仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、「バカの一つ覚え」という言葉で科学に対する絶対的な信頼感を語るときがある。それは常に成立する絶対的真理であり、常に同じ主張が出来ると言うことから、「バカの一つ覚え」のように繰り返せるものだという主張だ。
これは科学というものが、「科」に限られた限定的な真理だからこそ言えることだと思う。その真理の範囲を逸脱しなければ、限定された条件の下では絶対的に正しいという命題が科学というものだと捉えている。 しかし一方では、板倉さんは、森羅万象を対象にする哲学の魅力も語っている。板倉さんが考える哲学は、森羅万象を対象にして、世界をあらゆる角度から見る発想法のようなものとして捉えているようだ。森羅万象を対象にすれば、それは限定的な知識ではなくなるので科学としては成立しない。つまりある条件の下での絶対的真理とはならない。 それは、条件を逸脱した範囲では誤謬になる可能性がある。しかしまた条件の範囲内に収まっていれば真理ともなる。哲学的な命題は、誤謬でもあるし真理でもあるという、当たらずといえども遠からずという性質を持っている。板倉さんが語る哲学の魅力は、このような発想法が、科学を一歩押し進める仮説を考えるときに、豊かな発想での仮説をもたらしてくれるという面だ。 科学を押し進める仮説のいくつかはそれが提出された時代の常識からすると荒唐無稽だと思われるものが多い。森羅万象を対象にする哲学的な広い視野がないと、こうも考えられるという、幅広い豊かな発想は生まれない。その大部分が仮説としては否定されることがあっても、いろいろな仮説が提出されることで科学は新しい面を一つずつ獲得していく。 科学が真理であるためには、その適用範囲を限定して論理の逸脱に気をつけなければならない。しかし、それを発展させるためには、広い視野を持って現実を眺める、科学の適用範囲を遙かに超えたメタ的な視点を持たなければならない。この矛盾した活動が繰り返されることによって、科学は同じ地点にとどまることなく、一段高い段階へとらせん状に発展していく弁証法性を持ちうるのではないかと思う。 板倉さんは、科学の父としてのガリレイについて語ることが多いが、有名な落下運動の法則の発見について書かれたことは科学の特徴をよく表しているのではないかと思う。ガリレイは、落下運動の速度はその重さ(質量)には関係ないと言うことを、ピサの斜塔から大きさの違う二つの金属球を落とす実験によって確かめたと言われている。 それまではアリストテレスが書き残したものによって、重いものほど早く落ちるというふうに信じられていたようだ。ガリレイは落下運動の速度という限定された範囲の知識において正しい結果を出した。それは重力の法則を知っている我々から見れば当たり前のことかも知れないが、当時反対の常識を持っていた人々から見ると、何度繰り返してもガリレイが予想したような結果になることに驚いたのではないかと思う。まさに、限定された範囲内で絶対的な真理を語るという科学の特徴がそこには出ているのではないかと思う。 逆にアリストテレスの方を見てみると、これは板倉さんが語っているように、森羅万象を徹底的に考えた偉大な哲学者としての像が浮かび上がってくる。アリストテレスの研究の範囲は、自然科学的なものから、政治学のような社会を扱ったもの、詩などの芸術を扱ったものなど多岐にわたっている。まさに森羅万象の、あらゆる知られたものに対する知識について考えたようだ。 重いものが早く落ちて、軽いものが遅く落ちるというのは、鳥の羽のようなものを落とすときに現実に見られる。だから、そのような現象があることは確かなのだが、この現象が一つあるからと言ってそれが哲学的な知識になるとは思えない。森羅万象を対象にして徹底的に考え抜いたアリストテレスがただ一つの現象を元にそれを一般化して普遍的な真理にするとは思えない。 僕はアリストテレスを詳しく調べたことがないので、どのような思考過程を経て落下の法則が導かれたのかは分からないが、力と速度の関係で、大きな力を加えるほど大きな速度が得られるという現象を法則化することによって、力と速度が比例するという原理を作ると、その論理の適用範囲を広げることによって落下運動の速度も重いものほど速く落ちるという結論が導けるのではないかと感じる。 人間がものを動かそうとするとき、小さな力では少ししか動かないが、大きな力を加えるとそれは速い速度で動く。また、重いものはそれに見合った大きな力でないと動かない。これは、人間がものを動かそうとする運動には、ふつう摩擦が働いて抵抗が大きくなるのでこのような現象が見られる。摩擦に抵抗するだけの大きな力を加えないと運動そのものが起きないと言うわけだ。 また、ふつう物の移動は水平方向に動かすことが多く、自然落下のように垂直方向への移動はあまり考えない。このような状況が重なると、物を動かすときに、それが重いものであればあるほど大きな力が必要だと言うことの方が普遍的な真理として見えてくる。 