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ラカンの言説の一流性 2

内田樹さんは『他者と死者』(海鳥社)の中で、「わかりにくく書く人には二種類がある」と語っている。一つは「難しいことを言うことが知的威信の一部だと思っている人々」だ。これは、自分がいかにものを知っている賢い人間であるかを示すために難しく書こうとする。難しいことが賢いことの証明になると思い込んでいる人だ。

これは、本多勝一さんが、かつて「お勉強発表会」と呼んだような文章になるだろう。本題とは関係のない知識をずらずらと並べ立てるような文章だ。それは、おそらく本人もよく分かっていないのだろうが、どこかからコピーしてきた文章をちょっと加工しているのかも知れない。

それに対して、三浦つとむさんや板倉聖宣さんの文章は、極めて平易な語彙の言葉を用いて本質を語るという工夫を凝らしている。そのような文章は、分かりやすくしかも本質を外さないという一流性を持った文章になっている。僕は、三浦さんの文章で弁証法の本質を知り、板倉さんの文章で科学の本質を知った。




内田さんは、「お勉強発表会」的な文章は、「こういうものはさらっと読み流しておけばよろしい」と語り、もう一つのわかりにくい文章に言及している。それは、次のような属性を持った文章を想定している。


「もちろんレヴィナスやラカンの難解さはそのような装飾的難解さではない。この人たちがあえて「何が言いたいのか分からないように書く」のは、彼らの側に「言いたいことがある」というよりはむしろ、読者に「何かをさせる」ためである。」


この、もう一つのわかりにくい文章の指摘で重要なのは、そのわかりにくさは、結果的にわかりにくくなっているのではなく、「あえてわかりにくく書いている」ということではないかと思う。このような前提を設定すると、その内容については、書き手はよく知っているのだが、それを表面的に伝えることが目的ではなく、深い本質的なものを伝えるために、あえてわかりにくく書いていると解釈しなければならなくなると思う。

この解釈が当たっていると思えるには、その深い真理を受け止めることが出来なければならない。もし深い真理を受け止めることが出来ず、結局は分からないままで終わるのであれば、それは「お勉強発表会」的な文章とあまり変わりがない。単に博覧強記をありがたがるだけになってしまう。

だから、どんなにわかりにくい文章であろうとも、結果的には分かるように書いていなければ、それは表現としては無駄になってしまう。ラカンの文章は果たしてそういうものになっているのだろうか。コンパクト性を語った文章は、それが間違っているという読み方しかできなかった。そこに含まれている深い真理というのはどういうものなんだろうか。

もし、単にわかりにくいだけで、そこに深い真理が含まれていなかったら、文章表現能力がないだけだという評価になるかも知れない。子供の直感力のように、単純素朴に対象を見ることが出来た方が、本質に近いところを探し当てられているだけなのかも知れない。果たしてラカンが語ることの中に、深い真理が含まれているのだろうか。これが、ラカンの言説の一流性を判断する鍵になるのではないかと思う。

ラカンは、精神分析の世界で巨大な影響を与えた人だから、その言説に深い真理が含まれているだろう事は予想出来る。しかし、実際にその深い真理を見つけることが出来なかったら、この予想を確認することは出来ない。内田さんの解説によってそれを見つけることが出来るだろうか。『他者と死者』の中からそれを拾ってみようと思う。


「<他者>の欲望は、主体によって、何かうまく収まらないものとして、<他者>のディスクールの欠如として、捉えられます。子供の発するあらゆる「なぜ?」は、物事の理由を求める貧欲さを証言しているというよりも、むしろそれは大人を試すもの、すなわちいわば「なぜそのことを僕にいうのか?」という問いなのです。」


このラカンの文章は、数学について語った文章に比べれば、それほど難しいものではない。「ディスクール」という専門用語の難しさはあるものの、その定義が明確であれば、この文章の意味はある程度明確に読みとれる。

この文章は、子供の「なぜ」という問いは、対象の属性の理由を求める「なぜ」ではなく、大人がその発言をする理由を問う「なぜ」なのだと理解出来る。これは、体験を振り返ると、この解釈が当たっているのを感じる。子供に対して、例えば何かを禁止するのに、ある場所に行ってはいけないなどと言う。その時に「なぜ?」と聞かれたとき、危険だからと答えても子供は余り納得出来ないように見える。

それは、危険性を正確に理解出来ないと言うことがあるのだと思うが、「おまえのことが心配だからだよ」とでも答えると、子供はむしろ納得するような感じがするのだ。子供というのはまだ世界が狭く、客観的に物事を理解することが難しい。だから、物事の理由を論理的に納得することは難しいだろう。それよりも、物事の理由を、すべて自分に引き寄せて考えた方が納得出来るのではないか、という解釈は腑に落ちるものだ。

この問いの形式は、「子供のディスクール」と名付けられているようだが、このことについては整合的に理解出来る。余り難解さは感じない。しかし、それだけに、このことが深い真理かと問われると、まだそれほど深くないとも感じる。

