内田さんが『私家版・ユダヤ文化論』で反ユダヤ主義者たちに対して次のような感想を語っていた。
「しかし、私が反ユダヤ主義者の著作を繙読して知ったのは、この著者たちは必ずしも邪悪な人間や利己的な人間ばかりではないということであった。むしろ、信仰に篤く、博識で、公正で、不義を激しく憎み、机上の空論を嫌い、戦いの現場に赴き、その拳に思想の全重量をかけることをためらわない「オス度」の高い人間がしばしば最悪の反ユダヤ主義者になった。」 反ユダヤ主義者は善意にあふれる人間であり、その善意の正しさを全く疑わない強い人間だと言うことだ。その代表格がドリュモンであり、ドリュモンは多くの点で優れていて正しい人であったにもかかわらず、総体として間違った思考である反ユダヤ主義に陥った。 人間はしばしば願ったことと反対の結果を生み出してしまう。平和と正義を願いながら戦争と不正にまみれてしまう。それは、決して最初からそのような悪を望んでいたのではない。人間は頭のいい悪魔にはなれないのだ。「地獄への道は善意によって敷き詰められている」という命題の正しさを学ぶことは、内田さんの本から得られるもっとも尊い宝ではないかと思う。 反フェミニズムの論客として有名な林道義さんを、僕はこのドリュモンと重なるような存在として感じるようになった。林さんにも善意と正義を感じる。その論理展開も、学者にふさわしく真っ当な展開になっている。しかし総体としての反フェミニズムには、反ユダヤ主義と同じような違和感を感じてしまう。 ドリュモンにしても林さんにしても、個々の具体的な批判は全く正しいにもかかわらず、そのような現象が発生する元凶として批判している「ユダヤ主義」と「フェミニズム」というものが、実は実体のない空想的な怪物を相手にしているのではないかという感じがするのだ。 それは「ユダヤ主義」や「フェミニズム」に対して確定的な定義が出来ないということに原因していると思う。具体的な存在である「ユダヤ主義者」や「フェミニスト」を批判する際には、全く正しい論理的な考察になっているのだろうと思う。だが、それに「イズム」がついた主義になると、批判する対象そのものが確定しないため、たとえ正しい論理であっても空中に向かって発砲しているような感じになるのではないだろうか。 かつて三浦つとむさんは「官許マルクス主義」を批判した。これは「マルクス主義一般」ではなく、ソビエトや日本共産党などが公式に認めて提出していた「マルクス主義的主張」を批判したものだ。それは具体的な対象だった。もし三浦さんが「マルクス主義一般」を批判していたら、それは確定しない相手に対するものとして、空砲を撃つようなむなしさがあっただろうと思う。 「官許マルクス主義」はソビエトの崩壊とともに、その理論的な誤りも証明されたように思う。僕は、基本的には三浦さんの批判が正しかったのだと評価している。日本共産党に関しては、以前の「官許マルクス主義」がどの程度修正されているか分からないのでまだ評価は出来ない。日本共産党が、以前の理論的誤りを自ら認めて、明確に修正したと言うことを宣言すれば、それは「官許マルクス主義」を克服したものになるかも知れない。それが公式に表明されない限りは、間違いを引きずっているという疑惑は残るだろう。 残念なことに、マルクス主義は、世間の認識は「官許マルクス主義=マルクス主義」だったので、「官許マルクス主義」の崩壊とともにマルクス主義そのものも捨てられてしまった。そこには、正しい命題も含まれていたと思うのだが、それを顧みる人はもはやいない。 「イズム」で語られる主義というのは、科学の場合で言えば「仮説」のようなものだろうと思う。まだ真理とは確認されていないが、真理らしいものではないかということで提出されたものだ。多くの主義の間違いは、仮説の段階に過ぎない主義をあたかも真理であるかのように扱って、それに反するものを全て間違いだと断罪することではないかと思う。マルクス主義はそのような歴史をたどってきたように思う。 科学の場合でも、それが確かめられないうちは主義のように扱われるのではないかと思う。地動説と天動説が確認されていない時代は、地動説主義や天動説主義のようなものが生まれるのではないだろうか。それは一つの発想法であって、ある視点からものを見るとこのように語ることが出来るという、条件付きの命題を語るものになるだろう。 地球を固定して、固定した地球から見る立場をとって主張すると天動説主義になるのだろう。地球を固定せず、地球を離れた視点で全体を眺めるという視点で語れば地動説主義というものになるのだろう。これは、その視点が正しいというのは、それが見える姿を語るだけでは確認出来ない。存在のつながりの全体性が、全てつじつまが合うように説明出来たとき、それは真理としての性格を獲得するのだろう。 天動説は、惑う星としての惑星の存在があったり、現実につじつまが合わない対象が次々に現れて、その視点がやがて破綻することになったのではないかと思う。マルクス主義にしても、階級史観や唯物史観というものが、目の前の現実を説明するときにはうまく働いたけれど、大昔のことや未来に出現する出来事を説明するには、どうもうまくいかないと言うつじつまの合わなさが生まれて、その視点の限界が意識されてきたのではないかと思う。 このとき、主義は仮説なのだという科学的な発想があれば、その限界を定めることが、仮説を科学に高めることだと理解出来ただろう。