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ウィトゲンシュタインの「世界」

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の最初の命題で


「1 世界は成立している事柄の総体である。」


と書いている。「成立している事柄」とは、現実に成立している事柄のことである。これを「事実」と呼んでいるので、世界は「事実」の総体であるというのが、ウィトゲンシュタインの「世界」と言うことになる。

「世界」という言葉は非常に抽象的な言葉で、人それぞれによってそのイメージが違ってくるのではないかと思う。具体的な「世界」の像には微妙な違いがあるだろうと思う。だから、その具体像から抽象された「世界」という言葉の意味は、人それぞれに微妙な違いがあるものと思われる。



「世界」というものを、自分の周りに存在する様々な物の集まりとイメージする人もいるのではないか。唯物論的な発想は、そのような物質的存在こそが「世界」を構成すると考えているのではないだろうか。しかしウィトゲンシュタインは、「世界」は「事実」という事柄の方を指すのであって、物を集めたものではないと主張する。


「1.1 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。」


と、最初の命題への注意となるような命題を記している。このとき、「世界」は物の総体なのか、事柄の総体なのか、どちらが正しいのかという発想をすると結論の出ない議論にはまりこむのではないかと思う。どこかに「世界」と呼ばれる対象があって、その対象の属性として、それが「物の集まり」になるのか「事柄の集まり」になるのかが決定するというふうに考えてはいけないのだと思う。「世界」という対象は、我々の思考以前には決まっていないのだと考えなければならないのだと僕は思う。

「世界」というのは、様々な視点から捉えることが出来る。だから、議論の出発点として、自分がどのような視点で「世界」を捉えているかを定義しているのだと、ウィトゲンシュタインの言葉を理解する必要があるのではないだろうか。この定義は、ある結論として証明される「真理」ではなく、むしろ数学的な公理のようなもので、「真理性」というものは考慮の外にある、論理を展開するための出発点として捉えるべきではないかと思う。

ウィトゲンシュタインが「世界」をこのようにとらえた視点というのは、野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本によれば、「思考の限界を決定する」という目的に関わっているように思われる。人間は、どのようなことが思考可能であり、どのようなことが思考不可能であるか、ということをウィトゲンシュタインは考えた。

ウィトゲンシュタインにとっては、思考の展開の謎を解明すると言うことが問題の本質だっただろう。そうすると、思考の展開にとっては、ある事柄の判断が成立するかどうかと言うことが大事になってくる。ものが対象としてそこに存在するというのは、思考の前提であって、思考そのものになるわけではない。

ウィトゲンシュタインにとっては自らが解明したいことのために「世界」を構成し直すことが大事だったわけだ。だからこそ、素朴にはものの寄せ集めのように感じる「世界」を、ものではなく事柄の集合として定義し直したのだと思う。

このように、これからの思考の出発点を定義したものとして命題を見ることと、何かの思考の結論として命題を解釈することとは大きな違いがあるものと思う。思考の出発点としての定義は、その定義が、目的を達成するための妥当性を持っているかどうかが大事になる。それは、その時点では「真理性」を問題にするような命題にはならない。仮言命題の前件としてのみ有効性を持つようなものになる。

ウィトゲンシュタインの「世界」が、ウィトゲンシュタインが目指したように、人間の思考の限界を解明するために役立っているかどうかは、その考察の全体像が分からなければ判断は出来ない。しかし、そのようなものだろうと予想して、ウィトゲンシュタインが見た「世界」を、同じ世界として眺めることが出来るように努力することは出来るのではないかと思う。そして、同じ世界を眺めることに成功した人が、ウィトゲンシュタインが本当は何を言いたかったかと言うことが分かるようになるのだろう。

理論の出発点としての定義という問題を考えてみると、「言語」という言葉においても、三浦つとむさんが語る「言語」の定義と、ソシュールが語る「言語」の定義に関しても、その理論が目指す目的が違えば、定義に違いが出てきてもそれはともに妥当性を持ちうるのではないかとも感じるようになった。

三浦さんが解明しようとした「言語」は、あくまでも現実に、具体的な個人が何らかの思考のようなものを伝達することに利用される「言語」を解明しようとしたのではないかと思う。その目的から言ったら、表現されず、何も伝達されないものが「言語」から除かれるのは妥当性があるだろう。「言語」が表現の一種だと定義されることに妥当性がある。

ソシュールの場合はどうだったのだろうか。ソシュールが何を解明したかったのかと言うことについては、僕は何も確かなことを知らなかったという感じがする。ソシュールが、具体的な言葉の発露を「言語学」の対象から切り捨てたと言うことは、三浦さんの批判を通じて知っていたが、それでは、何を目指していたかと言うことははっきりしたものが浮かんでこない。

