以前に高橋哲哉さんの『靖国問題』(ちくま新書)を参考にして「靖国問題」を考えてみた。高橋さんは哲学者なので、哲学者としての視点から「靖国問題」を捉えると、どのような論理展開になるかということがこの本を学びたいと思った大きな理由だった。
哲学者というのは非常に厳密な論理を構築する。普通の人ならあまり注意を払わないような細かいところまで、その論理の一貫性を保つようにこだわる人たちだ。だから、「靖国問題」というデリケートな問題に対して、とことん徹底的に論理的な考察をするとどうなるかと言うことをこの本から学ぼうと思った。 しかし、そのように徹底した論理展開をすると、一般的な結論としては予想出来るものがある。それは、簡単に結論は出せないと言うものだ。哲学は対象を徹底的に掘り下げるが、どんな対象であろうとも徹底的に掘り下げれば、判断が難しい面が必ずある。だから、結論としては「分からない」「客観的判断は下せない」というものになることが予想される。 高橋さんは、「靖国問題」を次の5つの問題に分解して考察していた。 1 感情の問題 2 歴史認識の問題 3 宗教の問題 4 文化の問題 5 国立追悼施設の問題 これにはそれぞれに対立した立場があり、どの立場も納得させるような客観的な解決方法というものは無かった。そして、どの立場にも一理あるという論理の展開が出来る。だから立場の解消がないかぎりこの問題は解決しないと言うことが、ある意味では哲学的な結論ではないかと感じるところがある。 哲学というのは、正しい結論を出すことが学問の目的ではないようだ。ある意味では、それを巡って議論をすることによってより深い理解をすることが目的の所もある。だから、「靖国問題」に関しても、その問題の解決を出すと言うよりも、その議論を通じて「靖国問題」のより深い理解を図ったり、考え方の技術を深めたりすることに意義があるとも言えそうだ。「靖国問題」をそうとらえれば、この問題が解決しないとしても実りある方向へと結びつけることは出来るだろう。 「靖国問題」を哲学的問題だと捉えればそれは簡単には解決出来ない、もっとよく考えようと言うことになる。だが、これを哲学的問題としてではなく、ある立場からの現実的な問題と捉えると、他の立場をとりあえず無視して、特定の立場からの解決を図るという論理の展開は出来る。これは、他の立場を無視するので、不満を持つものもいるだろうが、よく考えることよりも現実的な解決の方が大事だという立場からはこれもやむを得ないものと感じる。 高橋さんは「靖国問題」を国内的な面から見ているが、宮台真司氏はこれを外交問題として見て解決すべしという主張をしている。もっと正確に言えば、「靖国問題」という国内問題は解決が難しいが、「靖国参拝問題」という外交問題は解決が出来るという主張だと僕は理解した。 「靖国問題」というのは、靖国神社というものの存在そのものが問われるものになっている。だが、「靖国参拝問題」というのは、首相(それに準じる国家の中枢にいる指導者)の「靖国参拝」が問題にされているものだ。これは、個人の問題ではなく国家の問題として起こっている。中国が口を出すことが気に入らないと言う人もいるかも知れないが、中国が何かを言ってくる、しかも首脳会談がそれを理由にして行われていないと言うことは、間違いなく外交問題としてそれが生じているのだと思う。 宮台氏の論理展開は次のようなものだ。この「靖国参拝問題」が外交問題であるなら、どちらの主張に理があるかということで判断をしなければならないというものだ。日本では、中国の抗議は内政干渉であり、「靖国参拝」は国内問題だという主張が多いように感じる。これは理のある主張だろうか。 中国側の主張を今一度考えてみると、「靖国神社」にA級戦犯が祀られているということを問題にしている。これが単に宗教上の問題であるなら中国の抗議は言いがかりとも思えるが、A級戦犯に関わることになると、これをどう解釈するかでどちらに理があるかということが決まってくるのではないかと思う。 日本国内では、東京裁判の不当性を主張する人もいて、そこで裁かれたA級戦犯は、戦争犯罪人ではなくむしろ日本のために戦った感謝を捧げる対象と考える人もいる。そして、事実として東京裁判には数々の不当性を感じさせるものが確かに存在する。そのように主張する人たちにも一理あることを感じる。 だが、宮台氏は、サンフランシスコ講和条約の枠組みの中でA級戦犯というものを理解すると、世界はそれをどう見るかと言うことを問題にする。国内的には、東京裁判の不当性を理解する人も多いだろうが、日本の歴史に詳しくない世界の人々にとって、その主張はすぐに同意出来るほど簡単に理解してもらえることかと言うことだ。 サンフランシスコ講和条約の枠組みというのは、日本が起こした戦争の原因を作ったのはすべてA級戦犯と呼ばれる指導者の側にあるのであって、軍国主義教育などで洗脳された一般国民は、それに抵抗する力さえなかった犠牲者なのだというものだった。昭和天皇にしても、権力の頂点に祭り上げられてはいたが、実際に戦争を指導するのはA級戦犯として裁かれた人々であり、戦争の責任はすべてその人々に帰することになった。 