野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本の中の「否定詞は名ではない」という言葉が気にかかっている。「名」というのはウィトゲンシュタインの哲学において特別な意味を持っている用語なので、これの意味を正しく理解するのがまた難しいのだが、名詞と同義ではない。
もし「否定詞は名詞ではない」と言うことなら、これはごく当たり前のことを語っているものとして受け取れる。否定詞は名詞と違う機能を受け持つ言葉であり、違う品詞として分類されることに整合性がある。「名」というものは名詞だけを指すのではなく、もっと広い範囲の言葉を指すものだと思われるので、その範疇に否定詞が入っていないと言う判断が気にかかっている。 「名」というものを自分なりに解釈してみると次のようなものだと思われる。ウィトゲンシュタインにとって世界とは事実の総体だった。そして事実とは言語によって表現される事柄だった。これを命題と呼んでもいいように受け取れる。この命題を構成する要素としての言葉がすべて「名」と呼ばれているように感じる。野矢さんの説明では次のようになる。 「次に、こちらは『論考』独特の語法になるが、命題の構成要素を「名」と呼ぶ。ここのところは本当に厳格に考えておいていただきたい。命題の構成要素はすべて一律に「名」と呼ばれるのであり、命題には名以外の構成要素は一切含まれない。命題はただ名だけからなる。「何だそりゃ」と思われるかも知れない。ふつう文には名前以外の語がたくさん用いられている。しかし、にもかかわらず、すべてを「名」として抑えてしまうのである。」 これを読んだだけでは「名」がどんなものか具体的なイメージは難しい。具体的に事実としての世界の一部を考えてみて、そこに「名」を見つけるという作業をしてみようと思う。野矢さんが例として掲げているのは、「机の上に本がある」というような命題で語られる事実だ。その世界では机は茶色をしていて、本は赤い色だと言うことだけが事実になっていると想定している。この事実を解体して、「個体」「性質」「関係」をすべて集めると次のようになるという。 {机、本、茶、赤、上} この集合自体は事実にならない。事実というのは事柄であり、何らかの判断をするものだから、ここから「机は茶色い」というような命題が構成され、それが事実になる。また上の要素からは、「本」と「茶」を結びつけて「本は茶色い」というような命題を作ることも出来る。 しかしこの命題は、事実である「本は赤い」という命題に反する。だから「本は茶色い」は事実ではない。ウィトゲンシュタインの言葉を使えば、これは事態と言うことになるだろうか。事実ではなくても可能な命題として存在するものということになる。「本は茶色い」と言うことも可能性としては想定しうるものになるからだ。 事実を解体して得られる上の集合の要素を「名」と呼んでいるのではないかと思う。そうすると、「名」というのはある意味では一つの概念を表す言葉とも言えるのではないかと感じる。だからそれは必ずしも名詞だけに限らず、動詞や形容詞などの他の品詞が入ってもいいものになるのだと思う。だが、そこには否定詞は入らないと言う。それはなぜだろうか。 ある事柄が事実であるというのは、それが現実のものであるという前提がなければならない。現実のものであるというのは、事実の対象となるものはそれが存在していると言うことがなければならない。存在していないという否定は事実になれないのではないかということだ。 しかし、現実には何かが「ない」という状態があるのではないか。存在していないという事実もあるのではないかと思える。それは何らかの状態があるのであって、否定詞で表現される対象としての「ない」は存在しないのだとも言える。「ない」が存在すると考えるのは矛盾であり考えられないとも言える。古代ギリシアで空間の存在を否定した人々は、そのような論理を考えていたとも言われている。 野矢さんは、絵画において否定は表現出来るかという問題を提出してこのことを考えていた。「机の上にパンダがいない」という命題は絵画表現をすることが出来るかという問題だ。ただ机を描いただけでは、そこに「パンダがいない」という意味を込めることが出来ない。それはパンダだけではなく、すべての存在に対していないと言うことを語るものになってしまう。逆に言えば、それは「いない」という否定表現ではなく、単に机が「ある」という肯定表現を描いたものになってしまう。 一つの工夫は、机の上にパンダを描いてそれに×印をつけるというものだ。これなら「パンダがいない」という表現になりそうだ。しかし、それは記号表現であって絵画表現ではないとも言える。絵画表現で否定を表すことは不可能ではないか。そんな感じがする。 絵画表現で表せない否定が、何故に言語表現では出来るのか。そこに否定の論理構造というものが隠れているような気がする。三浦つとむさんによれば、否定の表現というのは、まず一回肯定してその後に否定するという過程的構造があるということだった。否定と直結するような現実存在はなく、ある肯定判断が頭の中に生まれて、その肯定判断を否定するという形で否定表現が成立するという考えだった。 野矢さんも、「机の上にパンダがいない」という表現をする人は、「机の上にパンダがいる」という予想を持っていた人だけではないかというようなことを書いていた。