しかし主義を信じている人々は、これを科学ではなく信仰のように扱う。限界があると考えるのは、主義に対する冒涜になってしまう。その結果どうなるかと言えば、限界を超えて適用された命題は、限界内では真理であったにもかかわらず、誤謬に転化してしまうと言うことが起こる。 科学における仮説はその適用範囲の限界を常に意識して考えられている。相対的真理としての性格を忘れない。しかし主義で語られる言説は、絶対的真理であるかのような信仰になっている。三浦さんの「官許マルクス主義」批判も、その適用の限界を批判したものだからこそ論理的に正しかったのだと思う。これは、具体的な「官許マルクス主義」だからこそ、適用の限界を論じることが出来たのだと思う。 抽象的な意味での「マルクス主義」は、その限界を誰も語らない。だから、その適用はある意味では恣意的に行われる。それは、一般的にいつでも「マルクス主義」で行われる発想とは限らない。ここに、抽象的対象を批判するときの、対象の不安定さがあると思う。主義を批判するには、いつでも具体的な主義を批判しなければならない。 主義一般に関しては、それが仮説として捉えられていないときは、その点で限界を超えれば誤謬に陥るという指摘をする程度でとどめておかなければならないだろう。この誤謬は、主義でなくてもあらゆる思考に起こりうるものだが、主義で語られる言説は、特にこの誤謬に敏感でなければならないという指摘をしておかなければならないだろう。 僕も以前に「フェミニズムのうさんくささ」という文章で、確定しない対象である「フェミニズム」そのものを批判しようとして論理的な失敗をした。うさんくさいのは、あくまでも現実に間違いと結びついている「フェミニズムと結びついているだろうと予想されている言説」だったのだが、これを全ての言説を取り込んでいるような「フェミニズム」という対象がうさんくさいものだと論じたことに間違いがあった。 うさんくさいと言うことが、僕個人の感情の問題であればそれほど問題はなかったのだが、これを感情の問題ではなく、論理の問題として提出したのが間違いだったと思う。林さんの言説にも同じような間違いがあるのではないかと僕は感じてしまう。そういう意味では、僕は林さんの言説に非常に親近感を持って共感するところを感じる。 林さんが具体的対象について批判を語るとき、そこには論理的な間違いはほとんどないように感じる。「ほとんど」という表現を使ったのは、全てを確かめなかったからで、自分で確かめた限りの所では、林さんの論理におかしいところはなかった。 しかし、それを「フェミニズム」という確定しない対象の批判に結びつけるのは、かなり感情の作用が働いていると思う。林さん自身は、「フェミニズム」の定義をしっかりと定めて、その定義の下に批判を展開しているのだと思う。しかし、数学と違って、社会的な存在を定義するときは完全な恣意性のある定義をとることは難しい。 数学であれば、そこに論理的な矛盾を起こさない限り、どのような定義をしようと、理論の展開に役立つような定義であれば全て認められる。しかし、社会科学の場合は、現実との妥当性が定義の中に入ってこなければならないだろう。反対する人間が承認出来ないような定義で批判を展開したら、それはご都合主義的な批判だと思われてしまう。 具体的な現実を語る限りでは正当な批判である林さんの批判が、全体としては正当な批判として受け取られていないというのは残念なことであると思う。内田さんは、『ためらいの倫理学』の中で林さんの『フェミニズムの害毒』という著書について語っている。林さんの文章を次のように受け止めている。 「林が書いていることはだいたい次のようなことである。 夫婦は平等のほうがいい。子供は小さいときは母親が親しく育てる方がいい。父親も子育てに参加すべきでである。個人と国家の中間には家族、地域社会など中間的な公共的集団が介在したほうがいい。近代家族制度のプラス要素はきちんと評価したほうがいい。保育園にゼロ歳からあずけることにはデメリットのほうが多い。社会全体で家族崩壊・母性喪失が進行しているが、フェミニストたちには危機感が希薄であり、むしろそれを歓迎しているふうが見えるのはけしからんことである。フェミニズムに理解を示すのが男性インテリの条件みたいになっているのはよくない。『朝日新聞』の家庭欄からは近年アンチ・フェミニスト的な言説は組織的に排除されている。『わいふ』の田中喜美子はひどいやつだ・・・などなど。」 これらの主張は、「「日本のインテリ・リベラルおじさん」の常識である」とも語っている。これに共感する僕も、「日本のインテリ・リベラルおじさん」の仲間になったのかなと思う。林さんは、「フェミニズム」という主義を批判しながらも、逆の意味での「反フェミニズム」主義に陥っているような感じもする。ミイラ取りがミイラになるという感じだろうか。これは林さんの善意と大いに関係しているように感じる。 僕は林さんほど善意がないので途中で引き返すことが出来たが、善意にあふれた人は、反対の極まで突っ走ってしまうのではないだろうか。次回は、林さんの善意を具体的に見てみたいと思う。
by ksyuumei
| 2006-09-24 10:40
| 雑文
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