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感情のロジックと本当のロジック

今週のマル激を聞いていたら、宮台氏の言葉で「感情のロジック」というものが聞こえてきた。これは面白い表現だなと思った。感情を否定して、事実と事実のつながりの整合性を見るのがロジックのはずなのに、感情と直接結びついたロジックがあるという指摘なのだ。

ロジックによる判断は、その判断の理由というものが、論理的に説明出来る。小泉さんの靖国参拝が間違っているという判断は、サンフランシスコ講和条約とか靖国神社がもっている私的宗教としての属性とか、それらの事実を基にして間違っているという判断がなされる。ところが「感情のロジック」による判断は、これらの論理的整合性が全てなくなってしまう。

宮台氏によると、「感情のロジック」の判断基準は、「喜怒哀楽」と「快不快」というものだ。本当のロジックでは、その結論が論理的に正しいかどうかということが問題になるが、「感情のロジック」では、正しいかどうかは問題にならない。と言うよりも、そのような結論を出すことが出来ない。あえて言えば、「いいか悪いか」、それも気分的に「いいか悪いか」という判断をするものが「感情のロジック」だと思われる。



靖国参拝に関して中国から文句を言われるのは気に入らないという感情があった場合、それを無視して参拝する小泉さんの姿にはすっきりした気分を感じて「いい」という判断が出てくれば、それは「感情のロジック」によって判断したと言えるだろう。

この「感情のロジック」は、バックラッシュにおける「祭り現象」や、大衆的動員の煽り効果などに大きな影響を与えるのではないだろうか。本当のロジックとしては間違っているにもかかわらず、論理的な判断ではなく、気分的にすっきりするような方向を選ぶというのは、「感情のロジック」が働いていると考えられる。

しかし、宮台氏は、このような判断をなぜ「ロジック」と呼んだのだろうか。これは全く論理的ではないのに、「ロジック」と呼んでしまうとそれが論理的であるかのような錯覚を起こさないだろうか。

これは、論理がなぜ正しいのかということの根本に関わってくるような言語センスではないかと思う。例えば、三段論法というのはなぜ正しいのだろうか。僕は、それは現実経験から抽象されてきたものであって、正しさの根拠は経験にあると感じているのだが、論理というのは、ある意味では経験を超えるものと考えられているので、そう考えると正しさの根拠が見つけられなくなってしまう。

   人間は死すべきものである。
   ソクラテスは人間である。

と言う二つの前提から

   ソクラテスも死すべきものである。

という結論を導く三段論法が正しいのは、ここで語られている「人間」「ソクラテス」「死」というような事実が、他の事実と変えられても、常に現実において正しい結論と結びついていることから抽象されると僕は思っている。だから、論理の正しさも、究極的には現実に根拠があるのであって、現実に根拠を持たない考えは正しさも保証出来ないと思っている。

しかし抽象された論理そのものは、論理として正しさを要求してくる。つまり、それは論理であるから正しいというような感じになってくる。論理はなぜ正しいか、それは論理だからだ、と言うような同語反復的な正しさの確認になってしまう。

このような意味での正しさを持っているのは、語感的には「ロジック」と呼ばれるのではないかと思う。「ロジック」には、前提となるいくつかの法則がある。その法則にかなうような仕方で結論を導くのなら、「ロジック」としては正しいのである。それは現代数学における公理のようなものだ。現代数学での公理は、出発点になる真理ではなく、出発点としての仮説に過ぎない。「ロジック」も同じように、出発点としての法則があり、それを認めて出発すれば、「ロジック」として展開されたものは、その「ロジック」の範囲では正しいと認められる。

「感情のロジック」における出発点は、「喜怒哀楽」と「快不快」を判断の基準にせよというものだ。「喜楽」「快」が存在すれば、それは「いい」という判断をする。しかし「怒哀」「不快」があれば、それは「悪い」と判断する。これが「ロジック」の前提になっているのではないだろうか。そして、「感情のロジック」においては、この前提を守っている限りでは、その判断は正しいと考えられているのではないだろうか。

