数学の基礎教養の一つに集合論というものがある。これは、ものの集まりというものを抽象して数学的対象にするものだが、単純に何かが集まっていれば集合になるというものではない。基準のはっきりしないものはいくら集まっていても、数学的対象としての集合にはならない。
例えば「大きい」人の集合といっても、人によって「大きい」という基準が違ってくれば、その集合に属するか属さないかが違ってしまう。このような曖昧な存在は数学では排除される。この場合は、身長が180センチ以上とか、体重が100キロ以上を「大きい」と規定して基準をおけば数学的な集合とすることが出来る。 数学が、「大きい」というような曖昧な判断基準を排除するのは、客観性を保つためである。主観によって判断が違ってくるようなことを考えたのでは、同じ結論に達することが出来ない。数学においては、その前提とする事柄も、使われる論理も、数学の世界にいる限りでは誰もが同じものを受け入れなければならない。そうすることによって、正しい事柄はすべての数学者が同じ結論に達するという「客観性」を保つことが出来る。 これは、みんなが賛成するから正しいと言うことではない。その逆であって、正しい事柄であれば、それは同じ道筋を通って理解されるので、正しいという結論で数学者の判断が一致すると言うことになるのだ。 数学における論理の展開は、他の道筋を許さない。それが複雑で理解が難しいという面はあるが、唯一の正しいルートを通って真理に到達するので誰もが一致した判断を持つことが出来る。それは、表面的には違うルートに見えても、数学的には「同値」であることが証明されて、本質的には同じルートであることが示される。 数学においては真理の客観性は非常にはっきりしている。理論の出発点である公理が一致すること。これは、形は違っても論理的に同等であれば一致していると判断する。そして、そこで使われる論理についても、同じ論理が使われていること。一方で許されていない論理が他方では許されると言うことがないことだ。これさえ確認されれば、数学の真理はすべて客観的真理になる。 真理を理解することは難しいだろうが、それが真理であるなら、理解したときには同じ結論に達する。それが数学の世界だ。数学の世界には客観的真理しか存在しないが、これが現実の存在を対象に含んだ様々な分野の真理になると、そこに数学がどの程度含まれているかで、客観性の度合いが違ってくるように感じる。 数学を利用する物理学などの自然科学では、数学の持っている客観性が十分浸透している。これは、現実的対象を、どのようにして抽象して科学的対象にしているかが、概念として共有されれば、数学のように、正しいことが理解されればほとんどどの科学者も同じ結論に達することが出来る。 社会科学などでも、理論的な経済学などは、ほとんど数学の一分野ではないかとも言われているそうだ。そのような分野では、おそらく、正しい事柄であれば、ほとんどの経済学者の意見は一致するに違いない。その理論にどれだけ数学が浸透しているかが、そこで主張されている真理の客観性に大きく関わっているのではないかと思われる。 しかし、現実の存在は、数学で扱えるものばかりとは限らない。「大きい」と言うことの例で考えれば、それを180センチ以上とか、100キロ以上とか考えるのは量の問題として捉えることを意味する。対象の量を問題に出来る科学であれば、それは数学の威力を充分に引き出して利用することが出来る。 しかし、量化することが難しく、質を捉えて考察を進めなければならない対象の場合は、数学のように明快な定義を与えることが出来ない。このような対象に対する考察は、その客観性というものは薄いものにならざるを得ないだろう。立場や視点によって真理が違うという解釈をしなければならないものもあるものだと思う。 量の変化が連続的で関数として捉えられる対象は数学的に扱える感じがするが、量の変化が、ある飛躍点で質の変化をもたらすときは、それは数学的に扱うことが難しいように思われる。そのような数学が工夫されてはいるだろうが、それはかなりの抽象を必要として、現実存在をそのまま反映することは難しいと思われる。歴史などの分野では、質を問題にする対象がありそうな気がする。 江川達也さんのマル激での話を聞いて、日清・日露の戦争に対する関心が高まってきたので、図書館でいくつかの本を借りてみた。その中の『ノモンハン 隠された「戦争」』(鎌倉英也・著、NHK出版)には、興味深い記述があった。 日露戦争におけるノモンハンでの戦いは、日本の歴史では「ノモンハン事件」と記述されている。しかし、それが当の戦場となったモンゴルでは「ハルヒンゴル(ハルハ河)戦争」と呼ばれているという。この「事件」と「戦争」という呼び方の違いは、質の違いを反映したものとして考えられる。 日本軍の死者は約1万8000人といわれている。犠牲者の数という量で「戦争」の定義をするなら、これは「戦争」と呼んでもいいものかも知れない。また、そのような発想をすればとりあえずは数学的にはなるだろう。そうすれば、その定義に従う限りでは、誰もがこれが「戦争」であるかどうかという判断で一致する。質の問題を量の問題にしてしまえば、判断の対立はなくなってしまう。 しかし「戦争」という対象は、そのように質を捨象して量に解消することが出来ない。そこで、その質に対してどのような視点を持つかという違いで「事件」と呼んだり「戦争」と呼んだりするようになる。 ノモンハン事件に関しては、日露戦争を勝利したことにしなければならないというフィクションのために「事件」にしたという解釈も成り立つようだ。