江川さんの一流性について書いたエントリーにトラックバックがあったので、それをたどって、江川さんがドラクエについて語ったというインタビューを読んでみた。それは一部を抜き出したようなものだったので、どのような文脈で語られているかが分からなかった。しかし、これを読んでみると、江川さんが嫌われるという理由がよく分かる。
江川さんは、「ドラクエ・FFのようなRPGやる奴はバカ」と言う発言をしたようだが、これを「自分とは趣味が違う」という程度に薄めて語っていればよいのに、正直に感想を語るから反発を受けるのだなと思った。まあ、あえて反発を買うような言い方をしているのかも知れないが、江川さんの場合は計算よりも正直さの方が先に立っているような感じはする。 宮台真司氏などは、相手の反応を見るために、あえて挑発すると言うことがあるのを感じるが、江川さんは、挑発する必要もないところで挑発するような言葉を言うことがあるので、これは正直さのあらわれではないかとも思う。宮台氏は、マル激の議論などを聞いていると、その誠実さと穏やかさを感じるので、本質的にはそのような人だと思う。しかし、あえて挑発することで何らかの気づきを感じさせるというねらいがあって、極論を語ることがあるような気がする。 江川さんの場合も、テレビに登場するときは、キャラクターを演じるという意味で挑発的になることがあるかも知れない。その時は、テレビに迎合的になるかも知れないので、かなり二流性を発揮するかも知れない。このインタビューの場合は雑誌のもののようだから、そういうテレビに迎合する時とは違い、正直な気持ちが出てしまったのだろうと思う。 これが文脈的に、ゲームそのものについて評論したものだったら、ゲーム評論の一流性という観点から批判することも出来るだろうが、単なる感想を語ったものなら、そう感じる人もいるんだなと言う程度で受け止めていればよいのだと思う。もっとも、ドラクエが好きな人は、このような言い方をされると感情的な反発をしてしまうだろうから、不人気になることは間違いない。 ただ、このような単なる感想を語るときも、論理的には首尾一貫しているのだなと言うことを僕は感じる。ゲームの世界というのは、その内容の一流性に関係なく、あらかじめプログラムされている世界として予定調和的なマトリックスの世界として存在する。それは一度手順を知ってしまうと、あとは同じ事の繰り返しになってしまう。 江川さんは、「必要なのは努力のみじゃないですか」という感想を書いているが、ドラクエでの展開が、予想外のものとの出会いから何かを考えていくという面が感じられないという感想を語っているのだと僕は理解した。マトリックス世界に浸って、それを外から眺める視点を持たない人間に対して、江川さんが「バカ」という言葉を当てはめているとしたら、ドラクエに浸っている人に対して、論理的には「バカ」と言わざるを得ない。 これを「バカ」と言わずに、「趣味が違う」という言い方をしていれば不人気になることはないのになと思う。予定調和的なものを嫌うという感性は、宮台真司氏にもあるのを感じる。宮台氏は、「ブロークバック・マウンテン」について、「出来の悪い少女マンガ」という比喩をしていた。これは少女趣味のセンチな映画というような感想になるだろうが、この映画が気に入った人にとっては感情的にカチンと来る言い方だろう。これなども、本質的には趣味の違いに過ぎないのだが、それに賛成出来ない人にとっては頭に来るかも知れない。 しかし、感性の世界にさえ論理が首尾一貫しているというのは、ある意味では僕は趣味が合うというのを感じて、このような二人を僕は高く評価する。ただ、上で読んでみたインタビューは、やはりそれが語られている文脈が分からないので、全体的な評価というのは難しい。それに比べると、『現実はマイナーの中に』という本で語られているインタビューは、文脈から理解出来るので、江川さんの一流性を判断するには、より多角的な角度から考えることが出来るだろう。 この本の中で、江川さんは土着的なオリジナリティーを持っているという点で水木しげるを高く評価している。そのエピソードの中で、次のようなものを語っている。 「以前、誰かに聞いた話だけど、宝塚でゲゲゲの妖怪のシリーズをやったそうです。そうしたら手塚治虫が、「私の宝塚で妖怪みたいな変なことをやってくれるな」と水木しげるに怒ったというエピソードがある(笑)。やっぱり手塚治虫はダメですね。まさに「脱亜入欧」で、すごく象徴的なエピソードだと思います。」 ここでもある意味では短絡的に「手塚治虫はダメですね」と語っているので、手塚治虫が好きな人は、ちょっと感情的に引っかかるだろう。僕も手塚治虫は好きで、江川さん的な表現を使えば、たとえ西洋のパクリであっても、パクリとして一流だと思っている。だが、江川さんのこの言い方には感情的に反発は感じない。 そういう見方もあっていいと思う。これは趣味の違いに過ぎないのだから。江川さんは、土着的なオリジナリティーの方があくまでも価値が高いという前提を置いているのでこのような論理的な帰結が導かれてしまうのだと思う。僕が江川さんとの違いを感じるのは、むしろ水木しげるに対する評価の観点だろうか。 江川さんは、水木しげるに対して次のように語っている。 