亀田くんの世界選手権において、あの試合を「八百長だ」と判断した人は、「感情のロジック」によって判断したのではないかと思う。本当のロジックなら、あれは「ジャッジがおかしい」という判断になるはずだ。試合そのものに対して文句を言う理由はない。だが、亀田くんに対して感情的に「不快」を感じている人は、亀田くんがまともな試合をしたという判断をすることはその「不快」を静めることが出来ないのではないか。「感情のロジック」としては亀田くんが八百長をしたと判断した方が気分的にすっきりするのではないかと思う。

「感情のロジック」は、マイナスの判断ばかりでなく、「快」による判断もあるだろう。甲子園の決勝で斉藤くんをヒーローにした「感情のロジック」は、「快」を基にした判断のように感じる。これは「快」でもあるし、彼を褒めているのだから害はないじゃないかと思う人もいるだろう。しかし、本当のロジックでない判断は、やはりどこかがゆがんでしまうのを僕は感じる。

斉藤くんの偉業は誰にも文句をつけられないすごいものだと思うが、その反面、炎天下の甲子園でなぜあれだけの連投をさせるのかということを正しく批判したものが見あたらなかった。特に大手のマスコミには皆無だった。本当のロジックからいえば、連投の必要性というものは感じられない。むしろ連投させることによって引き起こされる害の方を強く感じるものだ。

もし、連投させることのメリットを挙げるなら、それはドラマとして感動しやすく、気分の盛り上がりに水を差さないということだ。準決勝と決勝の間に二日間くらい、再試合になった決勝との間には3日くらいの休みを入れるのがベストだと思う。それは、いずれもエースが投げてくると予想されるからだ。もしも休みを入れないのなら、どのチームにも投手を3人くらい用意させるくらいの義務を課さなければならないだろう。

だが、このような運営の仕方をすれば、気分の持続が難しく、あれだけの感動を呼ぶドラマにはならないだろう。ドラマをとるのか、少年の健康の方をとるのかは、本当のロジックで考えれば判断は明らかだと思うが、「感情のロジック」では判断が難しいだろう。

日本の社会は、本当のロジックよりも「感情のロジック」で大衆的行動が決められていくという傾向があるように思う。だからこそ「不安のポピュリズム」による煽りが大衆動員には効果があるのだろうと思う。だが、「感情のロジック」は本当のロジックではないから、現実的な論理的整合性がない。つまり、正しい前提があろうとも、その結論が正しく実現されるとは限らない。このロジックは現実的な有効性を持っていないのだ。

「感情のロジック」による結論を受け入れることは気分的にはすっきりする。幸せ感も大きいだろう。しかしそれは長続きしないと思う。「感情のロジック」から本当のロジックにシフトしていく学習が必要なのではないだろうか。

この学習は、本当のロジックを単純に対置するだけでは失敗するようだ。宮台氏の経験でも、それでは感情的な反発をますます強めることになって、さらに強い「感情のロジック」によって判断を強固にしてしまうような所があったようだ。どういう戦略を用いれば、「感情のロジック」を克服して本当のロジックを理解してもらえるようになるのだろうか。

首相の靖国参拝を自粛するという結論を、中国が文句をつけるからそれに屈していることになると感情的に反発する人に、そのロジックの正しさを伝えることが出来るだろうか。本当のロジックの論理性を強調しても、感情的な反発が基礎にある人には、そこの部分でもはや受け入れがたいものになっているだろう。

「感情のロジック」よりも本当のロジックを優先させる資質は、ある意味では教育によって育てられるべきものだろう。その意味では、ロジックよりも、目上の指導に従ったことを高く評価するという教育システムの中では、その資質を育てることは絶望的に難しい。宮台氏にいわせると、「悲劇の共有」という悲劇の体験を経て、そのようなものが得られると語っていたように記憶する。「感情のロジック」が通用しないという深い体験が必要だということだろう。

それに対して神保氏は、それがなるべく短く終わってくれればといっていたが、もしそれ以外に本当のロジックを身につける方法がないとしたら、なかなかつらいものだなと思う。田中知事がいなくなる長野県では、長野県民は、これから何らかの悲劇の共有をすることで、先駆者的に本当のロジックが通用する社会を見せてくれるようになるのだろうか。そんなちょっとつらい予想が浮かんできた。
by ksyuumei | 2006-08-24 14:53 | 論理


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