二項対立というものを抽象的に捉えると、それが複雑な構造を持っていて、簡単にどちらか一方を否定するだけでは解決しないものがあるということが分かる。その場合は、否定したと思った一方の側が、意外なところでよみがえって、その時は正しいと思っていた命題が、固定化したことによって間違えると言うことが起こったりする。
認識において、観念的な知識(言語など)によって現実を解釈していくというのは、物質と精神の関係から言うと、精神が先行して物質の存在を確認していくように見える。物質的存在がそこにあるから、それを感覚で感じて精神に反映することで物質の存在が先行しているとは必ずしも言えないような場合が想定出来る。原子の存在の認識などにそれを感じる。 原子は感覚では捉えきれない存在なので、それを観念によって構成するという前提がないと、原子の存在そのものを認識することが出来ないように思われる。ノーミソの目で原子を見るという観念的な前提なしには、原子はいつまでも物自体にとどまると言えるのではないだろうか。 しかし原子は、単に頭の中で空想的に設定したフィクションではなく、その存在を様々な実験で確かめることが出来る。存在を、生の感覚で感じることは出来ないが、ある種の鏡を工夫して間接的にその存在を見ることが出来る。だから、その存在は、観念的な前提を持って問いかけた結果によってもたらされるとはいえ、観念によって作り出されたものではなく、そこにすでに存在していたのだが、それを確かめる方法を人間が得たことによって、物自体から具体的な物になったと言えるのではないかと思う。 観念が先行して存在しないと、積極的な意味での新発見などは出来ない。しかし、ある存在が発見されて、存在が確認されれば、今度はその存在がいろいろな属性を教えてくれる。観念と物質の先行は、どちらか一方に決められるものではなく、具体的な場面ではその状況に応じて先行するものが入れ替わるのではないだろうか。つまり永遠に二項対立が続いて、それが発展していくという理解こそが正しい理解ではないかと思えてきた。 観念と物質とどちらが先行しているかは、観念論と唯物論という、世界の全体性に関わる言明になる。このようにすべての対象を含むような世界全体に関わる二項対立は、どちらか一方に決められるものではなく、永遠の運動として対立し続けるのではないだろうか。それが世界を過程として理解すると言うことではないかと僕には思えてきた。 逆に言うと、世界全体に関する言明ではない、具体的な場面に関わる具体的な二項対立は、その具体性を深く考えることによって、その条件の下ではどちらが正しいかの決着をつけられる二項対立になるのではないかとも考えられる。具体的な条件を考えることが極めて難しい二項対立もあるだろうが、具体的な条件の下での対立の解消という視点で、いくつかの具体的な二項対立を考えてみるのは何かの発見があるのではないかと思う。 神保哲生・宮台真司両氏のマル激トーク・オン・デマンドに衆議院議員の河野太郎氏がゲストで出たときに、年金問題を巡る二項対立について語っていた。河野氏の主張は、年金を保険によって制度維持するのではなく、基礎年金は税金でまかなうという方向で改革していくというものだった。社会保険庁の存続が是か非かという点で二項対立を形作っていた。 保険でまかなうという年金制度が存続するのなら、それを扱う社会保険庁は必要なものということになる。しかし今の年金制度はすでに破綻していると判断するなら、破綻した制度を維持するためだけに社会保険庁を存続させるのは不合理なことになるだろう。問題は、年金制度が破綻しているのか、それとも改善して続けていくことが可能なのかという判断が、二項対立の条件として大きく関わっているように感じる。 河野氏の主張では、年金制度はすでに破綻しているという判断だった。それは人々が年金というものに対する信頼をほとんど持たなくなったという判断から来ている。現行の年金制度では、上の世代の年金を、下の世代の保険料でまかなうという形を取っている。この形が、少子化や年金不払いによって、支出は多いが収入は少ないという状況を生み出している。 この状態では、とるべき道は二つしかない。一つは支出を減らすと言うことで、これは年金支給額を下げると言うことだ。もう一つは収入を増やす道で、これは年金保険の徴収を増やすと言うことになる。どちらの道も、当事者である世代にとってはその利害関係は深刻なものになる。誰もが納得して妥協する道が見出せない。 社会保険庁によればこのほかにも第三の道があるという。それは、年金支給年齢を現行の65歳から70歳に引き上げるというものだ。確かに、これなら支出を抑えることが出来るだろうが、不利益を被る世代が出るのはこの道でも明らかだ。それが、数としては少なくなるから、その世代だけに不利益を押しつけてしまえと考えるなら、もはや民主国家としての資格を失うのではないだろうか。 いずれにしても、現行の年金制度はもはや誰にも信頼されない破綻したものになったと言えるのではないかというのが河野氏の主張だった。これは非常に説得力のある議論だと思った。