「そういう矛盾点が非常に少ないのが水木しげるで、彼はこういってはなんですが、すごく頭のいい人ではないと思うんですよ。小利口ではない分、潜在意識が80%くらいの人です。手塚治虫や白戸三平などは、従軍していないじゃないですか。彼は従軍して戦争をリアルに体験している。しかも、ニューギニアかどこかへ行って腕を無くしたり、現地人と仲良くなったり、本当に体験してやっている人なので、描くマンガにも非常に日本のローカル的な部分が残っています。そういった意味で、水木さんは日本の漫画界の宝だと思います。」 江川さんは、水木しげるの正直さを高く評価し、正直だからこそオリジナリティーを押し出せたのだと言うことを評価している。しかし、これは、結果的にオリジナリティーに結びついているから評価されるだけであって、日本的な土着世界というマトリックスの中でとどまって、外に出ていないという点では、西洋のパクリの世界にとどまる手塚治虫と立場的には同じではないかと思える。 だから、江川さんが水木しげるが好きで、手塚治虫にはそれほどの魅力を感じないのは、やはり趣味の違いというものだろう。より本質的には、日本では西洋のパクリの方が受けるのだが、あえて土着的なオリジナリティーを出した方が、マンガとして質の高いものが出来るのだという意図を持って描く方が、より一流の漫画家と言えるのではないだろうか。 僕は、創造性というものを評価するときに、無意識の天才性で創造したというものよりも、意図的に計算して作った方を高く評価したいという趣味がある。感動を呼ぶ芸術というのは、無意識の底からあふれ出てくる感性の方が大事だという視点を持っている人もいるだろうが、結果としての芸術作品を評価するのではなく、「創造性」という作者の資質を評価するという面では、僕はどれだけ意図的に計算されていたかという方を重視したいと思っている。その作品がどのように鑑賞されるかを、どれだけ深く考えて作られているかで、作者の「創造性」が高いかどうかを見たいと思っている。 江川さんは、自分の作品に対して、正直に自分自身を出してしまえば売れなくなるので、売れる要素を入れながら、徐々に自分を出していき、ある程度売れてしまえばあとはどうとでもなれという感じで、最後は自分自身をさらけ出して理解不可能な展開になって不人気になると言うことを繰り返しているとも語っていた。これはかなり計算された「創造性」だと僕は感じる。 江川さんは、水木しげるのように正直になれないという点で、売れると言うことに重きを置いている自分自身を、手塚治虫と同じ苦悩を持っているとも感じているようだ。しかし、自分が主張したいことをベタに出してしまえば誰も読まないかも知れない作品に対して、二流性を盛り込むことによって売れるマンガにし、それによって自分の主張をより広く展開するというのは、僕にはかなりの一流性に感じる。 実際に江川さんの作品のいくつかは、かなりの売れ方をしたらしいから、どのような描き方をすれば売れるかという技術にかけては一流のものがあるのだろうと思う。二流性をあえて盛り込むという一流性という逆説的な、弁証法的な性格がそこにはあるようだ。 僕は、趣味から言えば江川さんが持っているような一流性の方が好きなのだが、江川さんは、水木しげるの一流性に比べると自分は劣っているのではないかと思っているようだ。 そこで最近気にかかっているのが、『バカの壁』というベストセラーを書いた養老孟司さんだ。僕は、この本がベストセラーになったと言うことで、この本の二流性の面にだけ注目していた。他のベストセラー本と同じように、この本には二流性の匂いを強く感じたからだ。 しかし、僕が高く評価する内田樹さんは、養老さんを高く評価している。その評価の根拠がどこにあるかというのが分からなかった。脳科学では専門家かも知れないが、その専門知識を他の分野にもベタに当てはめて、恣意的な感想を撒き散らしているだけではないかと僕は思っていたからだ。 内田さんは、自らも語るように、狭い専門分野ではエキスパートではないが、いろいろな現実の対象を組み合わせて語ることについてはエキスパートであると自負している。僕もそう思う。それは、江川さんと同じように、論理的には首尾一貫しているから、どの対象を語ろうとも基本が揺れないからだと思っている。 その内田さんが評価する養老さんも、同じように基本が揺れない人なのだろうか。それにしてもベストセラー本の言説は、二流性の匂いが強く感じられる。また、それだからこそあれだけ売れたのだという気もする。 この疑問を解消する一つの鍵は、養老さんが、売るためにあえて二流性を装ったという解釈だ。本質的に自分の言いたいことは隠しておいて、それを広くアピールするために、売れる部分を前面に押し出したと考えると、表面的には二流に見えながら本当は一流であるという評価が出来るかも知れない。それを、二流の面しか見えなかったのは、深いところでの一流性を見抜けない、自分自身の二流性を反映してしまったと言えるかも知れない。養老さんについては、そのような観点でもう一度見直してみようかと思っている。
by ksyuumei
| 2006-04-20 09:20
| 雑文
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