江川さんの話はそのように聞こえた。実際は少しも勝っていない、せいぜいが引き分け程度の日露戦争を、勝ったことにするには、そのような「物語」が必要だったというわけだ。 このような対象に対して、それが「事件」であったか「戦争」であったかを議論することにはどのような意味があるだろうか。もし、どちらか一方だけが客観的真理であり、他方が間違っているという前提で議論をしたら、これは不毛な議論になりあまり意味のないものになるだろう。 それでは、議論すること自体にそもそも意味がないかといえば、それも反対の極に振れた間違いのようにも思われる。これらの質の違いを議論することによって、視点や立場の違いが鮮明になるのなら、これは議論すること自体には大きな意義があるようにも思われる。どちらか一方の結論を出すことは出来ないが、その対象を深く理解するための助けにはなるのではないかと思う。 どのような視点に立ったときに「事件」と呼ぶのが妥当になるのか、あるいはどの視点の見方が「戦争」という判断を納得させるものになるのか。それを考えるのは意義があるものと思われる。 以前に本多勝一さんの著書で、「ニクソンの真理」「アメリカの真理」というような言葉を見たことがある。これは、「ニクソンの立場から見た真理」「アメリカの立場から見た真理」というような意味だった。このように、真理というのは視点によって違ってくると言う理解は重要なものではないかと思う。 そして、立場を越えた視点から見てもなおかつ真理だと主張出来るものがあれば、それが「客観的真理」というものになるだろうと思う。 ここで哲学的な考察を少し考えてみようと思う。上で考えているような「真理」は、僕のイメージの中では、論理的な整合性を持った主張というような程度のものとして捉えている。つまり「ニクソンの真理」というようなものも、ニクソンの立場から、自分の主張を正当化するような前提を集めて論理的に整合性を持たせることが出来れば「真理」として一応は通用するという考え方だ。 これに対して、「真理」の基準はもっと厳しいもので、「ニクソンの真理」などは、真理と名乗ってはいるが真理ではないとする立場もあるかも知れない。しかし、この立場は、哲学的には不毛な、結論が出せない主張になるのではないかと思われる。真理の基準というのは、厳しくすればするほど真理に値するものがなくなっていくと言うことになるのではないかと思うからだ。究極的には、客観的真理などは存在しないという結論になっていくだろう。 本多勝一さんの議論の中で、「客観的報道」というものがあり得るかというものもあった。これに対し、本多さんは、「客観的」という言葉を厳しく徹底していくと、「客観的報道」はあり得ないという結論にならざるを得ないと言うことを主張していた。この場合に「客観的」の意味を厳しくすると言うのは、すべての主観を排除したものを「客観的」と考えるというものだった。 すべての主観を排除すれば、報道において、何を知らせるかという選択における主観も排除しなければならなくなる。つまり、知ったことのすべてを報道しなければならないことになる。しかもその順番も、少しでも恣意的なものがあれば主観が入り込むから、ランダムにすべてを羅列する報道でなければ「客観的報道」にならないということになる。 これは報道としてはほとんど無意味になる。だから、「客観的」の意味を厳しく取りすぎれば、「客観的報道」などあり得ないと言うことになる。この議論を今の前提の過程を無視して文字通り受け取ってしまうと、すべての報道は信頼出来ないと言うことになる。だが、実際には、信頼すべき報道と信頼出来ないデタラメの報道とが混ざっているというのが本当のところだろう。 報道の場合の「客観的」というのは、フィクションを事実のように扱わないという程度でいいのではないかと思う。それさえ満たされれば「客観的」と呼ぶだけの資格があると思う。どうしても確認出来ない部分を想像で補うことはあるだろうと思うが、それをちゃんとフィクションとして意識して展開していれば、報道としての客観性は保っていると僕は思う。 「客観的真理」の場合も、この「客観的」を、すべての主観を排除したものと理解すると、そんなものはあり得ないという結論になるだろうと思う。そもそも真理であるかどうかの判断が主観に属するものだからだ。真理というのは、そう言う対象がどこかに客観的に存在しているのではない。ある種の肯定判断ないし否定判断が、現実の存在と重なるときに真理という判断が主観の中に生まれるのだと思う。 真理を判断する主体はそれぞれ別のものであり、判断そのものは主観的なものである。それがどのようにして共通のものになり客観性を獲得していくのか。僕はその鍵はやはり論理にあると思っている。論理こそは共通の枠として客観性を持っているのではないかと思っている。 僕は客観的真理は存在すると思っている。それは、論理という共通の枠を持った人々が、現状認識として一致したものを持ったときに、その前提から論理的に導かれてくる結論を「客観的真理」として認識するのではないかと思う。この前提を認める人だったら必ずこう考えるはずだというものがあり、この前提の正しさに確証を持ったとき、「客観的真理」が見えてくるのではないかと思っている。
by ksyuumei
| 2006-07-22 14:05
| 哲学一般
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