つまり、ウィトゲンシュタイン的な事態を想定していた人が、現実の事実と違うことを認めて表現したものが否定だと言うことになる。 否定というのは、事態に対する判断だと解釈出来る。それは現実に存在する対象と結びつくものではない。事実を解体して到達する要素にはならない。それが「否定詞は名ではない」と言うことの意味ではないだろうか。 パンダではあまりに特殊すぎるのでもう少し平凡なもので考えてみると、「机の上にたばこがない」というような否定命題はどのような論理構造を持っているだろうか。これは、何もない机を見つめて、その見たということからすぐに判断されるものではない。「確か机の上にたばこを置いたはずだが」というような先入観で机を眺めたときに生まれてくる判断だ。そのような先入観がないときに、いきなり「机の上にたばこがない」という判断は生まれてこない。 もし、そのような判断が机を眺めたときに突然浮かんでくるとしたら、それは「ない」というような否定詞の練習をするような、日本語学習の特別の状況の中で生じることだろう。普通の意味で、自分の中に生まれた認識を表現しようとしたときに出てくる表現ではないだろうと思う。 否定の事実において存在するのは、頭の中の事態としての判断で、それが違っているという判断が存在するとき否定の事実が表現されると言うことになっているのではないかと思う。否定そのものが存在しているのではないと言う感じだ。これは様々な問題意識を考察するときに役に立つ視点ではないかと思われる。 何かが問題だと感じるのは、その問題によって、本来はこういう正しい事柄があるはずなのに正しくなくなっているという否定の判断があるのではないか。この否定の判断は、どのような肯定判断を経て生まれたものなのかを考察するのは、否定判断を深く考察することになるのではないかと思う。 靖国参拝問題を中国が問題視するのは、中国にとってあるべきと考えていた判断が否定されるところに問題があると感じているのだと思われる。その「あるべき」の内容が「サンフランシスコ講和条約の枠組み」にあるということを、僕は宮台氏の言葉で知った。宮台氏は「靖国問題で即席のコメントを求められました。あくまで即席回答です」の中でも次のように書いている。 「靖国問題は「東京裁判的手打ち問題」(略して手打ち問題)と「憲法と歴史の捩れ問題」(略して憲法問題)と「天皇陛下の御意思問題」(略して天皇問題)とに大まかに整理できるだろう。整理できると言っても、この三つの問題は複雑に分岐しつつ、絡まり合う。 第一に、東京裁判的手打ちとは、戦後復興と国際社会復帰のための国際協力を獲得するべく、A級戦犯に戦争責任を帰責することで天皇と国民から免罪する「虚構」のこと。東京裁判は「虚構」のための道具だから不公正は当たり前。この不公正で我々は免罪された。 この手打ち問題については、東京裁判が公正だとする左は、「虚構」による免罪と引替に犠牲になった者への道義的責任を忘却する点、批判に値する。不公正だとする右は、「虚構」による免罪で戦後社会を自らがぬくぬく生き延びた事実を忘却する点、批判に値する。」 「謂わば「虚構」の受容と引替に成り立った戦後外交と象徴天皇制。「虚構」否定の蒸し返しは“手打ち”の否定を意味し、外交的信義問題沸騰や天皇戦争責任問題再燃を越えて戦後体制否定に結びつく。国民の幸せを祈られる陛下の御意に、そこが最も悖る処であろう。 第一の手打ち問題を忘れ、A級戦犯を極悪人と信じる戦後世代が増える中、松平宮司がA級戦犯を合祀した気持ちは理解できる。だがそれは第二・第三の論点での矛盾を深めた。この輻輳から最適解を導くべきだが、最適解は各論点から見れば条件付最適化に過ぎぬ。 その制約に耐えつつ連立方程式を解けば、靖国のA級戦犯分祀と、異教徒や当時日本人だった台湾人半島人を含めた「軍人軍属に限らぬ戦没者全体」を祀る国立墓苑設立との、同時並行しかない。それで陛下の靖国参拝も実現するし、空襲や原爆犠牲者も供養できる。」 枠組みを守るべきだという視点で首相の靖国参拝を見たときに、そこから「枠組みが守られていない」という否定判断が生まれてくる。「枠組みを守るべきだ」という前提がない人間には、この否定判断は生まれてこないだろう。それは机の絵を見せられただけでは「机の上にパンダがいない」という否定判断が生まれないのと同じ論理構造だと思われる。 中国が靖国参拝を問題視するのは、このような前提があるからだが、この前提が理のあるものかどうかということがまた問題だ。理が「ある」という判断は、普通に整合性を考察すればいい。これに理が「ない」という否定判断をする場合は、それがどのような先入観の否定から生まれてきたのかを考える必要があるだろう。それは「枠組みを守らなくてもいい」という先入観から生まれてくるもののように思われる。これが「いい」と判断される納得出来る理由が見つけられるだろうか。もし見つけられるようなら、中国の問題視こそが否定されるものになるだろう。論理構造としてはそのようになっているのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2006-08-10 10:53
| 論理
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