偏見からの「構造的無知」が晴れてみると、自分の論理展開がまったく無理な詭弁であることがよく分かる。まさに構造的無知というのは、その本人にはまったく見えないことが、外にいれば容易に見えてくるという構造を持っている。ばかげた論理を展開したものだと思う。
僕は「構造的無知」から、自らの過剰反応に気づかず、むしろ批判する側の方を過剰反応だと思い込んでいた。しかも、その過剰反応は、気に入らない言説を叩くためだけに批判しているのではないかという、被害者意識につながっていた。これも「構造的無知」から来る妄想だ。 被害者意識を持ったことが、逆に僕の攻撃性を増す方向へと働いてしまった。向こうが叩いてくるなら、叩き負けないくらいに叩き返さなければならないと言う感情が生まれてしまったのだ。守るために攻撃するというメンタリティは、男に多いものだろうか。とにかく、そのメンタリティによって、誤解からとはいえひどい言葉を投げつけたものだと思う。人格的な非難を浴びても仕方がないとさえ思っている。その時に悪口雑言を浴びせた方には、たいへん申し訳ない思いを感じて、ただ恥じ入るだけだ。 僕は日常生活では少しも攻撃的な人間ではないのに、被害者意識を感じたときの攻撃性の強さは、今振り返ってみると自分でも驚くくらいだと感じる。僕は個人であり、幸いなことに瀬戸さんの指摘で目を覚まさせてもらったので、それ以上の被害を生まずにすんで良かったと思う。 オウム教団なども、凶悪事件を起こす前は、自分たちが攻撃されているという被害者意識を強く持っていたそうだ。被害者意識が暴発したときに、かえって強い攻撃性につながるというのは、一般的に言えることかも知れない。今の僕には実感としてその怖さが分かる。 今さら言葉だけでお詫びをしても、気持ちの埋め合わせにはならないかも知れないが、せめて自分の誤謬を材料にして、誤謬の研究に資することが出来ればと思う。自分のひどい論理展開も、戯画的なサンプルとして展示しておこうと思う。このような誤謬を起こさないための注意をここから教訓として得たいと思う。 すべては、事実と論理の確認をせずに、気分的な偏見から結論を出したことが誤謬につながっているのだが、論理の間違いとしてもっとも大きなものは、ある命題の正当性を得るためという目的のために論理を使ったことだろう。 論理というのは、現実に存在している正当性を捉えることが出来たときに、論理としても正当性を持つ。しかし、現実に存在しているかどうか分からない正当性に対して、そのつじつまが合うことを目的にして論理を使えば、その正当性が存在しなかった場合は、論理は破綻する。 現実の事実をいろいろ総合して、そこから本当に「フェミニズムのうさんくささ」が結論として引き出せるのなら、論理は間違いを犯さず正しいものになる。しかし、この命題が本当は存在しない偏見に過ぎないものであれば、非存在がいつかは論理の破綻を招く。論理は、あくまでも現実に存在するものからの結論という形で引き出さなければならなかった。 これは論理を学んできてよく分かっているはずなのに、この問題では、現実に存在しない偏見を出発点にして、演繹的に論理を展開してしまった。相手が数学のような形式論理なら、それでも形式を踏み外さなければ真理に到達出来るが、現実存在を対象にするようなときは、現実存在が少しでも設定した目的と違う面を見せれば、その時点で演繹は破綻する。 今から冷静に振り返れば何でもなく分かることがその時にはまったく分からなかった。これが本当の「構造的無知」というものだろう。まったく恐ろしいものだ。僕は瀬戸さんの言葉で「構造的無知」に気づいたが、それに気づくことは大変だろうと思う。何しろ、瀬戸さんと同じように指摘している人は他にもたくさんいたのに、その批判ではまったく目が覚めなかったのだから。 これは、敵対している論者とは、互いに攻撃をしているのであって、相手が攻めてきていると言うことしか認識していないからではないかと思う。ところが、瀬戸さんに対しては、僕は大きな信頼感をおいていたので、瀬戸さんが単純に攻撃だけをしてくることは無いという思いがどこかにあった。だから、瀬戸さんに、同じようなとげとげしい攻撃的なエントリーを送った後、何でそんなことをしているのだ、という思いが突然頭に浮かんできたのだった。 あのまま瀬戸さんにまでとげとげしい言葉を投げて終わっていたら、僕はばかげた論理を使って沈没する運命をたどっていたことだろう。瀬戸さんのおかげで僕は誤謬から救われたという思いがする。瀬戸さんのような人物がいてくれたことが、偏見の中にはまりこんで抜けられないと言う最悪の状態を免れさせてくれた。 偏見の中で沈没しそうな人に、瀬戸さんのように手を差し伸べてくれる人間がいると、その人間はもしかしたら偏見から抜け出せるかも知れない。ひどい言葉を投げかけてお騒がせした本人が言えた義理ではないのだが、偏見を持った人間を批判するだけではなく、そう言った救い出す人物もぜひ増えて欲しいものだと思う。 『フェミニズムの害毒』を書いた林道義さんだって、瀬戸さんのような人が近くにいたら、きっと偏見から抜け出せていたのではないかと思う。林さんはそれほど悪い人間じゃないと僕には思えるからだ。 林さんも僕も、ごく普通のリベラルな中高年だ。封建的な思想を持っているわけじゃないし、権威主義者でもない。その普通の人間が、なぜ偏見に陥るか、そしてその偏見をどうして強化させていってしまうのか、誤謬論はそこを解決しなければいけないんじゃないかと思う。 僕は、僕の身近に、暴論を吐くようなひどい自称フェミニストがいたわけではない。そのような被害を直接受けたわけではないのに、どうしてフェミニズムに対する偏見を持ってしまったのだろう。 僕が過剰反応だと受け止めて、それを攻撃だと被害者意識を持ったのは、フェミニストは、そう言う自説にとって気に入らない男は叩いて回るのだと、僕の持っている偏見からそのように考えてしまった。そんなことはまったく事実として確かめたわけでもないのに、僕は無意識のうちにそんな判断をしていたことを感じる。 僕の中に、どうしてそのような偏見が生まれてきたのだろうか。僕の特殊な条件がその偏見と結びついているのか。それとも、一般的に僕のような状況は多くあって、そのような偏見に陥る可能性は高いのかどうか。誤謬論として考察する値打ちがあるのではないだろうか。自分のことを棚に上げてこんなことを考えて申し訳ないが。 一つ思いつくことがあるので考えてみたい。それはある種のトラウマ経験が偏見につながっているのではないかという仮説だ。それがトラウマであるだけに、心に対する影響が大きかったのではないだろうか。この次に考えてみたいと思う。
by ksyuumei
| 2006-05-23 23:37
| 雑文
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