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言語の意味について

三浦つとむさんは、『日本語はどういう言語か』のなかで、言語の意味を関係として捉えて説明していた。言語にかかわらず表現というものは、形式と内容のずれ(矛盾)が存在する。同じ形式(外見=音声・文字の形など)であるにもかかわらず、それによって伝わるもの(内容)が違うという矛盾だ。同じ文章を読んでいるのに、まったく違う「意味」で読んでしまう人がいたりする。三浦さんは、これを形式と内容の対立物の統一として説明していた。

この矛盾はどのようにして解決するか。「同じ」と「違う」という正反対の性質が、そのまま無条件に成立すると考えると、これは形式論理に違反することになる。それは形式論理としてはあり得ないから、形式論理としての解決はどちらかを否定して矛盾を解消しなければならなくなる。その発想が、内容をある種の実体としてとらえる視点になる。内容を実体として固定してしまえば、ずれを読みとることが間違いだと言える。

内容を実体として捉えると、その実体は3つほど想像出来る。一つは表現を担う物質的存在である「物」という実体だ。言語の場合でいえば音声であったり文字がこれになる。彫刻や絵画であれば表現された物がそれに当たる。しかし、この発想は、表現された物と自然物との違いを示さない。表現されたものは、そのままでは伝わらない人間の頭の中にある「認識」と結びついていなければ、表現として機能しない。だから、これは「表現」の内容にはふさわしくないだろう。



そこで、単なる「物」ではなく、表現者の認識か、それを受け取る鑑賞者の認識が、表現の内容ではないかと言うことになる。この両者を内容と受け取れば、そのずれも説明出来るような気もする。この二つが違うものである可能性があるからだ。しかし、この場合は、何が正しい内容になるかということが決定出来なくなる。言語の場合でいえば誤読ということの判断が出来なくなる。どのように読もうとも、読み手の認識に意味を認められるとなったら、どんな勝手な読み方をしても正しいということになってしまう。

そこで、書き手の認識と、その認識をもたらした実体との結びつきで意味(内容)を考えるという発想が出てくる。これは、三浦さんが主張する言語過程説に近い発想だ。しかし、その中でもいろいろなバリエーションがあり、S・I・ハヤカワが主張する「内在的意味」と「外在的意味」という発想は、三浦さんが批判するものとなっている。

「内在的意味」とは、頭の中に存在する実体の方で、「外在的意味」とは人間の頭の中だけではなく、本当に物体として存在する実体の方である。三浦さんは、「内在的意味」の方を概念と同じだと説明している。これは、両方とも存在する場合があるし、「外在的意味」が存在しない、空想的な概念もある。

「お化け」や「天国」などは、「外在的意味」は存在しないと三浦さんは説明している。これに対しては、反対したい人もいるかも知れないが、「外在的意味」が存在するかどうかは、科学が解明するというふうに考えているのかも知れない。

これは、何とか論理的整合性が取れるように見えるが、三浦さんは次のような批判を展開する。実体と内容を結びつけて、「実体=内容」という発想をすると、その実体が消滅したあとに内容(意味)も消滅するかという問題が提起される。問題なのは、形式は残ったけれど、それの内容と考えられていた実体が消滅したときは、内容のない形式が残ったと論理的に捉えなければならないことだ。内容のない形式というのは果たして整合性があるのかどうか。

作家が死んだあとの文章というのは、内容として考えられた実体は残っているのだろうか。古典文学からその物語を読み取るとき、我々は内容を受け取っているのではないだろうか。もし実体そのものが内容だと考えるなら、長い年月を経て実体が残り続けていると考えなければならなくなる。論理的整合性を取るならそうならざるを得ない。魂の不滅のようなものを信じる必要が出てくるだろう。古典文学には、作者の魂が宿っているとでも考えなければならない。

論理的整合性を守ろうとすればそうならざるを得ないというのは、三浦さんが「論理的強制」と呼んだものになる。それが全く現実との整合性を失うようであれば、本当は論理を守るのではなく、前提を疑って、前提を捨てて論理を構築し直すことが必要なのではないかと思う。表現の内容は実体的なものであるとする前提を疑って、これを関係に見たのが三浦さんの発想だった。


「音声や文字には、その背景に存在した対象から認識への複雑な過程的構造が関係づけられているわけで、このようにして音声や文字の種類に結びつき固定された言語的な関係を、言語の「意味」と呼んでいるのです。」


と三浦さんは書いている。このように、言語を関係として捉えると、古典文学の意味も論理的に整合性を持って捉えられる。作者が死んだあとでも、残された文章は、作者が生きていた当時の存在との関係を保っている。この関係こそが内容(意味)だと考えるなら、それは作者の死後もなお失われずに残ることになる。魂という実体を想定する必要はないわけだ。

