうと思う。期待出来るのは、お互いに違う視点を持っていると言うことを理解し合うことだと思っている。それが出来ればコミュニケーションとしては充分だろうと思っている。 誰かに影響を与えることを目的としているのでなければ、何を目的としてこうして文章を公開し続けるのだろうか。それは僕の場合は教育という観点からだ。自己教育と言えばいいだろうか。僕の目的は、優れた言説を見たときにそれを正確に理解するというものだ。特に、宮台真司氏の文章は難しいので、それが正確に理解出来ればとてもいいだろうと思っている。 文章に限らず、学習したことが正しく自分のものになっているかを見るには、それを他人に正確に説明出来たかどうかを見れば分かる。数学が本当に理解出来た生徒は、それを正しく他の生徒に教えることが出来る。ただ答が出せるだけの生徒は、答を出してみせることは出来るけれど、それを他の生徒に伝えることが出来ない。自分の言葉に直して、理論を構築し直すと言うことが出来ない。 僕は共感するような言説を目にしたときは、それをただ引用するだけではなく、自分の言葉でそれに解説を付けるようにしている。それは、解説を付けることで、気分的にそれを了解しているのではなく、論理的に理解していると言うことを確かめるためだ。 僕がある言説を了解した文章を書いたとき、同じように賛同してくれるコメントがあれば、自分の理解と表現が一応の正しさを持ったのだなと確認出来る。それが、僕が文章を公にすることの目的かも知れない。 もちろん賛同してくれないときや、僕が意図していないことまで読み込まれてしまうこともある。しかし、それは仕方のないことだと思う。その時は、自分の理解が足りないのか、表現が不十分なのか、相手の視点が全く僕とは違うのか、きっとどれかだろうと思う。その時は、また勉強し直して理解を深めたり、表現の手直しをしたり、違う視点を了解することで、自己学習の確認をしている。 違う視点を了解すると言うことは、その視点に賛成すると言うことではない。その視点を持って眺めると違う結論が出てくるということを了解することだ。僕は、宮台真司氏や内田樹さんと同じ視点で対象を眺めたいと思う。しかし、小泉さんや竹中さん・安倍さんと同じ視点で対象を眺めたいとは思わない。でも、その視点から見れば、小泉さんや竹中さん・安倍さんと同じ結論が出ると言うことは理解したいと思う。それを理解した上で、なおかつその視点には反対するという姿勢を持ちたいと思う。
by ksyuumei
| 2006-10-01 20:23
| 誤謬論
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