この論理を自然落下の場合にも適用すれば、重いものほど運動には強い力が必要だから、重いものほど強い力で下に押されることになり、速度が速くなると結論したくなってくるのではないだろうか。これは、単に羽のように軽いものを見たことによって求められた帰納的な推論と言うよりは、速度は力に比例するという原理を森羅万象に当てはめた演繹の逸脱から生まれた誤謬ではないかとも感じる。 これが仮説の段階にとどまっていて、その仮説を検証するような実験を考えるという方向へ行けば、論理の適用範囲を逸脱するようなことはなく、科学の「科」を守ることになっただろうと思う。しかし、知られた事実を合理的に解釈するという、哲学の持っている普遍性(森羅万象を対象にする)という思考法からは、ほとんど同時に落ちるように見える重さの違う二つの物体の解釈を、原理に見合うように変えると言うことで論理の整合性を保とうとするのではないかと思う。 二つの物体は同時に落下するように見えるが、実はそれは測ることが出来ないほど微妙な速度の違いがあるのだと解釈出来るかも知れない。羽のように軽いものは、その速度の違いが目に見えるように分かるが、ある程度の重さを持ったものは、微妙な違いをもっているだけで計測が出来ないと解釈することも出来るかも知れない。 だから、解釈の問題として言えば、むしろ羽のような軽い物が同じ速度で落下すると言うことが示せなければならないと考えるのではないかとも感じる。これは、現在の我々であれば真空を作って、真空の中で実験をすればすぐに分かるが、当時の人々にはそれは出来なかっただろう。 アリストテレスは真空を認めなかったとも言われている。真空を認めなかったので原子論にも反対だったと読んだことがある。そのような諸々の知識の総合として、重いものほど早く落ちると言うことが法則として結論されたのではないだろうか。アリストテレスは、哲学者にふさわしく森羅万象に通じて、その広い知識からの判断であらゆることについての命題を残した。ガリレイは、そのほんの一部に対して絶対的に正しい知識を求めた。ここに科学と哲学の違いのようなものが見えるのではないかと僕は感じる。 アリストテレスの考え方が当時の常識になったというのは、それがある意味で理解しやすいものだったからではないかと思う。摩擦力や慣性の法則というものは、感覚的な目で見ることは出来ない。ノーミソの目で見なければ見えてこないものだ。感性的な目には、力を加えて運動している人間の姿は見えやすいが、物質が抵抗している摩擦力や、外から力を加えなければ運動をし続けるという慣性の法則などは、感覚的には分からない。 この常識を越える発想をするには哲学的な視野の広さが必要だというのは、皮肉な現象だと思う。哲学にとどまっていれば、それまでに得られた知識を解釈するだけで普遍的真理を本当に獲得することにはならない。しかし、哲学的に広い知識を求めなければ、それまでに知られたことを越える発想をすることも出来ないと言うわけだ。 人々が、「重いものは軽いものより早く落ちる」と信じていた時代に、そうではないかも知れないと考えるのは難しかっただろうと思う。単なる変人的な思いつきでそう考えるものもいるかも知れないが、哲学的な視野の広さでこのような結論に達するためには、常識的な視点ではない、新たな視点を獲得しなければならないだろう。常識的な世界の外に出る新たな視点だ。 この外に出た視点は、常識から見ると荒唐無稽なものに見えるだろう。実際、多くのものは、単に空想的に世界の外に出ただけの、実質的な基礎を持たない仮説(妄想)の方が多いかも知れない。だが、中にはその視点こそが世界を正しく捉えるものになるかも知れない。 科学においては、その視点の正しさを証明するのが実験というものになる。哲学は、博覧強記で過去の事実をすべて解釈しようとするが、これから起こることについては絶対的に確かなことは言えない。しかし科学は、仮説を確かめる実験を、これから起こることの予想という形で設定する。それは、繰り返し同じ現象が生まれるような事柄に対しての命題という形を取る。 一回きりの歴史的な事実ではなく、何度でも繰り返し起こる、ある意味では歴史性を持たない現象における法則性を求める。それこそが科学が普遍的真理としての性質を持つことの理由だろうと思う。何度でも繰り返し起こることが、任意の対象に対して実験的に成立することが確かめられる。そのような実験が行われたとき、仮説が科学となるのだと思う。 哲学が語る普遍的真理は魅力的だが、それが常に論理の適用範囲を広げて誤謬に陥るという危うさを持っていることを注意しなければならないのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2006-06-21 10:16
| 哲学一般
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