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ラカンの言説の一流性 1

はてなの日記「■[雑文]難解な文章について」に、わどさんからコメントをもらった。それに対する返事として僕は次のようなことを書いた。


「大江源三郎氏の文章がわかりにくいのは、4つほどの仮説が考えられます。1つは、大江氏が、情緒の人で、論理よりも情緒が先行してしまうので、より情緒的に強く感じたものから順に表現してしまうため、論理性が失われてしまうという可能性です。
2つ目の可能性は、基本的な文章表現能力の問題です。分かりやすいという技術的なものを持っていないために分かりやすい文章が書けないと言う単純な理解です。
3つ目は、ワザとわかりにくく書くという意図的なものです。内田樹さんによれば、読者に対する気づきを喚起するための技術として、ワザとわかりにくく書くという事があるようです。大江氏もそのようにしていると考えると、文法的には間違っていないけれど、わかりにくく書くという事があるかも知れません。
4つ目は、非常に複雑で難しい対象を記述しているために、その複雑さが表現にも現れてきてわかりにくくなっているという理解です。これは、その意味を分析的に理解することも難しくなります。
以上4つの可能性が考えられますが、僕は、情緒の問題が一番大きいのではないかと思っています。僕の理解が当たっていれば、大江氏が語る対象そのものは決して難しいものには思えないからです。もし僕の理解が当たっていないなら、それはどの予想が正しいかまったく分かりません。」




この4つの仮説は、他のわかりにくい文章を考えるときにも立てられるのではないかと思った。『「知」の欺瞞』という著書で語られているラカンのわかりにくい言説についても、上の4つの観点からの仮説のどれが当たっているかを見るのは面白いのではないかと思った。

『「知」の欺瞞』で批判されているラカンは、これに5つ目の仮説が加わるような気がする。それは、自分自身でも良く理解していないことについて語っているので、よく分からないものをそのまま書くことになっていて、そのために分からない文章になっているというものだ。

これは肯定的に評価される場合と否定的に評価される場合がある。先駆的に時代を追い越しているような言説は、その時代においてはよく分からないことを語ってしまうので当然分からないことを分からないまま書くことになる。しかし、これは先駆性という点で高く評価出来る。たとえ分からないままでも、それを表現することにこそ意義がある。「進化論」が異端だったころのダーウィンは、それを記述することに意義があった。

しかし、そのような先駆性を持たず、真理であることの認識が出来ていないことを示す、能力の欠如をさらけ出しているだけの言説は、単に間違えているだけだという否定的な評価をされる。ソーカルとブリクモンのラカン批判は、数学に限って言えばこのようなものだという指摘だ。ラカンは数学をちゃんと理解していない。だから自分によく分かっていない概念をそのまま使って記述するので、数学が分かっている人間にはもちろんのこと、数学を知らない人間にも意味不明の記述になっている、という批判だ。

この批判はおおむね当たっているだろうと僕は思う。『「知」の欺瞞』で引用されているラカンの文章は、何を言いたいのか、数学的に考えてさっぱり分からない。だから、これは数学的に受け取ってはいけないのだと思う。ラカンは、数学用語を使うべきではなかったと僕は思うが、それでもあえてラカンの真意を受け取ろうと思うなら、ラカンの言葉と数学とはまったく無関係だという前提でそれを受け取り、ラカンが見ていた対象を数学と関係なく見ることに努めなければならないと思う。

このような努力をして、ラカンが見ていたものを同じように見ることが出来て、しかもそこに現象に隠された深い真理を見ることが出来るなら、ラカンが語った言説は一流のものだと評価出来るだろう。しかし、どんなに考えてもそれが見えてこないのであれば、自分自身にそれを見るだけの能力がないのか、ラカンが全くのばかげた戯言を語っていたかのどちらかだ。

そのどちらが正しいのかは即断は出来ない。しかし、内田さんはラカンを高く評価しているので、その内田さんの解説を見ながら、ラカンの一流性を考えてみようとも思う。これは『他者と死者』という著書を参考にしながら考えてみようと思う。

その前にラカンの文章から浮かんでくるものをちょっとメモしておこう。『「知」の欺瞞』の中から、次の所を引用して考えてみようと思う。


「やがて出版される論文において、その論文は昨年の私の言説の最先端を示すものなのだが、私はトポロジーと構造の厳密な等価性を証明したと信じる。この等価性を我々の指針にするならば、人が享楽として語るものから匿名性を区別するもの、すなわち、法=権利によって規制されているもの、それは一つの幾何学だ。幾何学は、場所=軌跡の不均質性である。つまり、他者の場所=軌跡があるということである。他者のこの場所=軌跡について、絶対的他者としての一つの性について、特に最近のトポロジーの進展から我々は何を提唱することが出来るだろうか?
 私はここで「コンパクト性」という言葉を提唱するつもりだ。断層[faille]以上にコンパクトなものは無い。そこに包含されているものすべての共通部分が無限の数の集合の上に存在するものとして認められるとき、当然の帰結として、その共通部分がその無限の数を含意する、ということが明白であるならば--。これこそコンパクト性の定義そのものだ。」
(Lacan 1975a, p.14, Lacan 1998, p.9)