宮台氏に言わせると、多くの一般日本人と昭和天皇を救うために、悪いのはA級戦犯だけだという枠組みを作り上げたのが東京裁判だったということだ。そして、サンフランシスコ講和条約によって多くの国がその枠組みに同意し、日本人自らもそれに同意したというのが歴史的事実だという指摘をしていた。 このような枠組みの元で日本の戦後復興があった。その枠組みの元で、A級戦犯を靖国神社が祀ったということは、靖国神社はその枠組みに疑問を提出して否定をしたと言えるだろう。そして、その靖国神社に、国家首脳が参拝をすると言うことは、サンフランシスコ講和条約の枠組みを否定する靖国神社を支持したと見られても仕方がない。つまり、国家首脳の「靖国参拝」は、外交的にはサンフランシスコ講和条約の否定として映るというのが宮台氏の主張であり、これは論理的に納得出来る。 もし首相の「靖国参拝」を容認するのなら、日本は国家意志としてサンフランシスコ講和条約の枠組みを否定するという表明をしていることになる。これは外交的に大きな問題だ。日本人の多くはその覚悟が出来て小泉さんの「靖国参拝」を容認しているのだろうか。 サンフランシスコ講和条約の枠組みを否定することは、次の二つの可能性を開くことになる。 1 A級戦犯に罪はない →(従って) 日本人全体に罪はない 2 A級戦犯だけに罪があるのではない →(従って) 一般日本人と昭和天皇の責任を具体的に考察する必要がある 今の靖国神社の立場は1の主張をしているように感じる。これでは日本が国際的には信用されない国家になるのは当然のことではないかと思う。東京裁判では開戦責任が問われたという。戦争に負けた以上、それを引き起こしたことの責任が問われるのもある意味では当然のことだろう。もし、それがまったく責任がないことだというのなら、敗戦の時は、責任を取るふりをして騙したというずるい民族だと日本人は思われてしまうだろう。 国際社会で、サンフランシスコ講和条約の枠組みを廃棄してもなお信用されうる位置を確立したいと思ったら、2の方向を取る以外にはないだろうと思う。その覚悟が日本人には出来ているかどうか。 仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、自らの体験として、戦争の時の勝利に酔う一般大衆という印象を語っていた。戦争の遂行は、A級戦犯といわれる指導者に煽られて騙されたと言うことだけでは、その感覚と一致しないと語っていた。むしろ大衆が戦争の拡大を煽った面が確実にあるという。 サンフランシスコ講和条約の枠組みを否定して2の方向に論理を進めていくことは、もしかしたら本当の戦争の反省になるかも知れない。だが「靖国参拝」を容認する道は、この方向へ行く道にはならないだろう。 日本人が本当に自立して、諸外国へ本当の信頼をしてもらうためには、「靖国参拝問題」を2の方向へと論理展開していくことがいいのだろうが、これはまだ難しいような気がする。小泉さんのパフォーマンスが面白いからと、それをよく考えもせずに煽って祭り状態にするような国民性は、それを反省するような方向に向くとは思えないからだ。 「靖国参拝問題」に関しては、本質的な解決はまだ出来ないのなら、現実的な解決としては、サンフランシスコ講和条約の枠組みを否定していないのだという意思表示として、国家首脳の参拝を自粛するという方向が正しいのではないかと僕は思う。宮台氏の主張もそのようなものだと僕は理解した。 これは、現時点では、サンフランシスコ講和条約の枠組みを維持することが正しいという判断の元での解決だ。昭和天皇がA級戦犯が祀られてから靖国神社を参拝しなくなったのは、国家の象徴としての行為として、サンフランシスコ講和条約の枠組みを守るという意志を行動で示したのではないかと解釈したい。単に個人的な感情からの不快感で行かなくなったのではなく、この程度の論理も分からないのか、という不快感を感じたのではないかと僕は解釈したい。 中国に言われたからやめるというのでは、それでは中国に屈することになるのではないかと考える人もいるかも知れない。しかし、それは単に面子の問題だろうと思う。中国に言われたからやめるというのではなく、外交的な問題として論理的に考えれば、やめることに理があるからやめると言うことでいいのだと思う。 屈するように見えることに我慢がならないと言うのは、ちんぴらのケンカの論理のようなものだ。このことで中国が図に乗ってさらに要求を出して来るという心配をする人もいるかも知れないが、そんなことをすれば、今度は中国に理がないことが明らかになるので、日本としてはむしろ歓迎すべきことになるだろう。本当の実力さえあれば、理不尽な要求は跳ね返せるはずだ。ちんぴらのケンカの論理ではなく、大人の論理を使う国なら、論理として理のある方向を選ぶべきではないだろうか。そして、こちらが理のある行動をしていればこそ、相手国にも理のある行動を要求出来るのだと思う。 「靖国問題」の全体は解決出来ないが、外交面に限った「靖国参拝問題」は、国家首脳の参拝をやめると言うことで解決がつくのではないかと僕は思う。
by ksyuumei
| 2006-08-08 10:45
| 政治
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