三浦さんの観点から見れば、具体的な言葉を対象から切り捨てたことは大いに批判されるに値されることだろう。しかし、目的が違うと言うことであれば、むしろ切り捨てることの方に妥当性があるという判断も成り立つかも知れない。三浦さんから見れば、認識の一種である言語規範を、ソシュールがあえて言語だと規定したのは、三浦さんとソシュールの目指すものの違いが反映しているだけのことではないのか。

三浦さんの言語の定義と、ソシュールの言語の定義と、どちらが正しいかと言うことは議論しても仕方がないのではないかとも思える。むしろ、両者の定義は、両者が目的としたもの、解明したいものが本当に解明出来たかと言うことにおいて、その定義が妥当かどうかが問われなければならないのではないかと思う。

三浦さんは、あくまでも思考の伝達というものとして言語の謎を解明しようとしたように見える。だが、ソシュールは伝達というものにあまり重きを置いていなかったのではないだろうか。伝達というものよりも、言語が思考の展開に与える影響とか、社会に与える影響とか、そのようなものの謎を解明したいと思ったのではないだろうか。これは、ソシュールに詳しくない人間の、単なる想像に過ぎないのだが、調べてみたいことではある。

思考の展開における言語の役割というのは、僕が関心を持っている論理にとっても大きな問題だ。日常言語で思考するよりも、記号論理で理解した方が数学の理解は進むと言うことは、果たしてどのような法則性を持っているのかというのは、僕自身にとって解明したい謎の一つだ。ソシュールの言語学が、そう言ったことに役立つのであれば、大いに学びたいものだとも思う。ソシュールは、言語学を包含する記号学の構想も持っていたと言われているが、それが記号論理の理解に役立つのではないかという期待もある。

ソシュールについては、批判的側面しか見ていなかったが、あれだけ大きな影響を与え、多くの人を魅了した理論がまったく無価値だとは思えない。どこに大きな宝があるかというのを見つけたいものだと思う。

ウィトゲンシュタインの「世界」に関しては、もう一つ問題を感じるところがある。ウィトゲンシュタインにとっては「世界」は、あくまでも現実とのつながりを持つ「事実」を寄せ集めたものだった。現実化されていない、想像の世界の中の仮構的なものは「事態」と呼ばれている。「事態」は「事実」を含み込んでいる。「事態」の中の、現実化されたものが「事実」となる。

「事実」の全体は「世界」と呼ばれ、「事態」の全体が「論理空間」と呼ばれているようだ。以前の僕は、素材の集まりが「論理空間」だと思っていたが、野矢さんの本を読んだら、「事態」の集まりの方を「論理空間」と呼んだ方が当たっているような気がした。

ここで僕が問題に感じるのは、「事態」の方は、すべての可能性を想像して得られるものということで構成することが出来るものの、その中のどれが「事実」であるかは、決定が難しいものがたくさんあるということだ。「事実」のすべてである「世界」は把握が出来ないのではないかという問題を感じる。

ある事柄が「事実」なのか、そうでないのかは決定出来ないとしたら、「世界」は解明出来ないと言うことにならないだろうか。この問題をウィトゲンシュタインがどのようにして解決したかはまだ分からない。野矢さんの本をもっと読み込んで理解したいものだと思う。

一つ想像出来ることは、ウィトゲンシュタインが目的としたものは、個々の「事実」の判定方法という技術的なものではないので、それは、抽象的に解明されたものという設定をして、その設定の元で、「世界」そのものの構造的な部分に注目したのではないかという発想だ。

これも、理論の出発点として、フィクショナルに設定して、その上で理論を進めてみるという思考の展開の方法の一つとして受け止められるのかなと言う感じがしている。その目的は、構造というものの解明にある。構造にとっては、個々の事実がどうであるかということはあまり関心がない。だから、それが事実であるという前提を置いてしまって、その上で構造だけを思考の対象にしようと言うのではないだろうか。

このような構造の解明がなされたときに、それを具体的現実に応用するときは、「事実」としてまだ確かめられていないようなものに適用するときは、それは例外的なものとして自覚しなければならないと思う。無批判に「事実」だと言うことを前提にすると間違えるだろう。

現実的・具体的な技術の問題(個々の「事実」が本当に「事実」であるかどうかを解明する)と、抽象的な「構造」を問題にする考察とは、関連があるが分けておいた方がいいのではないかと思う。個々の技術的な問題が解明出来なければ、抽象的な構造が理解出来ないと言うことでもないと思う。「無意識」というものが、現実にはどのように扱えるかという技術的な問題は混沌としているけれど、「無意識」で語られる人間の認識の構造は、抽象的にはかなり解明されているのではないだろうか。

「世界」における「事実」の確認は難しいが、「事実」を寄せ集めた「世界」はどのような構造を持っているかは解明出来る。ウィトゲンシュタインはそう考えたのではないだろうか。自分にもそれが理解出来るかどうか考えてみたいものだと思う。
by ksyuumei | 2006-07-29 11:04 | 哲学一般


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