これは、翻訳文でもあり、大江氏の文章のような文法的なわかりにくさは余り無いだろうと思う。しかし、これを読んでもさっぱり分からない。意味を受け取るときの<対象-認識-表現>の過程的構造において、<対象-認識>へのつながりがまったく断ち切られているからだ。ラカンが、どんな対象を見て、どのように認識したのかがまったく分からない。

「トポロジーと構造の厳密な等価性を証明した」
「一つの幾何学」=「人が享楽として語るものから匿名性を区別するもの」
        =「法=権利によって規制されているもの」
(この等式の条件は、「この等価性を我々の指針にするならば」というものがある)
「幾何学は、場所=軌跡の不均質性である」
(「幾何学」=「他者の場所=軌跡があるということである」)
「断層[faille]以上にコンパクトなものは無い」
「コンパクト性の定義」=「そこに包含されているものすべての共通部分が無限の数の集合の上に存在するものとして認められるとき、当然の帰結として、その共通部分がその無限の数を含意する、ということが明白である」

というようないくつかの主張が、ラカンの文章からは読みとれる。しかし、この主張が何を意味するかが、まったく頭に浮かんでこないのだ。この主張のうち、最後の「コンパクト性の定義」については、「まったく違う」「ラカンのコンパクト性の「定義」は、単に間違っているという代物ではない。意味不明なのだ」と、『「知」の欺瞞』では語っている。僕もそう思う。

コンパクト性というのは、位相空間において、それが開集合に被覆(集合的に含むような合併集合を作れる)されるとき、任意の(どんな)被覆を取ってきても、その中の有限個を取ってくると被覆出来るという性質を指すものである。共通部分について語っているのではない。

またそれが無限集合になるかどうかということは、コンパクト性の定義では語られていない。ただ、位相空間というのは、数における解析的な面をさらに抽象化して、極限の概念を抽象するものなので、無限集合における考察というのは重要になる。位相空間が無限集合になっていて、それが無限の開集合で被われていた場合、無限という性質は、開被覆の数によって保存されている。

それが、有限個の開被覆で被われるとしたら、無限という性質からは、少なくともその有限個の開被覆の一つは無限集合でなければならないという論理的な帰結が導かれる。しかし、この無限集合は「共通部分」であるかどうかは分からない。少なくとも一つの無限集合が存在するというのは、「当然の帰結として」考えてもいいだろうが、共通部分が無限集合になるということは、「当然の帰結」ではないのだ。

ラカンは、コンパクト性について間違って考えているが、この文章で見ていた対象は果たしてどういうものだったのだろうか。ラカンは、精神分析学での業績を評価されている人だから、これは心を語った言説だと理解した方がいいのだろうか。人間の心には、無限の要素を含む共通部分があるのだと主張しているのだろうか。

人間の心の全体を考えれば、そこには可能無限としての要素が含まれるとは考えられる。どんなことでも、考えるだけなら出来そうな感じがするからだ。常に新たな考えが生まれてくるという可能性をはらんだ無限というのは考えることが出来る。しかし、それが必ず、共通の基盤から生まれて来るという「共通部分」を持つと言うことは、すぐには分からないことのように思える。

それをラカンは証明して確信したと言うことなのだろうか。ラカンが多くを語っていないので、それ以上の理解には進めない。だから、まだこの主張はやはり分からない。対象を深く考えて、自分でも整合的にそのような結論が導けるという理解の仕方が出来ないのだ。そう解釈することも出来るかも知れない、という仮説の段階といったらいいだろうか。しかし、この仮説にしても、ラカンが本当にこんな事を考えていたのかどうかはさっぱり分からない。多くを語らないからだ。

内田樹さんは、ラカンは分からないところに価値があるといっているように見えるが、確かに、分からないからそれを考えるというきっかけにはなる。しかし、考えてみても結局分からないと言うことになると、分からないと言うことだけが価値だとは思えなくなってくる。ちょっと考えると分からないが、よく考えれば分かるというものがやはり価値があるのではないかと僕は思う。果たしてラカンはそういうものになっているのだろうか。考えてみたいと思う。
by ksyuumei | 2006-04-22 15:27 | 雑文


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