上の文章では、「<他者>のディスクールの欠如」という言葉が、受け取りとしては難しく感じる。ここに深い真理が隠されているのだろうか。これは、果たしてどのような対象を、どの角度から捉えて、このような判断に結びついているのだろうか。

「ディスクール」は、辞書的には「言説」と訳されているようだが、一般的な意味として使うのであればわざわざカタカナにすることはないだろう。ここに学術用語として表現されている特別な意味の本質はどこにあるのだろうか。内田さんは、この文章の解説に次のようなことを書いている。


「ご承知の通り、子供は大人の長説教の途中で、不意に苛立って、「だから何が言いたいの?(So what?)」という痛烈な反問を挟み込んでくることがある。子供がこのような問いを発するのは、子供が大人たちの語る言葉の表層的な語彙の下に、「言葉に出来ない欲望」が潜んでいることを直感するからである。」


ここに書かれていることもよく経験することで、想像も出来るし納得も出来る。大人が、その場所は危険だから行ってはいけない、と説明するとき、子供がそれに何か納得出来ないものを感じると、それは大人の「欲望」(これは、子供に対する要求とでも解釈したらいいだろうか)を裏に感じているからだ、と解釈出来る。この要求をはっきりと言わず、表向きの理由を言うことを「<他者>のディスクールの欠如」と呼んでいるのではないだろうか。

だから、本当の理由としての要求を教えてくれ、という意味で子供は「なぜ?」を発するのだという解釈に結びついていくだろう。この知見は、僕は深い真理を感じる。なぜなら、「<他者>のディスクールの欠如」は、実際には表に現れないので確かめようがないのに、確かにそれを感じる心があるのが分かるからだ。現象ではなく本質を捉えているような感じがする。

このような経験は教員をしていると日常茶飯事的に感じる。教員は、生徒に対して何らかの禁止をすることがかなり多い。そして、生徒はそれがなぜ禁止されるのかという理由を求めることも多い。その時に教員の本音としては、それを禁止しないと世間の目があるのだと言うことが圧倒的に多いのだが、それは正当な理由になっていないと言うことも感じる。これは、とにかくおまえにそれをして欲しくないのだ、という教員の側の「欲望」が理由になっているからだ。

この「欲望」を直接語ることが出来ないので、生徒にとっては教員の言葉は、「<他者>のディスクールの欠如」として感じられる。教員の表層的な言葉の裏には、「言葉に出来ない欲望」が確かに潜んでいるのを僕は感じる。これは、自分の仕事の正当性を感じていたいという欲望と一緒になると、この「<他者>のディスクールの欠如」は「構造的無知」になり、気づくことが出来なくなる。そうすると、生徒の反抗は、「<他者>のディスクールの欠如」に対する反抗であるのに、学校という社会に対する反抗としての、生徒個人の悪しき資質として解釈されてしまう。

また、このような現象に「子供のディスクール」という名前を付けたラカンは、もう一つ深い真理をも語っている。内田さんは、この問いの形式によって、大人の側は「<他者>のディスクールの欠如」を自覚するきっかけとすることが出来るが、子供の側の問いは、本当に「<他者>のディスクールの欠如」をついているのだろうかという疑問も提出している。子供はそこまで深く考えているのではなく、直感的に納得出来ない気持ちを正直に語っただけではないかと考えているのだ。

「子供のディスクール」は、外から眺めているメタ的な視点からは、「<他者>のディスクールの欠如」という知見をもたらしてくれるが、その中にベタに生きている子供自身は、無意識のうちにそのような行動を取っているだけではないかというのだ。だから、大人の側は、「<他者>のディスクールの欠如」を常に反省して子供に対する必要もないのではないかとも思える。

ある場面では、子供が納得出来なくても禁止を押しつけて、判断力がある大人の指導に従うことが正しいのだという態度をしても良いのではないかとも思える。もちろん、それだけで押し通すのではなく、ある時は「子供のディスクール」に答える姿勢も必要だろう。画一的ではなく、状況に応じて対処していくことが、弁証法的に考えれば正しいのではないかと思う。ただ、それを正しく行うことは極めて難しいだろうが。

もっとも望ましい方向は、教員の側が「<他者>のディスクールの欠如」を意識的に応用して、臨機応変に生徒に対処していき、もし失敗したときでもそれを反省出来る観点を持つことではないだろうか。そうすれば、常に正しくなくても大きな失敗を免れるのではないかと思う。現実的な対処としては、大きな失敗さえしなければ、小さなミスは取り返しがつくのではないかと思う。

現象を表面的に捉えるのではなく、表に現れないところも認識出来、行動の指針にもなるような発想は、深い真理を語っているものだと思う。内田さんが引用したラカンの言葉は、ひどく分かりにくいものではない。むしろ、その論理的な理解が出来るものだ。だから、ラカンの文章について、ちゃんと理解出来たときは、そこに含まれている深い真理が伝わると言ってもいいのではないかと思う。ちゃんと理解出来ないような文章で、それこそがもっと深い真理を読者に考えさせるものになっていると思えるようなら、内田さんのラカン解釈は正しいのではないかと思う。果たしてどうなっているだろうか。
by ksyuumei | 2006-04-23 10:18 | 雑文


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