板倉さんの『科学はどのようにしてつくられてきたか』は、次の話題として植物を取り上げる。「大地・球形説」や「地動説」のような天文学に関するものは、いかにも科学というイメージが出来るのだが、植物に関するもので科学的真理というとどのようなものが頭に浮かぶだろうか。普遍的な法則性というものがなかなか浮かびにくいのではないかと思う。
植物というと、何か分類をして知識を増やすというようなイメージが強い。ある植物がどのような花の形をしているか、その数は何枚か、あるいは葉に特徴があるのか、という博物学的な関心が強いのではないかと思う。これは、残念ながら科学という感じはしない。いくら正しい事実であっても、そこに普遍性・一般性が感じられなければ科学とは思えないのだ。 武谷三男さんは、かつて物理学の発展を分析して、<現象論的段階><実体論的段階><本質論的段階>という三段階の発展をするという「三段階論」を提唱した。これは、物理学に限らず、科学においてそのような発展の過程を経るのではないかと思われる。そして、<本質論的段階>こそがもっとも発展した科学の姿だろうと思う。 植物を観察して、その記録をするのは<現象論的段階>に属するものだろうと思う。そして、この観察された現象に共通する「実体」を求めることによって、<実体論的段階>に上昇するのではないかと思う。板倉さんの指摘では、「呼吸」「栄養」「生殖」というものを取りだしている。 これら3つの現象において、どのような器官が、どのような働きをしているかということが、「実体」を解明することになる。板倉さんの本では次のような記述がある。 「植物も動物と同じように呼吸しています。動物は口から空気を吸い入れるのですが、植物は葉の裏などにある<気孔>という孔(あな)から空気を取り入れるのです。 また、植物も動物と同じように生長して大きくなりますが、それは体外から栄養分を取り入れるからです。動物の場合は口から食物を取り入れるのですが、植物の場合は水その他の栄養分を根から吸い上げます。しかし、植物は根から養分を吸い上げればそれで成長に十分かというと、そうではありません。 実は植物の栄養の大部分は根からではなく、葉から取り入れられているのです。植物はその葉の裏側にある気孔から空気中の二酸化炭素(炭酸ガス)を取り入れ、太陽光線と水の助けを借りて、それを「消化」して、自分の体を大きくするのに使っているのです。 また、普通の植物は花を咲かせて、実をならせ、その実の中のタネを四方に散らして、仲間を増やしています。実が熟し、タネが出来るには、花の中のオシベの先の黄色い粉(花粉)がメシベの先(柱頭)につかねばなりません。花粉がメシベの先につかないと、花が咲いても実がならないのです。」 ここでは<気孔>という実体の働きが語られている。この<気孔>に対しては、葉と呼ばれる対象なら何でも(任意のものについて)成立する働きが求められている。ここに科学的真理が見られる。また<根>や<オシベ>、<メシベ>という実体に対しても、それが抽象されて普遍的・一般的な性質として語られることによって科学になっている。 まったく個別的な博物学的知識から、このような共通な実体を取り出して抽象することにより、それが普遍性(任意性)を持って科学的真理となるという過程がここには見られる。しかし、この普遍性は限定された普遍性であることに注意しなければならない。これらの働き(性質)は、あくまでも植物という限定された対象に対して成り立つことが確かめられただけなのである。これが、植物という限界を超えて他の対象に対して、アナロジーとして発想をするのはかまわないが、直ちに同じことが成り立つと短絡的に結論してはいけない。 科学は、あくまでも限定された対象(これが「科」になる)に対して成立するのだと言うことを忘れてはならない。これら「実体」の間に成り立つ法則は、「実体」が現実に存在する対象だけに、それを検証する実験も工夫することが容易だろう。それでは、実体を持たない対象に対して言えることはないだろうか。例えば、「生殖」そのものは、何かそう呼ばれる実体があるのではない。それはある種の行為がそう呼ばれている。 この「生殖」については、「生殖行為がなければ実(タネ)はならない」という法則がある。これは「実体」間に成り立つ法則と違ってなかなか発想することも難しく、隠された本質を表すものと考えられる。武谷さんが語る<本質論的段階>と呼べるような科学的真理ではないかと思う。本質とは、最高度に抽象された対象に関して言えるものではないかと考えられる。 この本では語られていないが、板倉さんは「花と実」という仮説実験授業の授業書を作った。これは、植物の実(タネ)がなるには、必ず生殖行為がなければならないという真理を確かめる授業書だ。 この授業書では、普通我々が感覚的に「花ではない」と感じているものが、実は生殖器である<オシベ>や<メシベ>を持った「花」であることを学ぶ。