意味を関係性と捉えれば、内容のない形式というものに対しても論理的整合性を受け取ることが出来る。子どもが言葉を覚えるときに、オウム返しの状態を繰り返す時期がある。こちらが問いかけたことと同じ言葉を繰り返す時期だ。お菓子を見せて「食べる?」と問いかけると「食べる」と答え、「食べない?」と問いかけると「食べない」と答えるような時期がある。これは僕の個人的な経験なのだが、他の子どもでもそうだろうと思う。

このときの子どもの言葉には、言葉としての形式はあるが内容がないと僕は思う。子どもが食べたいと思ったときに「食べる」と表現しているのではないからだ。子どもの認識と表現の間につながりがない。関係が存在していないので、ここには意味がないと考えられる。子どもは、単に音声を発する訓練をしているのだと思う。

言語の意味を関係に見るという三浦さんのアイデアは、個別的な表現である言語の意味を正確に受け取るということを考える際に有効に働く。そこにある関係を正しく受け取り、目に見えない関係を構築し直すことによって言語の意味を正確に受け取ることが出来るようになる。

この観点から考えるなら、誤読というのは、関係の構築を間違えているということになる。関係のないものを関係あるものとして間違えたり、関係あるものを見落としたりして間違えることが誤読というものだ。このような見方が出来ると、誤読して間違えたのか、表現者の認識に間違いがあるのかを判断出来るようになる。

ある命題が正しいかどうかという判断をするときに、その命題を提出した表現者が、認識において間違えている場合がある。それは、その命題で語られている表現が、正しく現実の存在を捉えていないということが、関係をたどることによって分かる場合に判断出来る。しかし、関係を正しくたどれなかったときは、表現者が間違えているのではなく、読者が間違いを設定し直して、自らが構築した間違いを内容(意味)として取り違えていることがある。誤謬論にとって関係を正しくたどるということが重要になってくるだろう。

意味を関係として捉える発想は、宮台真司氏が語る「行為」というものに関連したものにも見ることが出来る。宮台氏は「社会学入門 連載第五回 社会システムとは何か」の中で、「行為」というものについて説明しているが、これは形式と内容の対立を背負っている。つまり、同じ「行為」に見えるものが、違う「意味」として受け取られる場合がある。

これは、宮台氏は、「行動」は同じだが「行為」は違うというふうに捉えて、「行動」と「行為」の区別として論じている。三浦さんとの関連で考えれば、「行動」は実体的なもので、外に現れた物理的現象のみを捉えることになる。「行為」は、その実体が何と関係しているかという関係性を含んで捉えたときに、それを正しく受け取ることが出来る。

バットでボールを打つという行動が、野球というゲームのなかでの「行為」として意味を持つのか、打撃練習という「行為」として意味を持つのかは、その物理的現象の違いでは分からない。その行動が、他の出来事との関係性の中に置かれたとき、その意味を獲得すると考えられる。

この関係性を理解するのはかなり難しい。全く野球を知らない宇宙人が、観察だけでその意味を理解するのは困難だろうと宮台氏も書いている。その意味を理解するのは、そのゲームを実際に当事者として体験して、経験から得られる感覚を基に関係性を理解する必要があると語っていた。それは言語の習得によく似ているとも言っていた。

意味を理解し、関係性を理解していく過程こそが「言語ゲーム」と呼ばれる何かなのかもしれないと思う。この難しさは、数学でいえば関数理解の難しさに通じるものではないかと思う。

数学では、実体的な理解の対象である集合概念と、関係的な理解の対象である関数概念とがある。集合概念は、実体的にそれを眺めることが出来る。しかし、関数概念は、ブラックボックスを利用してその理解を図るように、実体としてはつかめない。何か知らないが、入力と出力の間に関係があって、その関係性こそが関数というものになる。

この関数が初等的な数式で書けるようなら、目に見えない関係性を目で見えるように工夫出来るのだが、全ての関数が初等的な数式で書けるわけではないので、複雑な関数は、関数として捉えること自体が難しくなる。

関数は、定義域と値域という集合自体が関数になるのではない。その間のつながりが関数になる。意味を捉えるときも、ある実体を同時に見ながら、その実体の間のつながりというものをノーミソの目で見る必要がある。これこそが意味を捉えるということでもっとも難しい問題になるのではないだろうか。三浦さんの意味のとらえ方は、この困難を乗り越えるヒントを与えてくれるように感じる。

竹中大臣が大臣を辞めると同時に議員も辞めてしまうことの「意味」はどこにあるのか。それは、複雑な関係性を理解したときにようやく正確な理解が出来る「意味」になるだろう。どのような実体の間に、どのようなつながりがあるのだろうか。

杉浦法相が死刑執行命令書に署名しなかった「行為」の「意味」は、どのような関係性から捉えることが出来るだろうか。その解釈(意味の受け取り)は、全く正反対のものが生まれる。この「意味」の違いは、関係性の違いから生まれてくるものだ。どの関係性のとらえ方の方が妥当性を持っているのか。

意味を関係性として捉えるという見方は、それを正しく受け取るということに関して、非常に有効性が高いということを僕は感じる。物事の正しい理解につながるのではないかと思う。
by ksyuumei | 2006-09-28 10:20 | 言語


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