古代ギリシアの数学には三大難問と呼ばれる幾何学の問題があった。定規とコンパスだけを用いて作図するという問題で、
1 与えられた画の三等分をする 2 与えられた立方体の2倍の体積の立方体を作図する 3 与えられた円と同じ面積を持った正方形を作図する というものだ。これは多くの優れた人々が解決を求めたが、誰もそれに成功しなかった。そして、まったく意外な形で解答が見つかった。これらの作図は、定規とコンパスだけを用いるという制限の元では不可能であることが証明されたのだ。 不可能性の問題というのは非常に不思議なものだという感じがする。それは、誰がやっても出来なかったという経験だけでは証明にならない。未来永劫に、誰がやっても出来ないのだと言うことを含んで証明されなければならない。経験を越えた事柄を主張すると言うところに不思議なものを感じる。 学生の頃の思い出に次のようなパズルを考えたものがある。縦横5つずつの黒い点の正方形を考える。 ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ この黒い点を、縦と横の直線だけでつないでいくことを考える。斜めにつないではいけない。そして、その直線は、一筆書きのようにつながっていなければならない。また、どの点も1回だけ通ることを許される。同じ点を2回通ってはいけない。このようなルールで点を結ぶパズルがあった。 上の問題は簡単に解決する。縦横に順番に貫く線でもいいし、渦巻き上に真ん中に向かう線でもいいが、上のルールに従った一筆書きの折れ線を描くことが出来る。ところが、上の点の一つ、右端の下から2番目の点を消した図形 ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・ ・・・・・ で、その消した場所を飛び越えてはいけないというルールを付け加えると、これがつながった折れ線では結べなくなる。どんなに頑張ってみてもこの問題は解決しない。そこで僕は、これは不可能な問題ではないかと思い、不可能性を証明するということを考えた。 この証明には、黒い点ではなく、点で描かれている部分を正方形にして □□□□□ □□□□□ □□□□□ □□□□□ □□□□□ というものを作り、隣の正方形を伝って、全部の正方形をつなぐ道を作るというふうに問題の構造を作りかえると考えやすい。下の図形のように、正方形に市松模様をつけると □■□■□ ■□■□■ □■□■□ ■□■□■ □■□■□ 隣り合った正方形をつなげるというのは、色の違う正方形をつなげることに相当する。斜めの正方形をつなげてはいけないというのは、同じ色の正方形を連続してはいけないと言うことに相当する。そうすると、このルールに従って一筆書きの折れ線がかけるというのは、白の正方形と黒の正方形の個数の差が1か0の時に限ると言うことになる。 どちらかが1個多いときは、その1個多い方から出発して描くことになり、同数の時は、どちらから出発してもいいことになる。実際、上の25個の正方形の場合は、白の方が1個多いから、どこかの白から出発すれば一筆書きの折れ線が描ける。 ここで右下から2番目を消してみると次のようになる。 □■□■□ ■□■□■ □■□■□ ■□■□ □■□■□ 黒い正方形が消えて黒の方は11個になり、白い正方形は13個になる。そうすると、どんなに努力しても白は1個あまってしまう。つまり一筆書きは不可能であるということが証明されることになる。 この不可能性の証明はとても気に入ったので今でもよく覚えている。だが、このパズルの場合は、一筆書きの可能性というものを考えると、それはかなりの数に達するかも知れないが、元々が有限個の点の場合を考えているので、試行錯誤ですべての場合をやり尽くしてみれば不可能であると証明出来ないことはない。 このパズルを一般化して、縦横n個ずつの点を並べるというふうに考えると、nにどんな数を入れてもいいということから、無限のケースを扱って不可能性を証明すると考えることが出来るだろうか。もしそう考えることが出来れば、この不可能性の証明は、無限を把握したと言うことになるだろうか。 無限というのは、その全体を把握するのは、現実存在である・有限性の中で生きている人間には出来ないのではないかと思われるが、不可能性の証明の場合は、それが出来るのだろうか。 ただ、この場合の不可能性の証明の場合は、証明そのものは常に有限個nのケースで考えることになっている。nは無限大を意味してはいない。そういう点では、これは「可能無限」を捉えているだけだとも言える。可能性としては、nはいくらでも大きくできるが、実際には常に具体的な数字として考察しているだけだ。 古代ギリシアの幾何の三大難問については詳しく調べたことがないので、これの不可能性の証明が、どのような無限のケースを捉えているのかは分からない。やはり可能無限として解釈出来るものになっているのだろうか。ちょっと調べてみようと思う。 また、ゲーデルの不完全性定理でも、無矛盾の公理系において、証明不可能な命題が存在することが語られている。ここでの不可能性というのも、どのような無限のケースについて語っているのだろうか。 不可能性の証明における無限の把握は、果たして無限の全体を把握しているのだろうか。また、不可能性の証明は、経験から得られるものではなく、経験を越えた真理を主張するものだ。この、経験を越えると言うことが、論理というものの真理性について何を語っていると受け止めればいいだろうか。論理における真理は、アプリオリ(先験的)に決定出来ると言うことになるのだろうか。 物理学の方では、永久機関は不可能だといわれていると聞いたことがある。この不可能性も経験を超えたものなのだろうか。誰が、どんなに努力をしても、絶対に永久機関は出来ないと証明されているのだろうか。数学のように抽象理論であれば、観念の世界での不可能性を超経験的に証明出来るのも納得が出来るのだが、現実世界での出来事において不可能であると言うことの証明はどのようにしてなされているのだろうか。 不可能性の証明は、もっと素朴に日常生活でも語られることがあるかも知れない。その場合の論理構造としては、超経験的にそれを語っているのだろうか。例えば、ごく普通の人間には100メートルを10秒で走るのは不可能だ。これは、超経験的な真理で、やってみなくても100%確実に分かると言っていいものだろうか。 不可能性の証明と、そこで語られる論理は、論理的な真理というものについて何かを教えてくれそうな気がする。
by ksyuumei
| 2006-07-27 11:02
| 論理
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