言葉を言い換えれば、普通我々が感覚的に「花」だと思っている、「きれい」とか「華やか」とか言う属性を持った定義ではなく、「生殖器を持っている」という新たな定義で、「花」という言葉を言い換えるというのが、この授業書のねらいでもある。 この授業では、「花」の科学的概念を学ぶのだと言ってもいい。しかし、ここで論理的に引っかかりを感じる人もいるのではないかと思う。それは、「花が咲いた後に、そこで行われる生殖行為によって実がなる」という主張において、「花」という定義が今までのイメージと変わっているからだ。「きれい」とか「華やか」とかいうイメージでは正確さを欠くと言うことがあるが、今まで「花」だと思っていたものからは必ずしも実がなるとは言えなくなったり、今まで「花」だと思っていなかったものから実がなることが観察されることがある。 無花果(イチジク)などは、漢字で花が無いと表記されているような植物だ。そのようなものを、「花」の定義を変えて、実をならせるものをすべて花と呼ぶようにしたら、この定義によって、主張が先取りされているような感じがしてしまう。つまり、真理であることを示すために、ご都合主義的に定義を変えたのではないかという感じもしてしまうのだ。 もしご都合主義的に定義を変えて、そのことによって真理性を主張するのであれば、それは科学ではない。例えば、神がこの世を支配していることを証明するために、すべては神の意志として予兆が現れるのだと主張したとする。このとき、予兆というものを、それが現実にそうなる前に判断出来るなら科学になるが、結果としての事実から遡って解釈すると、あああのことが予兆だったと判断するような定義をすれば、これはご都合主義的な定義になる。 結果の解釈によって定義されるような対象が入り込んでくると、これはご都合主義的に真理を主張するための定義になる。解釈ではなく、あらかじめ結果が出る前に判断出来る明確な基準があって定義されるものなら、これはご都合主義的な定義にはならない。見た目は同じように見えても、この違いを理解するのは大切だ。 科学における「花」の定義を、「生殖器である<オシベ>や<メシベ>を持っているもの」とするのは、結果的に実がなることを確かめなくても判断出来る定義となっている。これが、実がなることを確かめた後に判断する定義だったら、「花が咲いて実がなる」という真理は、「<実をもたらす要因>があれば実がなる」という、同語反復に過ぎないものになってしまう。 しかし、実をもたらす結果に関わりなく、今現在の観察によって<オシベ>や<メシベ>が確認出来て「花」だという判断をすれば、それは、結果から解釈する定義ではなくなる。もちろん<オシベ>や<メシベ>という対象も、結果として実をもたらすものというような定義ではなく、今現在の観察で決定出来る定義でなくてはならないが。 今現在の観察で決定出来る「花」という定義から、すべての花には実がなると言うことが真理であることが確定出来れば、「生殖」と言うことの本質が求められたと考えることが出来る。そして、この「花」の定義は、科学の概念として「花」の本質を捉えたものとして理解することが出来る。これは、日常的に使う「花」と定義は違うが、どのような文脈で語られているかが了解されていれば混乱はない。これを、日常用語と違うではないかと非難するのは、科学を知らない人間の戯言だ。科学は、真理を正確に語るために、その概念を明確にし、定義を変えるのだ。 日常的に「花」という言葉を使ったり、芸術表現において「花」を使うときは、もちろん科学の用語としての「花」の意味で使う必要はない。むしろ、比喩的表現においては、「花」と言いながら、それが指す内容は違うものであるという微妙な表現になる。このような微妙な表現をするところに芸術性も表れてくる。 「花より団子」と言ったときの「花」は、決して科学の言葉の「花」ではない。また「団子」も食べ物の団子ではない。これをベタにその意味を受け取ると、まったくことわざとしての理解は出来ない。これは、ことわざとして比喩的表現で受け取らなければならない。「花」は、この場合見た目の美しさを持っているようなものという抽象がされる。「団子」は、見た目よりも実質的に有用性を持っているものと抽象される。そして、ことわざの理解は、「見た目よりも有用性の方が大事だ」という理解をされるのである。 科学として理解することは、さまざまな理解がある中での一つに過ぎない。しかし、それが一つであることを理解して、他との違いを知ることが、科学の何たるかを知ることになるのである。一緒くたにしている自分の論理的混乱を、科学の混乱であるかのように錯覚してはいけないのだ。
by ksyuumei
| 2006-04-15 10:41
| 科学
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