もはや保険という形での年金制度の維持は不可能だと言えるのではないだろうか。改革の道はない感じがする。そうであれば、保険ではない道での改革を考えなければならない。そうすれば、必然的に社会保険庁は解体されるという形で二項対立は解決されなければならないような気がする。 合理的に考えれば、この二項対立の解決の道は見えてきたような気もするのだが、事はそう簡単に運ばないだろうというのが宮台氏の考えだった。年金制度というものを、年金を受け取るすべての人の平均的な感覚から見れば、このような考察の方向が出てくるだろうが、この制度に利害関係を持っている人間は、その利害に絡んだ方向から存続を図るということが出てくるだろうと宮台氏は考えていた。 二項対立に対して、利害という、ある意味では主観的なものから離れて客観的な合理性を考えれば二項対立が解決するかも知れないが、利害から解放されないときは、その主観的なものの作用で二項対立が維持されて発展していく可能性がある。 しかし、具体的な二項対立は、どこかで解消されなければならないのではないかとも僕には思える。利害という主観から維持されているとしても、その主観が現実にはもはや通用しなくなったときに、劇的な形でそれは破綻して二項対立が解消されてしまうのではないかとも感じる。 そのようなギリギリの場面まで行かなければ二項対立が解決出来ないのか、それとも人間は賢さを見せて、決定的な破壊が起こる前に何とか破綻を回避出来るのか、歴史から学びたいものだと思う。 年金制度の破綻は、今はまだ劇的な形では訪れていない。今までの蓄えで何とか制度が維持されているような感じがする。だから、今の時点でなら、まだ改革の方向はあるのではないかとも思える。河野氏のような賢さがあれば、決定的な破壊を回避出来るのではないかという希望も持てる。しかし、今はまだ大丈夫だから、大丈夫な間は何とか今の制度を維持しようと考えていると、決定的な破綻を迎えるときが訪れるのではないだろうか。 年金制度を巡る二項対立(保険制度で行くのかそれ以外の方法で行くのか、社会保険庁を存続させるのか否かなど)は、いずれどちらか一方が否定されて解消されるのではないかと僕は思う。それは、具体的な存在に関する二項対立だからだ。それが、現実の具体的な結果として決着を見るのか、結果が出る前に、ノーミソの目で見た予想によって判断されるのかは大きな違いがあるように感じる。予想は、まだ現実にはなっていない観念の世界のものだから、「本当にそうなるのか」という疑問が消えることはないだろう。その予想の段階で判断するのは、かなりの賢さがないと出来ないことかも知れない。 年金制度に関する二項対立は、その複雑さが大きすぎて、いきなり考えるには難しすぎるかも知れない。もっと単純な二項対立で、現実の二項対立の解決の方向を見る目を養うことが必要だろう。何か、そのような訓練をするための適当な練習問題がないかというのを探してみたい。 その練習問題をするときには、それがどのような世界観の二項対立と結びついているかを考えるのは役に立つかも知れない。世界観に関わる二項対立は、解消されて決着するのではなく、互いに条件によって正しさが入れ替わっていくだろうと思うから、問題にしている具体的な場面での条件は、二項対立の発展段階では、どの位置にある段階かというのを考えることが正しい判断のためのヒントになるのではないかとも思えるからだ。 あまりにも単純な問題では練習にならないし、難しすぎてもお手上げになるだけで練習にならない。適度に分かりやすく、適度に難しいという問題はないものだろうかと思う。自分の身の回りの二項対立(肯定も否定もどちらも一理あると思えるような主張)の中で、解決可能な問題を探してみたいと思う。思いつくものを箇条書きにしてみよう。 ・健康のためには食事に気をつけた方がいいが、おいしいものを食べたい。 ・たばこやお酒の功罪についても二項対立があるのではないか。それは気分的な安定をもたらすかわりに、生理的な害悪もある。 ・権利や義務の問題。好きなことを優先したいけれども、やらなければならないこともありそうだ。 ・仕事と遊びの問題。仕事は拘束されるイヤな時間だけれど、遊びはそれから解放される楽しい時間というような二項対立はあるだろうか。 ・記憶力と思考力の問題。覚えているだけの知識は役に立たない面もあるが、何も知らないで考えることも出来ない。 ・愛国心(愛郷心)と国際感覚の問題。自分の所属する共同体への愛情と、普遍的人間性に対する思いとの関係。 ・愛情の二項対立。自分が愛情を感じているほど、その対象になっている人には愛されていないのではないかというような二項対立。愛が憎しみに転化する二項対立。 ・親切とお節介の弁証法的な二項対立。善意が必ずしも感謝の気持ちにつながらない二項対立。 とりあえずはこんなことが頭に浮かんできた。
by ksyuumei
| 2006-06-19 09:43
| 雑文
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